は
+ 発電所(はつでんしょ) +
川辺川の流れを利用した発電所が、五木村にはいくつかある。昭和初期から昭和10年前後に作られたのがほとんどで、その後内谷発電所などができたそう(内谷ダムと内谷発電所があるとも聞いたけれど、まだ未確認。)。端海野には風力発電があるという話も聞いたがこれも未確認。発電所は、九州電力かチッソの所有で、チッソが発電して九電に売電しているらしい。
五木村には発電所から固定資産税が入っていて、村内の収入のうち、少なからぬ割合を占めると聞いた。
+ 早田石油(はやたせきゆ) +
五木村頭地の下手の三叉路にあったガソリンスタンド。長く、早田石油の看板は旧頭地入り口の看板のようなものだった。
近年代替地へ移転し、新しく営業を始めている。代替地の早田石油の辺りが、頭地大橋の付け根になる。早田石油の主は若手村議の早田吉臣さん。働き者で明るいさっぱりしたいい方である。早田石油そばには、日用品とお酒を扱う早田商店がある。ガソリンスタンドは基本的に日曜定休なので注意。
+ 反対派(はんたいは) +
川辺川ダム計画に反対する人のことを略して反対派と呼ばれる。
川辺川ダムの推進、反対によって、平和な村は一転した。小さな村は二分され、特に「明確なダム反対派」は常に少数派であったため、村内でも周囲からプレッシャーをかけられる立場にあった。ダム推進派と呼ばれる人びとでも、ダムの底に故郷を沈めることを喜んだ人は誰もいなかったと言われる。ダムに付随する道や生活基盤整備を待ち望み、国と県、世論に対してダム中止を貫くことは困難と判断した人たちが、より良い条件でダム受け入れをしたと言われている。しかし、ダム反対派にとっては、性急な手続きでダム受け入れへ走り出す村当局と建設省(当時)は自分たちの生活権を脅かし、村の将来まで破壊しようとする存在であり、彼らに対してある意味で賛同の立場を取った村内の「条件付きダム賛成派」の存在もまた受け入れがたい存在であった。逆に推進派にとっては、堅固なダム反対派が村内にいることによって、ダム計画が延び、村づくりが遅れ、結果的に人口流出を招くとされ、一つの問題に対する捉え方の違いは、対立の深まりという悲劇を生みだした。国、県がその仲介をすることはなく、早い時期にダム受け入れを決めた村とともに終始ダム推進の立場から反対派にダム受け入れを迫ってきたと言える。
五木村には公務員や森林組合など、公的な機関で働く人も少なくなく、また建設業に従事する人も少なくない。彼らは自分の立場を表明することは難しく、公務員は公務員で行政の立場に従うしかなく、建設業従事者の心理もまた複雑なものがあった。なお、推進、反対以外にも明確に立場を表明できない人びともいた。
ひ
+ 東俣(ひがしまた) +
川辺川の左岸(東側)の地区をこう呼ぶ。長じて五木村頭地の下手、旧五木東小学校敷地内にある阿蘇神社のことを言うこともある。
+ 東小学校(ひがししょうがっこう) +
五木村には7つの小学校があり、東小学校は一番大きい。2003年4月時点で在校生29人(うち、新入生は7人)。
2003年4月に旧頭地地区にあった旧校舎から移転した。
旧校舎は頭地の入り口にあり、1938年完成、築65年の木造2階建て校舎だった。現役校舎としては県内最古だった。なお、次いで古いのは1950年前後に完成した上色見小(阿蘇郡高森町)、佐伊津中と本町中(本渡市)、大野小(阿蘇郡蘇陽町)、女島小(芦北郡芦北町)、五木中(五木村)だそう。
旧東小の敷地内に阿蘇神社、縄文期遺跡、村指定文化財のケヤキ並木などがある。グランドは、子守唄祭り、盆踊りなど、地域のイベント会場として長く使われてきた。現在の校舎は、開校して2期目の校舎。現在70歳くらいの方たちが当時一期生だった。開校には、地元住民が備品を寄付したりした経緯もあるらしい。今年4月から代替地の新校舎へ児童は移ったが、新校舎の給食室がまだできていないため、現在は給食時だけ児童がスクールバスで下りてきて使っている。
校舎は2003年8月末までに解体予定となっているため、村内外で校舎保存を求める声があった。これに対し村の対応は「延期は無理。解体やむを得ず」とし、その理由は1)シロアリ被害があり改修・保存・移築に費用がかかる。
2)新校舎の給食室が9月落成なので、それまでに解体しなければならない(国交省は、移転補償手続きとして旧建物を更地にすることが条件になっている。現在でも、3月解体を延期してもらっている状態というのが村の説明)
3)全面盛り土(代替農地、代替中・高校用地)造成のために、埋蔵文化財発掘調査を行わなければならないので、時間がない。
4)文部科学省の補助金の関係
としていた。
2003年8月、惜しまれつつ解体され、現在では高低の林が残っている。
2004年夏以降、旧東小学校敷地内で縄文遺跡発掘が開始される予定。大規模な発掘となると予想され、関係者の期待が寄せられている。
+ 火責め(ひぜめ) +
明治10年の西南の役の際、五木村に西郷隆盛率いる薩摩軍と官軍が陣を構えた。薩摩軍が逃げ去る時に周囲の家屋に火を放ったため、五木村の多くの家は明治11年以降に再建されたものだと言う。火を付けることのできなかった家には、薩摩軍の兵士が刀傷だけ残して行ったそうで、その時の傷が残されていた家もあったらしい。洪水と川辺川ダムを「水責め」とするならば、五木村は「火責め」にも遭っていると言える。
+ びゃーどん +
びゃーどんとは五木にいたとんちもの。溝の口の旦那、木野家の先祖に実在した人物で、本名は木野兵衛。お殿様から「茶の実」「キノコ」「じゅうぜん葛(かずら)」を献上するようにと言われて、機知に富んだ対応をして殿様をぐぅと言わせたという話が伝わっている。びゃーどんのお墓は溝の口の木野家向かい側に今でもある。
びゃーどんの話http://portal.kumamoto-net.ne.jp/vill_itsuki/minwa/minwa.htm
ふ
+ 藤田(ふじた)/相良村 +
相良村の一番北の集落。川がカーブしたところに傾斜地があり、そこにあった30戸が移転対象になった。現在では白いコンクリートの構造物の建設工事があっていて、昔の面影はない。
へ
+ ペンション黒木(ぺんしょんくろき) +
五木村宮園地区、上平野(かみひらの)にある宿泊施設。黒木晴代さんが経営。
25畳のワンルームはロフトも付いており、宿泊者はここで山の幸を味わったり、晴代さんのガイドで山の散策を楽しんだり、農業体験をしたり、何もせずにただのんびりしたりと思い思いに過ごせる。詳細は九州ハイランド活性化協会HPのガイドインストラクターのページにも掲載あり。
TEL0966-37-2168
ほ
+ 棒踊り(ぼうおどり) +
高野と瀬目に伝わっている。※調査中※
+ 防災行政無線(ぼうさいぎょうせいむせん) +
村内全家にある無線のこと。消防署と役場と各家が無線でつながっており、大雨洪水警報や常会、役場や農協、林業組合などからのお知らせを必要な際に放送している。五木の人は大雨洪水注意報や警報に敏感である。急峻な山と民家が近接しているため、大雨が降れば土砂災害の恐れがあるからである。梅雨や台風の季節になると、役場経済課職員は毎日のように村道を走り、土砂崩れが起きていないかや通行止めの場所をチェックしなければならない。実際に、大雨がちょっとでも続くと必ずと言っていいほど村内のどこかに土砂崩れが起きてしまうらしい。
+ ボウズ山(ぼうずやま) +
ボウズ山とは久領の裏の山のこと。五木小川と川辺川が合流するその間にある、小高い山である。なぜボウズ山なのかは分からないが、ボウズ山の麓には新泉寺があるので、その坊主のことなのかもしれない。麓の頭地発電所では昔定刻になるとサイレンを鳴らしていたのでサイレン山とも言ったらしい。西俣の阿蘇神社もボウズ山の麓にある。昔の子守唄温泉の窓から見えたのもこのボウズ山の山腹。
+ ホタル(ほたる) +
五木村では今でもホタルをよく見るが、昔はもっとすごかったらしい。地上数mのところに、長さ200mくらいに渡って群でいたらしく、明るいくらいだったらしい。今でもそのくらいホタルが出るポイントもあるらしい。役場にはホタルの乱舞の写真が飾ってあるが、確かにすごい。キレイである。→ 五木村商工会のページよりhttp://www.kumashoko.or.jp/itsuki/event/html/hotaruranbu.html
+ ホタルツリー(ほたるつりー) +
知る人ぞ知る梶原川のホタルの群舞。川沿いの木にホタルがたくさんとまり、一斉に点滅するようすはさながら天然のクリスマスイルミネーション。人によってはこれをホタルツリーと表現する。
+ ホタルまつり +
毎年6月初めに、五木村商工会が開いているお祭り。今年(2003年)で第13回で、会場は五木中学校のグランド。商工会青年部や地元の人達によるヤマメの塩焼き、ビール、豚足などのほか、夜店も出ている。人吉高校吹奏楽部による演奏や、ホタル餅投げ(中に5円玉やくじが入っている)、利き水大会、ヤマメ塩焼きなどもあり、フィナーレは豪華景品があたるくじ引き。村外からの参加者が多いが、地元の人達も遊びにやってくる。
http://www.kumashoko.or.jp/itsuki/
+ ぽっくり堂(ぽっくりどう) +
地元の人がぽっくり堂と呼ぶお堂があるらしい。分からないので確認中。久領にあった薬師堂のことか?
+ 仏岩(ほとけいわ) +
仰烏帽子(のけぼし)山にある石灰岩のこと。昔この岩の中にお釈迦様を見た人がいたことから、仏岩と呼ぶようになったとか、お釈迦様の形に岩が似ているからこう呼ぶのだとか諸説がある。
+ 保楊枝(ほよじ) +
川辺川沿いの村北部、宮園地区より少し上の左岸側の数集落を保揚持と呼ぶ。現在民家は1戸しかなく、他の家は川沿いの住宅に移転したり村を離れた。年寄りが多くなったのと、災害等が心配されたためらしい。位置的には平野の真向かいに当たる。また保楊枝地区の地主である「保楊枝のダンナ」と呼ばれる家(尾方家)がある。
2003(c)Itsuki supporters.all rights reserved.