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 猿(さる) 
五木村ではここ10〜15年くらいの間に、猿や鹿が激増しているらしい。猿は最近では国道沿い、川沿いにまで降りてくるようになって、庭先の野菜を荒らしたり、山の椎茸や栗を食べ尽くしてしまったりとかなり悪質ないたずらをして住民を困らせている。猿も鹿も駆除申請をして駆除することがあるが、猿は人間に似ているので銃を向けるのをみんな嫌がるそうだ。庭仕事をして家に戻ってきたら、玄関のたたきに猿が座っていたとか、庭で音がするから戸を開けると猿が大根を小脇に抱えて逃げようとしていたとか、嘘みたいな本当の話も多い。山の栗畑や椎茸を守るために、電気の通る防御ネットを買って設置しても、猿は木から木へ飛び越えてくるので役に立たない。イノシシは、電気の通っていない線を鼻先で引っ張って通れるように穴をあけたり、ネットの下に穴を掘って入ったりするそうだ。
猿が川を渡って移動する姿もよく見られ、国道445号線を歩いていても時々「ギャー」「キー」という猿の叫び声を耳にする。
猿や鹿を可愛いと言っていられるのは、ヨソ者的視点である。地元は生活がかかっているのである。猿やシカ、イノシシの被害に遭うと、収入が減るわけだが、役場やJAなどからは十分な被害補償は行われていない様子。今のままではイタチごっこで、効果的な対策が急がれるところである。

+ 逆瀬川(さかせごう) +
水没予定地の一つ。九電の無人発電所がある。
 → 「水没地」

+ 逆瀬川九電第二発電所(さかせごうきゅうでんだいにはつでんしょ) +
 → 「発電所」

 サド 
野草の一種、イタドリのことを地元ではサドと呼ぶ。道ばたに生えていて茎にえんじ色の斑点があり、手折ると「ポキッ」という音がする。よく似た植物に「ヘビサド」というのがあり、こちらは食べられない。見分け方は茎のえんじ色の斑点の大きさ、数(ヘビサドは斑点が薄く数も少し少ない)や、茎が節に関係なくまっすぐのびているかどうか(サドの方がまっすぐ。ヘビサドは節を境に若干曲がっている)、それに手折ったときに音がするかどうか(サドは音あり、ヘビサドはなし)だそう。皮を剥いてそのままかじったり、塩漬けにした後で炒め物にするのが一番オーソドックスで、その他炊き込みご飯などにする調理法もある。

+ 椎茸(しいたけ) +
五木あたりではナバとも呼ばれる。きのこ一般をナバということもある。多くの家が自家消費用に椎茸栽培をしていて、中には生業として育てている家もある。山に囲まれた五木にあって、重要な現金収入手段の一つだった。近年、鹿や猿による椎茸被害が大きくなり、全滅に近い年も出ているという。対策が急がれる。村内のお店や物産館などでは、生シイタケや乾燥シイタケを購入できる。生シイタケのサイズがでかい。

 鹿(しか) 
猿同様、鹿の数も近年で激増している。山が荒れていたり、林道が増えたりしたためか、最近では里の方まで降りてくる。頭地代替地あたりでもたまに鹿が歩いているのを見る。五木村の人口より鹿が多いそうで、駆除をしても切りがなくて困っている。
 → 「猿」の項参照

 四季の里(しきのさと)  
国道445号線沿いに相良村から五木へ入ると、途中左手に展望台と売店がある。ここが瀬目公園で、この売店が「四季の里」である。四季の里は、瀬目という標高500mくらいのところにある7戸の集落で、四季の里はここの婦人部、老人会が一緒になって「マロン会」というグループを作り、地元産の農産物や山菜の加工品を生産し、お店を運営している。 詳しくは週刊ひとよし記事を。
朝8:00〜16:00。定休日は毎週火曜日。TEL0966-37-2822
 → 関連「瀬目公園」

+ 地獄の一丁目(じごくのいっちょうめ) +
相良村から五木村へ抜ける道は数十年前まで悪道で、カーブが多い上に狭く見通しが悪かった。車体をガードレールや岩でこするのは日常的で、トラックもガリガリ音を立てながら走っていたらしい。途中でバスがはまって動けなくなり、乗客が降りてバスを押したという思い出話もある。事故も時々起こったため、相良村藤田の辺りのカーブは「地獄の一丁目」とも呼ばれていたと聞いた。

+ 地蔵(じぞう) +
五木村にはお堂が多く、お地蔵さまもかなり多い。堂に祀られていることもあれば、道ばたにひっそりと祀られていることもある。
耳の病気に効くお地蔵様(金川?)、安産と子どもの成長を願う子安観音(田口)などもある。
**現在鋭意制作中**

 地蔵前婚(じぞうまえこん)  
 五木では古く、地蔵前婚の風習があった。結婚式の時に2体の地蔵を花婿、花嫁が結婚式の場所まで運び、その前で結婚の誓いを行うもの。今では行われていないが、その時に使った地蔵が、頭地の新泉寺の入り口に残っている。

 下谷代替地(しもたにだいたいち) 
 水没予定地になった下谷集落からの移転者の家と、村営住宅がある。国道445号線から山手に少し上がったところで、国道からはあまり見えない。

 下手(しもて) 
 頭地地区の一番下流側にある集落。上流側に田口、川を挟んで久領と隣接している。村の入り口であり中心地で、旧役場庁舎、森林組合、商工会(この二つは現在も下手にある)、民宿(五木荘は今も下手にある)、商店(代替地へ移転、あるいは閉業)、ガソリンスタンド(去年末から代替地へ移転)などがあった(ある)。下手はさらに二瀬、栗瀬、舟戸の3地区に分かれていたので、3人のダンナがいた。下手のお堂が頭地橋のたもとにある。

 下頭地ダム(しもとうじだむ) 
 昭和28,29年頃から電源開発株式会社が発電ダム計画の調査を始め、昭和32年には「下頭地ダム計画」を発表した。下頭地とは、板木から下手に至る地区の名前。その後建設予定地は突然、下流の藤田地区(現在の川辺川ダム計画地付近)に移動。村の中心地を一企業の利益のために水没させるという計画に、村と村民は強く反対を表明。電源開発は昭和35年前後に計画を中止せざるを得なくなった。板木には電源開発の事務所まで作られていたらしい。この電源開発のダム計画では11万〜14万キロワットの発電が計画されていた(現在の川辺川ダムは、1万6500キロワット)。電源開発のダム撤退には、下流の球磨村で計画していた神瀬ダム計画が、同じく人吉市民らの反対運動等によって中止を余儀なくされたこととも関連しているらしい。
 電源開発社によるダム計画はここで一旦白紙になったが、その後、国土総合開発計画の中で下流の高原台地への灌漑ダムとして再度着目され、昭和38年からの水害後には治水ダムとして有力候補となり、昭和41年7月になると川辺川ダム計画が発表されることとなった。この後、村がダムを受け入れざるをえない状況に追い込まれる背景には、国と県による五木村への強引な圧力があった。

+ 商工会(しょうこうかい) +
http://www.kumashoko.or.jp/itsuki/
昭和38年12月24日設立。会員は53名(業種区分では59名)。頭地地区下手にある。青年部、女性部がある。会長は田山淳士(きよし)さん、副会長は田中雄士さんと早田吉臣さん。地域の発展、商工業の振興と村の活性化を目指し、会員一丸となってさまざまな活動に取り組んでいる。ホタル祭りなど商工会主催イベントもある。
所在地/〒868-0201球磨郡五木村2909-3
TEL/ 0966-37-2321
FAX/ 0966-37-2323
mail/ maito:ituki@lime.ocn.ne.jp

+ 縄文遺跡(じょうもんいせき) +
五木村には至るところから縄文遺跡が出ている。有名なのは五木東小学校校庭の頭地下手遺跡だが、ダム関連工事実施前の埋蔵文化財発掘調査によって、鏃(やじり)、土器片、住居跡などさらに多数の遺跡が出てきた。

 ショーローさん(精霊さん) 
先祖の霊のこと。毎年お盆になったらショーローさんが帰ってくると言われた。お盆にはお墓を掃除して花やお神酒を供えた。ショーローさんは家まで帰ってくるので、家ではごちそうを作った。

+ 白滝(しらたき) +
五木小川沿いにある、高さ70m、幅200mの石灰岩の岸壁。近くに白滝公園がありそこから行ける。人吉から1時間、宮原町から40分。産交バス小鶴バス停から歩いて5分。→ 商工会のページhttp://www.kumashoko.or.jp/itsuki/kanko/html/kanko_004.html

 人高(じんこう)  
 人吉高校のこと。人吉市北願成寺にある人吉高校本校を指すこともある。これに対し、五木村中学校に隣接している人吉高校五木分校は「五木分校」「分校」と呼ばれることもある。

+ 振興公社(しんこうこうしゃ) +
高野代替地にある村出資の法人。温泉センター運営など、村営施設の運営をしている。

+ 新泉寺(しんせんじ) 
五木村頭地の久領にある曹洞宗のお寺。現在の住職は吉澤庸道氏。
境内には大平銅山労働者のための観音堂や、歴代住職の墓、地元の人の墓地などがある。お寺へ続く門には、1対の向き合ったお地蔵さんがいるが、これは地蔵前婚の風習の名残。結婚式のたびにここからお地蔵さんが式場へ運ばれたらしい。

+ 森林組合(しんりんくみあい) +
五木村頭地の下手にある。林業家の組合で、山から木を切り出す時には個人で切るか、森林組合に依頼して労務班の人に切ってもらう。西村村長は長く森林組合長だったらしい。


+ 水害(すいがい) +
 大雨による災害を水害とするならば、昭和38年からの3年連続水害は五木村の歴史を変える大きな出来事だった。中でも五木村で最もひどかったのは昭和38(1963)年の水害だった。朝、小降りだった雨は10時頃から「天の底が抜けたような」豪雨に変わり、村内数カ所で大きな土砂崩れや鉄砲水が相次ぎ、死者11名が出る被害となった。増水と土砂崩れで家を流された人も多く、交通路は寸断され、出荷を待っていた炭や田畑もすべて台無しになった。当時の山は拡大造林の真っ最中で幼木が多かったことも原因の一つと言われている。
 この水害は下流人吉でも洪水となり、治水ダムの話が持ち上がり始めた。38年の水害から1年後、2年後も同じような水害が続き、復興しつつあった村は再度大きな打撃を受けた。災害復旧工事は村の産業構造を変え、衰退しつつあった炭焼きや山の仕事が減って行った。昭和41年7月、突然国土交通省は「川辺川ダム計画」を発表。ダムの目的は治水だったが、その後間もなく、利水と発電等が加わり、多目的ダム計画になった。またダムによる水害を防ぐためにと、県営五木ダム計画もある。これは川辺川上流に建設予定となっていて、いわゆる「穴空きダム」だそうだ。

+ 「水源地域対策特別措置法」(すいげんちいきたいさくとくべつそちほう) +

 法令は http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S48/S48HO118.html
 または http://www.houko.com/00/01/S48/118.HTM
 同法施行令は http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S49/S49SE027.html

 →国土交通省 土地・水資源局水資源部
  「水源地域対策特別措置法」について
  http://www.mlit.go.jp/tochimizushigen/mizsei/i_watersupply/watersupply01.html

 →(財)日本ダム協会 ダム事典
  「水源地対策特別措置法」
  http://wwwsoc.nii.ac.jp/jdf/Dambinran/binran/Jiten/Jiten_07.html
■水源地対策特別措置法
 ダムの建設は地域に与える影響が大きいので、ダム周辺の地域振興を図るため、昭和48年10月17日に水源地域対策特別措置法が制定され、水源地域の振興のための中心的な制度として大きな役割を果たしてきています。
 この法律は、水源地域の生活環境、産業基盤等を計画的に整備し、併せてダム貯水池の水質汚濁の防止等により、水源地域住民の生活の安定と福祉の向上を図り、これらを通じてダムなどの建設を促進し、水資源の開発と保全に寄与することを目的としています。
 対象となるのは水没戸数20戸又は水没農地20ha以上のダム(補助率嵩上げの対象となるのは、150戸又は150ha以上、北海道などについては例外あり)で、この要件に該当するダムが対象ダムとして指定され、水源地域整備計画が策定され、整備計画に基づいて道路、下水道、レクリエーション施設、公民館、福祉施設など広範な整備事業が実施されます。事業実施のための費用については、国の補助(一部のダムは補助率の嵩上げ)があるほか、水源地域の市町村や県が負担する事業費の一部を受益者(下流の自治体や水道、発電などの事業者)が負担する制度も盛り込まれています。
 昭和49年4月に法律が施行されてから平成15年1月までに94ダム1湖沼水位調節施設が指定され、このうち84施設については水源地域整備計画が策定され、さらに、このうち45ダムについては整備計画に基づく整備事業が完了しています。
 なお、法律の名前は、略して「水特法」と呼ばれることがあります。((財)日本ダム協会 「ダム事典」より)

 推進派(すいしんは) 
川辺川ダム建設に賛成して推進する立場に立つ人たちのこと。ダム反対派は「反対派」と略される。
川辺川ダムの推進、反対によって、平和な村は一転した。小さな村は二分され、特に「明確なダム反対派」は常に少数派であったため、村内でも周囲からプレッシャーをかけられる立場にあった。ダム推進派と呼ばれる人びとでも、ダムの底に故郷を沈めることを喜んだ人は誰もいなかったと言われる。ダムに付随する道や生活基盤整備を待ち望み、国と県、世論に対してダム中止を貫くことは困難と判断した人たちが、より良い条件でダム受け入れをしたと言われている。しかし、ダム反対派にとっては、性急な手続きでダム受け入れへ走り出す村当局と建設省(当時)は自分たちの生活権を脅かし、村の将来まで破壊しようとする存在であり、彼らに対してある意味で賛同の立場を取った村内の「条件付きダム賛成派」の存在もまた受け入れがたい存在であった。逆に推進派にとっては、堅固なダム反対派が村内にいることによって、ダム計画が延び、村づくりが遅れ、結果的に人口流出を招くとされ、一つの問題に対する捉え方の違いは、対立の深まりという悲劇を生みだした。国、県がその仲介をすることはなく、早い時期にダム受け入れを決めた村とともに終始ダム推進の立場から反対派にダム受け入れを迫ってきたと言える。
五木村には公務員や森林組合など、公的な機関で働く人も少なくなく、また建設業に従事する人も少なくない。彼らは自分の立場を表明することは難しく、公務員は公務員で行政の立場に従うしかなく、建設業従事者の心理もまた複雑なものがあった。なお、推進、反対以外にも明確に立場を表明できない人びともいた。

+ 水対協(すいたいきょう) +
 → 「水没者団体」

+ 水特法(すいとくほう) +
 →「水源地域対策特別措置法」(すいげんちいきたいさくとくべつそちほう) 

+ 水没者対策協議会(すいぼつしゃたいさくきょうぎかい) +
 → 「水没者団体」

+ 水没者団体(すいぼつしゃだんたい) +
ダムによる水没地となった場所に住む人を水没者と言った。水没者は建設省(当時)との間で補償交渉をしなければならなかったが、個人個人で交渉するよりも、水没者で団体を作り交渉に当たるのが慣習となった。五木村でも水没者団体が組織された。
五木村には:
1)五木村ダム対策委員会ダム計画発表後に、当時の村長を会長として結成された。村条例に基づく委員会ではなかったこともあり、水没者団体としての位置づけや税金支出について、村内から疑問の声が上がり、住民監査請求や村長を被告に裁判も起きた。そのため後に解散した。
2)五木村地権者協議会(地権協)/元々の名称は「生活権を守る会」。昭和51〜59年まで、裁判闘争を行った団体。当初はダム反対ではなかったが、村行政と国、県への不信が募り、最終的にはダムの基本計画取消を求めて闘った。名前の通り、水没地や代替地予定地の土地所有権を持つ人が多かった。最も多い時期には82戸が参加していた。さまざまな事情から、昭和59年、国との間で和解するに至った。
3)五木村水没者同盟会(同盟会)/村主体のダム対策委員会が解散したのち、その主要メンバーで結成した水没者団体。水没者団体の中で最も多数を占めた。ダム反対ではなく、村と個人にとってより良い条件で補償交渉を進め、地権協とは最も方針が分かれた団体。
4)五木村水没者対策協議会(水対協)/ダム対策委員会のうち、同盟会に入らなかったメンバーで結成した水没者団体。主に代替農地造成を求めて国と交渉を行った。
があった。当初は「ダム対策委員会」だけしかなかったが、ダム対策委のやり方に疑問を持った村民有志が地権協を結成。国はその存在をしばらく認めなかったが、徐々に無視できない動きとなったため、水没者団体として認定して交渉を開始した経緯がある。地権者協議会の姿勢は、立村計画のプランを作らないままに走り出す村行政と国、県に対する牽制であり、治水機能への疑問、村や国・県の村民に対する一方的な押し付けなどについて疑問を投げかけた。現在下流で起きているダム反対運動の動きから考えると、正に先見的な取り組みだったが、当時地権協は常に少数者であり、世論の弱さから村外からの支援と結び付くこともなかった。

+ 水没地(すいぼつち) +
 川辺川ダム計画で水没予定地となった地区のこと。水没地の民家は移転対象となった。
 下流から、小浜(こはま、おばま)、金川(かなごう)、清楽(せいらく)、野々脇(ののわき)、大平(おおひら)、逆瀬川(さかせごう)、下谷(しもたに)、板木(いたぎ)、頭地の下手(しもて)・久領(くりょう)・田口(たぐち)・溝の口(みぞのくち)、池の鶴(いけのつる)、高野(たかの)、土会平(つてひら)、元井谷(もといだに)である。
 村が補償基準を受け入れた昭和59年4月当時で、村の総人口3356人(1019世帯)。そのうち水没地人口は43%に当たる1457人(493世帯)だった。

+ 水曜会(すいようかい) +
 今から7,8年ほど前に地元若手有志で作られたむら作りグループ。ダム建設を前提としながらも、若手であり村外の視点を持つ有志たちが、自由さと大胆さで活気ある五木村の地域おこしやむら作りに関わった。特に、後の村自身による地域振興策である「五木村ルネッサンソン計画」策定の際には、実質的に水曜会メンバーが関わり、行政ではない、村民の立場から提言づくりに関わった。現在は活動していないのが惜しまれるところ。

+ すっぺんこっぺん +
 五木村の方言で、「四の五の(言わずに)」「ぶつくさ(言ってないで)」というような意味を表す。不平を口にしてあれこれ言っている様子をたしなめる時に使うようだ。


 清水バイパス(せいすいばいぱす)  
国交省がダムにからめて計画している、その効果がまったく謎の構造物。
板木(頭地より少し下流)に「水位維持施設」という副ダムを作り、右岸側の山にトンネルを掘ってダムサイトにまで通すもの。
ダム湖の上流の方にある澄んだ水を下流に流すので、ダムができても水質は維持されるというのが国交省の説明。
だが極めて非現実的な話であることは、多くの人が知るところである。また現在かなりうやむやにされつつあるが、五木村は清水バイパスと選択取水装置の建設にはまだ同意していない。

 西南の役(せいなんのえき) 
明治10年の西郷隆盛率いる薩摩軍と当時の官軍との戦い。西郷隆盛は人吉の安国寺に陣を構え、五木村もまた戦場となった。薩摩軍に味方したダンナ家が後に政府からお咎めを受けたが恩赦で許されたという古い資料があるらしい。薩摩軍は逃げ去る時に五木の家々に火を放ったため、五木村では築120年を超える古い民家が少ない。西南の役は地元の人には、火攻めとして記憶されている。

 勢子(せこ)  
猟をする時に獲物を追い立てる役のこと。
カワンタロウ、ヤマンタロウのことを「せこ」とも言うとも聞いた。

 瀬目公園(せめこうえん)  
五木村南部地区、国道445号線沿いにある展望台と売店、トイレのある公園のこと。道を挟んで「瀬目の滝」へ続く遊歩道がある。
 
→関連「瀬目の滝」「四季の里」

 瀬目の滝(せめのたき)  
瀬目公園から山手に入る遊歩道をしばらく歩くとある滝のこと。休憩ついでにどうぞ。

 選択取水装置(せんたくしゅすいそうち) 
清水バイパスと並ぶ、これまた効果に大きな疑問のある設備のこと。ダム計画に関連して計画されている。
ダム水門に付けるもので、下流に流す水を、水温と汚濁度に応じてダム湖のどの高さの水の層から取水するか操作できるものらしい。
しかし数々の調査でも、この効果には大きな疑問符が突きつけられている。
それを執拗なまでに認めない国交省の姿勢にも大いに疑問がある。

+ そば +
五木そばと言えばブランドになっている。しかし、一般のお店で売っている、子守をしている女の子の絵が付いた「五木そば」の多くは、五木村や球磨地方の生産ではなく、大抵熊本市や県内のほかの場所にある会社が作っている。五木そばが有名なのは、コバ作でソバを作ったり、気候の良い斜面を利用してそばを作ったりと、村の特産品だったからだと思われる。最近では村内でそばを作ったり、農業を営む人が減っているため、純粋な村内産のそばは滅多にないらしい。個人消費用に作っているという家はある。
そばは、そば切りにしたり、そば麺にしたりする。そば切りとは、小さな器にそば粉を入れて湯を少しずつ足し、練って箸にからめて醤油を浸けて食べる料理。そば麺はシロウトには難しいらしい。村の人から前に自家製そば粉を譲ってもらったことがあるが、やっぱり地元のそば粉でつくったおそばはおいしい。生産者の顔が見えるのがいい。

+ 村営住宅(そんえいじゅうたく) +
代替地の中には、村営住宅が立っているところもある。野々脇代替地前のバス停も「野々脇村住前」だった気がする。野々脇代替地や下谷代替地など。わたしも村に住みたい。

+ 村花(そんか) +
村の花。五木の村花は「つばき」。

+ 村木(そんき) +
村の木。五木の村木は「いちょう」。

+ 村議会(そんぎかい) +
五木村の村議会は、現在議席10席。現在の議長は照山哲栄氏。最若手の議員は40代の早田、田中議員。定例議会は3,6,9,12月。議場は五木村役場2階にあり、議会事務局から議会だより「やまめ」が発行されている。事務局に依頼すれば議会だよりや議事録も分けてくれるかコピーさせてくれる。

+ 村章(そんしょう) +
村のマーク。五木の村章は下のもので、器と杵臼を表す。丸は太陽。五木村の平和と発展を意味している。

+ 村長(そんちょう) +
現在の村長は、西村久徳(にしむらひさのり)氏。昭和60年に前任者が議会から不信任を受けた後に当選し、現在まで5期を勤める。

+ 村鳥(そんちょう) +
村の鳥。五木の村鳥は「めじろ」。

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なお、このキーワード解説は寺嶋の個人的視点に基づくもので、村の公的な定義ではありません。ご了承下さい。
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