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+ 大乗建設(だいじょうけんせつ) +
五木村の建設会社。本社は頭地代替地の一番右手奥、山つきの場所にある。村議会の議長でもある照山哲栄氏が経営。人吉の藍田付近、農業振興局(合同庁舎?)向かいには、同じく照山氏がオーナーのレストランがある(パフェがおいしい)。故郷らしい外観に配慮した代替地工事を行ったのは大乗建設。

+ 代替地(だいたいち・だいがいち) +
ダムによる水没地と指定された地区の住民が移転したり、代わりの農地として使うために、国交省が造成した場所のこと。
川辺川ダムによる代替地は8ヶ所ある(相良村、五木村合わせて)。基本的に、村内移転を希望する人はその水没地の移転先として造成された代替地にしか移転できない。

<五木村>
1)高野代替地(昭和62年度造成)/一般住宅と振興公社
2)小浜代替地(     〃    )/3戸分が造成されたものの誰も移転しなかったので現在空き地。     
3)大平代替地(平成3年度造成) /一般住宅3戸と神社、お堂
4)下谷代替地(平成10年度造成)/一般住宅と村営住宅
5)野々脇代替地(平成12年度造成)/お堂と村営住宅
6)頭地代替地(平成13年度造成)
 /当初予定より大幅に規模縮小し、約90区画造成。しかし移転を拒む人や転出する人もいるので全区画は埋まっていない。役場、医療センター、郵便局、派出所など。
<相良村>
7)柳瀬代替地(平成56年度造成)/国交省川辺川工事事務所のすぐそば。
8)野原代替地(平成61年度造成)/小浜と同じく、造成されたものの誰も移転しなかった。現在では集落センターと野原小学校の碑だけがあり、空き地になっている。

 → 国交省の、絵に描いた餅のような「五木の村づくりについての政策」については
   http://www.qsr.mlit.go.jp/kawabe/qa7-2.html

+ ダイヤモンドシティ(だいやもんどしてぃ) +
鏡町にあるショッピングモール。広大な売場面積を持つジャスコが入っているほか、スポーツ用品店、TSUTAYA、映画館、パスタや釜飯、回転寿司屋、ファミレスなど、敷地内にはさまざまな店舗が並ぶ。五木村の西俣こと五木小川沿いの地区からは、八代や錦町のサンロードシティに行くより近く、大通峠を越えれば50分くらいで到着する。五木から休日にダイヤモンドシティまで買い物に来る家族も少なくないらしい。また熊本へ向かう3号線沿いにあるため、五木から車で移動をする人たちにとっては割となじみの深い場所のようである。

+ 高野代替地(たかのだいたいち) +
高野地区の集落が移転するための代替地。代替農地も合わせて造成。林業センター、振興公社、旅館、食堂、商店、民家などが移転。昭和62(1987)年に造成完了。

+ タカンポ(たかんぽ) +
説明するまでもないが、竹筒のことをタカンポという。墓前やお堂の入り口に花を生けるのもタカンポ。

+ 嶽野(たけの)/相良村 
ダムサイト右岸側四浦トンネルの上にあった集落。下流から四浦トンネルを抜けて、野原代替地方面に上がり道の途中で左折する。
かつて3戸の民家とお堂があったが、水抜き工事の途中に突然「地すべり地帯」に指定され、移転することになった。嶽野集落は竹野、嶽、竹と呼ばれた。与一左兵衛門(?)と呼ばれる「嶽野集落の祖」が開いたと言われ、矢と銅鏡が伝えられてきた。移転に伴いそれらとお堂は相良村に移された。現在も嶽野にはお堂が残っており、農作業の合間の休憩所になっているらしい。

+ 竹の川(たけのかわ) +
国道445号線沿い、川辺川と梶原川の合流地点。田中商店、ロッジ山小屋などがある集落。

+ 田口(たぐち) +
頭地の一地区。昔の役場の少し上から、子守唄公園の少し下までが田口。他の集落と違い、なぜか田口にはダンナがいない。それと関係しているのかどうか分からないが、田口には集落で持っている共有地があるらしい。田口の公会堂とお堂は、銀杏の木のそばにある。

+ タテノ(たての) +
茅葺きの屋根を葺き替えるための茅を育てる畑を、タテノと言った。タテノは共有地だった。屋根の葺き替えは集落の人達が一緒にやったそうで、今年は誰それさんの家というふうに順番に回ってきた。

+ ダム(だむ) +
五木村の現在を語るのに、ダムの話を抜きにしては語れない。相良村藤田に国交省が計画している川辺川ダム計画は、37年間に渡り五木村を揺るがし続けている。村が反対していた当時、下流や世論にはダム反対の声はなく、国と県、下流の自治体首長らからの強い要請もあって、村はダム受け入れを決めたと言う。その頃になってダム反対の世論が起き始めたため、五木村と下流との間の「時差」は大きな溝となっている。
五木村とダムとの経緯は
こちら

+ 端海野(たんかいの) +
川辺川の上流、泉村との村境の地区。端海野森林公園があり、キャンプ場などが整備されている。キャンプ場の料金はこちら。森林公園では毎年8月にマウンテンバイク大会が開かれている。昨年、陶芸家の永尾さんが端海野小学校(休校中)に移られ、新たな村民となられた。夏でも涼しく標高は1000mを超える。高原なので風が強いらしく、風力発電があるという話も聞いたが未確認??
→「マウンテンバイク」

+ ダンナ衆(だんなしゅう) +
ダンナとは山林地主で、五木村の広大な山林も元は33人の地頭=ダンナ家が所有していたと言われる。ダンナ家は旧家であり、古くは集落の実質者でもあったらしい。公的な職に就くことも多く、村長選挙が初めて実施された頃にはダンナ家出身者か、その他の出身かで争われたこともあるそうだ。ダンナは山持ちで、それぞれ集落にナゴがいた。ナゴは、ダンナ家に対してニシャ(男性)、メロウ(女性)と言われる労働奉仕をすることが慣習になっていた。労働奉仕と言っても強制的なものではなく、茶摘みの時期や木の手入れをする時、早朝からダンナ家に行き仕事をして、まかないもついていた。ダンナ家の多くは財産家でもあり、広大な山林によって収入を得ていたし、また小作料も多くはないながらも徴収していたようだ。コバサクはその集落のダンナ家の土地を借りることが多かった。長い歴史の中で没落したダンナ家もあり、そういった家の土地はナゴや集落の人たちで買い取られたり共有地となったりした。


+ 地権協(ちけんきょう) +
→地権者協議会

+ 
地権者協議会(ちけんしゃきょうぎかい)  +
川辺川ダムによる水没者団体の一つ。
 地権者協議会は昭和48年5月、会員数53世帯で発足。

 昭和47年1月、水没予定地区の住民有志によるダム計画についての自主研究会「木曜会」が発足。同年10月、下筌ダム闘争で住民リーダー室原知幸氏の支援者だった森純利氏を五木村に招き、講演会を開くに当たって団体名を「五木村生活権を守る会」としたのが、地権者協議会の前身になる。ダム計画と、国・県・村行政への懐疑から、最終的には水没団体で唯一、明確なダム反対を主張して裁判闘争を行った団体。
 その名前の通り、水没予定地や代替地造成予定地に土地や家の所有権を持つ住民が会員。一方的にダムを押し付ける国と県、またそれを受け入れ拙速にダム容認へと傾いていく村行政を牽制して慎重な検討をするよう繰り返し要望してきた。地権者協議会の存在は、村民の間にあった「村の未来への不安」を代弁したものであり、当時の国や県、村行政の描いていた立村計画をより具体的なものにするよう求めたのがそもそものスタート。当初から強いダム反対の声を持っていたわけではなかったが、昭和50年末から昭和51年年始にかけ、ダム基本計画の県議会上程をめぐり、村行政との地権者協議会との方向性の違いが浮き彫りになる。これをきっかけにして、地権者協議会はダム反対路を明確に打ち出した。

同51年4月13日、1)川辺川ダム基本計画取消を求め熊本地裁に提訴。その後、2)「ダム対策委員会」設置及び役員報酬等をめぐって、当時の村長を相手取った損害賠償請求訴訟、および3)河川予定地指定処分無効確認を求める訴訟を起こす。
昭和53年12月、熊本地裁は実質審理に入らないまま和解を勧告するが、和解不成立。
昭和55年3月、熊本地裁が地権協の訴えを却下(1)及び3))。同年4月、地権協が福岡高裁へ控訴。
昭和58年、2)の田山親村長を相手取った裁判を取り下げる(被告の死亡による)。
昭和59年4月、高裁での判決を目前に、地権協が実質的に訴えを取り下げ、国との間で和解成立。

 最終的には国と和解したが、ダム反対の立場から、最も早くから村の将来を案じ、絶対的少数派という困難な状況の中で闘いを続けた団体である。現在ではダム反対の世論は強いが、昭和40〜50年代はダム反対の声は全国的に見ても圧倒的に少数であった。わずか人口数千人の小さな村にあって、国を相手に住民自らの生活権を訴えた地権協の方針は、現在のダムをめぐる状況から見ても、極めて先見性に富んだおのであった。
 五木村のダム抵抗の歩みを語る時、まっ先に語られるべき団体であろう。
 詳しくはこちら

+ 
チッソ頭地発電所(ちっそとうじはつでんしょ)  +
川辺川沿い、頭地の久領にある発電所のこと。最大出力5,200kwで、株式会社チッソの所有。
川辺川上流と五木小川から取水しているとも聞いた。発電所の隣りには以前は社宅があり、多くの人が発電所で働いていたが、技術の進展と合理化のため現在は管理者一人がいるのみ。発電所建設の際には多くの労働者が村に入り、朝鮮から来た労働者もいたという。
川辺川ダムにより水没のため廃止される予定となっている3つの発電所の一つであるが、もちろん現在も稼動している。
国交省による説明はこちら

+ 
茶(ちゃ) +
五木村の主要な産品の一つ。
焼畑を終えた山に山茶が自生していたが、近代に入ってヤブキタなど味が良い商品用のお茶栽培が始まった。
自生していたお茶はザイライ(在来種)と呼ばれる。
五木にはお茶の木を垣根として植えている家も多く、自家用のお茶を栽培している家も多くある。昔はそれぞれの家で釜炒りしていたが、現在では機械を使って製茶している。
地元産のお茶は、子守茶屋(頭地道の駅→贈答用)、森口商店(川辺川下流。瀬目谷の橋のたもと→贈答用)、四季の里(下流の瀬目公園→一般用。無農薬茶あり)などで手に入る。

+ 
調印(ちょういん) +
川辺川ダムによる水没移転補償契約に調印することを地元では単に「チョウイン」と言う。
チョウインしたかどうかということは、村内か村外かに移転を決めたかどうかということ。ここ20年間で日常的な言葉になってしまった。


+ 土会平(つてひら) +
五木小川沿い、高野の向かい側にあった集落。4戸のうち1戸だけが土会平に今も暮らす。他の家は、高野代替地や村外へ移転した。行政区としては高野と一つになっている。茶畑があり、村外に移転したが茶摘みの季節にはやって来るという人もいる。

+ 椿(つばき) +
村花はつばき。「五木の子守唄」にも歌われている。

+ つんつん椿(つんつんつばき) +
 → 「五木の子守唄」


+ 天狗岩(てんぐいわ) +
一般に天狗岩というと、吐合の三浦小学校対岸の上にある石灰岩の巨岩を言う。形が天狗に似ているからとか、岩の真ん中にある大きな丸い穴に天狗が住んでいたからだとかいろんな説があるが、とにかく天狗岩。紅葉の季節には美しいとか。
なお、頭地の天狗岩というのもある。こちらは五木中学校グランドの上にある、大きな石灰岩のこと。昔は頂上に旗が立っていたと記憶している者もいる。今は付け替え村道になる予定の道路のトンネルが出来ている(未開通)。なお、五木村では天狗岩という名称はわりとポピュ
ラー切り立った岩に天狗岩と名付ける風習があるようだ。(例:下頭地の天狗岩、頭地の天狗岩)

+ 電源開発(でんげんかいはつ) +
 → 「下頭地ダム」の項


+ 堂(どう) +
五木村にはお堂が多い。各集落にほぼ一つずつお堂があり、それぞれ地元の人たちによって祭られている。
**現在鋭意制作中**

 頭地(とうじ) 
五木村の中心地。下手(しもて)、久領(くりょう)、田口(たぐち)、溝の口(みぞのくち)から成っている。
川辺川と五木小川の合流する頭地地区は、かつてもっとも民家が密集した地区で、役場、森林組合、商工会、へき地診療所、駐在所、郵便局などの公的機関があった。すでに頭地代替地へ移転を済ませた商店や理髪店、ガソリンスタンドや食堂の他にも、スーパー式雑貨店、数軒の旅館、薬局、クリーニング店、畳屋、写真屋、五木タクシー、自転車修理屋などがあり、日常生活品のほとんどを揃えることができた。ダム移転による急激な人口減によって、次第に店を続けることが難しくなり閉店をしていったところが多いが、代替地でも商売を続けているところもある。

+ 頭地橋(とうじばし) +
頭地の真ん中にかかる石の橋。頭地発電所が建設される時にかけられたもので、それ以前は舟で渡しをしていた。「とうぢばし」という文字が橋に掲げられている。昭和38年の水害の時には、頭地橋の橋脚が半ばまで土砂で埋まったそうで、久領の土屋義人さんの家にはその時の写真が残っている。

+ 頭地大橋(とうじおおはし) +
高野代替地と頭地代替地を結ぶ大橋。現在はまだ建設されていないが、完成すると球磨郡一の大きな橋になる。

+ 頭地資料室(とうじしりょうしつ) +
 →「やませみ」の項

+ 同盟会(どうめいかい) +
水没者団体の一つ。村長を会長とするダム対策委員会が解散したあとに結成された。条件付きダム賛成派とも言われる。
会長は照山哲栄氏だったが、最近解散した。 頭地代替地に碑がある。
 → 「水没者団体」

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なお、このキーワード解説は寺嶋の個人的視点に基づくもので、村の公的な定義ではありません。ご了承下さい。
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