+ 週刊ひとよし 「私的“五木紀行”」



その1  2003年4月〜 Vol.1-15
その2  〜2003年12月 Vol.16-31
その3  2004年7月4日〜2005年4月3日 Vol.32-65(終了)

週刊ひとよしに掲載させていただいている、『私的“五木紀行”〜よそもの故の考察〜』です。


Vol.1-15はこちら▼

Vol.16
 ところで五木村の歴史は、いつから始まったのでしょうか。
 旧五木東小学校の校庭では、6500年前の先史縄文時代中期の遺跡が出土しています。私の住む町にも古墳が数多くありますが、頭地下手遺跡ほどの古さと規模ではありません。青井阿蘇神社に分社が祀られている宮地嶽神社も私の住む同じ町内にあり、ここは装飾古墳と古い城跡のある山腹に開かれていて、小学生だった頃は遠足へ行くのが楽しみでした。東小の子どもたちにとっては自分たちが遊んでいるに6500年前、確かに暮らしていた人々がいたわけですから、きっと歴史の時間も生き生きと楽しかったに違いありません。
 縄文時代の遺跡は、村内各地から出土しています。ここ近年はダム関連工事に伴った埋蔵文化財調査が盛んで、国土交通省から県の文化課か村教育委員会に依頼が出る仕組みなのだそう。地形や過去の出土記録から、ここは出るのではないかと当たりを付けて試掘し、その後本格的な発掘調査を行っていると聞きました。
 縄文の昔から人が暮らしていたとは言っても、彼らのがそのまま現在の五木の人々の祖先になるのかというとそうとも言えないようです。狩猟採集が中心だった縄文時代の人びとは、しばらく五木の具合のよい土地に居住したあと、また新天地を求めて移動し、その後にまた別の集団が村に入るということが繰り返されていたのではないかと考えられます。
 日本史の教科書では、紀元前3、4世紀になると弥生時代に入ります。大陸から稲作文化が伝わり、狩猟採集をしながらも生活様式が変わって行ったとありますが、佐賀の吉野ヶ里遺跡や静岡県登呂遺跡などのように水田や水路を伴った大集落となったのは、地形的、気候的に耕作と定住に適した場所だけ。山間や鄙(ひな)では、かなり後の時代まで縄文時代の生活様式が続いていたようです。南九州の山村には稲作が営まれるようになったのがかなり遅い所もあり、五木の農業も長く畑作を中心としたものでした。畑作の一形態であるコバサクも、元々は移動性の高い農業形態。数年間輪作した後に数十年かけてアラしまた元の山林に戻すもので、毎年同じ場所で耕作し続けることができないため広大な面積が必要でした。五木や相良北部の集落の中には、コバサクのための仮のサエ(作業小屋)から発展し、のちに数戸の集落になったものもあるのではないでしょうか。
 さて縄文時代の遺跡からは、石鏃や土器が多く出土しています。金川の発掘現場で、完全な形で出土した鏃を触らせてもらったことがあります。小さなV字型で、青みがかった灰色の石でできていました。絶妙の力加減で削られ、細かく丁寧に加工されていました。鏃や土器は全国どこでも掘れば出るというものではなく、多くの人は博物館や歴史資料館でガラスケース越しでしか見る機会がありません。数千年もの時を越え、たった今土の中から掘り出されたばかりの小さな鏃を手に取ると、なんだか自分の一生なんてほんの一瞬に過ぎないのだなぁと思えてきます。
 縄文時代になると気候が良くなり、針葉樹林が減り広葉樹林地帯が広がって行きました。東アジアから西日本地域にかけては照葉樹林文化という捉え方ができ、植物生態に適合した形での生活・文化様式が育まれ、五木村を含めた九州山地もそれに準じていました。コバサクは単なる原始的農業ではなく、雑穀やイモ、豆類などの多品種輪作と植物の自然遷移との繰り返しによっていて、五木にあっては持続可能な農業形態だったとも言えます。



Vol.17
 7月7日を過ぎると、五木村では庭先に七夕の笹飾りが立てられます。
 高さ4mほどの竹を切ってきて、店で買った飾りや色紙で作った短冊やクサリを飾ります。七夕とお盆とは関係が深く、新暦七夕に飾られた笹は、そのままお盆まで飾られます。8月15日の送り日になると、昔は笹を小さく切り、先祖供養や豊作祈願の意味を込めて川辺川に流していたそうです。
 同じ九州でも、さすがに200キロ離れた私の故郷とは習慣が異なります。明治42年生まれの祖母に聞くと、福岡の辺りでは、昔から七夕飾りと農業とにはあまり関連はなかったそう。子どもが中心の行事で、朝露を取って墨を刷り、習字の上達を願って書道をしたり、願い事を短冊に書いたり。大きな川がないので、流すこともありませんでした。故郷周辺では、毎年13日夕方に花や一握りの線香、小さな水差しと提灯を持ち家族で墓地や納骨堂へ行きます。花と線香を供え、墓前のロウソクから提灯に火を移し、家の仏壇にまで先祖の霊を連れて帰りました。15日夕方には同じようにして、提灯を持ってまたお墓まで送って帰ったものでした。
 五木ではお盆が近づくと、ショーローさんを迎えるための準備が始まります。
 「お盆にはみんなショーローさんが来やっで、ご馳走作って準備せんばん」と聞いたので、「ショーローさんってどなたですか」と尋ねたら、精霊、つまり先祖の霊のことでした。
 お盆は、年に一度祖先の霊が帰ってくる日。昔は一通りの大行事だったようです。集落ごとにショーロー迎えや送りの日と時間も異なっていたそうで、13日までに墓掃除、タカンポの花の入れ替えなどを済ませ、ショーローさんにお供え物を作るのは同じです。集落ごとに習慣的に墓掃除の日時が決まっていたので、先を競うように墓地へ行ったとも。タカンポも今はプラスチック製が主ですが、昔は全部竹で作ったそうで、毎年お盆に新しく作り替えていました。
 「五木の民俗」(五木村民俗調査団編、1993年)によると、地区ごとに少しずつ異なった七夕とお盆の慣習が記録されています。七夕はショーローさんがあの世を出発する日で、七夕竿を目指してやって来るとも言われたとあります。墓地から至る道ハライ、掃除や草取りなど墓コシラエに始まり、盆までにすべてを済ませ先祖を迎えます。お供え物も地域ごとに違うようで、果物や落雁など以外には米、煮しめ、ダゴ、カボチャやソーメンを上げたりとのこと。私も、ショーローさんは生きている人間と同じ食事をするので、朝昼晩と一日に何度も仏前に上げるという話を聞きました。ここに記録されているもので面白いなと思ったのは、その家のショーローさんと一緒に、トモやガキと言われる無縁のショーローさんも一緒に来るとされる習慣があることです。人の出入りが激しく、山川の事故や災害で亡くなる人も多かったという、村の背景もあるのではと思いました。
 それからお盆で忘れてはならないのは、町から子どもたちが帰ってくること。普段は遠くにあっても、正月、盆の帰省は、帰る方も迎える方も楽しみに指折り数えるもののよう。ここ近年は、ダム関連工事によって帰る度に様相が変わっているのではないでしょうか。
 現在五木村の人口は1600人。すべての村民を巻き込んで川辺川ダム問題があり、全国で五木村に縁のあるさらに多くの人たちが、その動向を注視しています。



Vol.18
 五木村の貴重な文化財、民俗慣習については、これまで鶴宗六さん、佐藤光昭さん(どちらも故人)を始めとする「先人」たちによる調査の蓄積があります。
 昭和41年にダム計画が発表されてから昭和50年代末までの間は、ダム絶対反対か受入かをめぐり、特に大きく揺れた時期でした。水没者団体の一つ「地権者協議会」はダム反対の立場から裁判闘争まで行った団体でしたが、会員数は最も多い時期でも村内で80世帯余り。村が一旦ダム受入へと移って後、ダム反対派は常に少数派であり、村行政や他の水没者団体とは対立する立場になりました。

  「村の水没地区が永久に沈むのであれば、この村が日本、世界の他の地域と比べて、一体どういう村だったのかを記録せねばならない。しかし、日本や世界の各地と比較していたのであれば、気の遠くなるような年月がかかってしまい不可能に近い。それならば最低限、五木村のすべてを調査し、その中にあって水没地というものは一体どういう位置づけにあったのかということを記録せねばならない。」

 ダム容認やむなしの雰囲気が漂い始めたその当時、在野の郷土歴史家や文化財保護委員であった方たちはそう考えたのだそうです。ダムによる水没を余儀なくされるとき、このままではその地域の長い歴史が育ててきたものたちが、永遠に失われることになる。後に続く世代のため、失われるその前に記録し残さなくてはならない。時代が下って後にも、五木村民が自分たちの長い営みを振り返ることができるように、と。
水没予定地での民俗調査は、ダム関連事業として実施されるべきものの一つというのが、彼らの考えでした。五木村には各集落ごとに残るお堂や仏像のほかにも、石碑や庚申塔、古い民具や農具、言い伝え、風習や漁法、猟法など、記録しておかなければ急速に人々の記憶から失われてしまう可能性のあるものが数多くありました。志を同じくする村の文化財保護委員の方たちは、正式な調査を行う前の基礎調査として、昭和59年、2冊の五木村文化財に関する報告書をまとめました。それぞれ仕事の合間を見て、手弁当での調査作業でした。
 「五木村にはこれだけの民俗資料がある。専門家による正式な調査をぜひ実施してほしい」。彼らはこの報告書を村と国に提出し、これら文化財に加え、人文、自然両分野での本格的調査の必要性を繰り返し訴えました。その熱意に、ついに当時の川辺川ダム工事事務所所長らは動かされ、必要な予算措置を取ることを約束しました。ところが次の所長の代になると一転、国は予算出費を渋り始めます。なんとか国とかけあい、結局村が費用の一部を負担する形での本格的調査が実施されました。
 団長は村田煕鹿児島大教授。地元の文化財保護委員も、協力者として大いに活躍されました。その膨大な調査資料を集約したものが、『五木村学術調査』(五木村学術調査団編、1987年)人文・自然編の2冊になります。えんじ色の布表紙に、金字の表題。一地方史として誇るに余りあるこの本は、県外の研究家からも好評なのだそうです。
 地権者協議会の会員には、文化や歴史が水没することを懸念してダム反対闘争に加わった人たちもいました。



Vol.19
 村に最初にダム計画が浮上したのは、昭和20年代末。電源開発株式会社によるダム計画に対し、五木村民は一斉に反対の声を上げました。一企業の営利目的のために村を沈めてなるものかという思いは実を結び、ついに事実上の凍結にまで追い込みます。ところが一方でダム計画は生き残り、今度は国土総合開発計画の一環として建設省(当時)と県によって、密かに調査が引き継がれていました。
 とは言っても表面的に大きな動きはありません。ダム水没の恐れから解放され、村民の間からほっと安堵の息の漏れた30年代末。
村を未曾有の大災害が襲いました。
 1963(昭和38)年からの3年は、村史に残る大災害が続いた年でした。大雨だけでなく、38年1月の豪雪、春先から梅雨まで続いた長雨、7月の集中豪雨の後、8月に入ってからは台風9号接近に伴う集中豪雨と、異常気象の1年でした。
 後々まで村民の記憶に刻みつけられることとなった、昭和38年8月17日。その日の朝、折からの長雨は一時小康状態になり、大雨洪水警報は7時35分、注意報に一旦切り替えられていました。ちょうどその日に、五木郵便局職員によるソフトボール大会が予定されていたそうです。「朝8時頃は空も明るく、この分だと雨は昼過ぎまでになんとか上がって、ソフトボール大会も決行されるだろうと思ったくらいだった」。当時の便局員だった方が後に回顧しています。
 ところが正午へ近づくにつれ、天気は一転。突然「天の底が抜けた」ような豪雨が村中を強打します。五木村八重にあった観測所の記録によると、8月17日朝9?10時の雨量は3.6ミリ。それが12?13時には140ミリに達しています。激しい雨は夕方まで降り続きました。川辺川の水位は6メートルにまで上昇、川辺川とその支流数カ所で鉄砲水や土砂崩れが起き、11名の尊い命が失われました。村では、この大雨で295戸が全壊・半壊・流失し、155戸が浸水したと記録されています。
 当時、頭地郵便局には電話交換台がありました。豪雨によって郵便局にも避難命令が出されていましたが、郵便局が無人になってしまうと村内の電話網が完全に途絶えてしまいます。当時郵便局長だった土屋義人さんは、局長としての責任と村からの要望もあり、局員と共にその場に残りました。交換台では途切れなく呼び出しが鳴り続け、その対応に追われながらも、足元からは徐々に水位が上がってきていました。不安な気持ちを抑え励まし合いながら仕事を続けましたが、とうとう電話交換台が水に浸かり、二人はやむなく消防団の出した小船に乗り避難しました。
 上流の横手地区では、川辺川へ注ぐY字谷沿いに、大規模な土砂崩れが起きました。土砂はあっという間に家屋や田畑を押し流し、なだれ込むように川まで一面を、真っ白な泥に埋めました。住民は土砂崩れが起きる前に避難していたため、幸い一人の犠牲者も出さずに済みました。日中だったことに加えて、谷の水が急に止まったのを見た地区の長老がが異常を察知し、皆に避難を勧めたからだとも聞きました。
 横手の対岸、鶴地区でも谷川の上流から鉄砲水が轟音と共に押し寄せ、何人もの方の命が失われました。避難する時間もなく、あっと言う間の出来事だったと言います。
参考資料:「五木村誌」五木村編



Vol.20
 もう少し、ダムと村の関係を追ってみたいと思います。
 昭和20年代末から戦後の拡大造林は第一次ピークを迎えます。全国的に木材が不足し、薪炭林や自然林がスギ、ヒノキの幼木林へと変わりました。専門書によると、植林して10年以内の山では、土中に残っていた元の自然林の根が腐敗し、そこへ若齢の梢が風で煽られると空隙のある土中で根がグラグラと揺れ出し、雨で緩んだ土壌と一緒に崩れやすくなったともありました。五木でも造林のため新たに林道が開かれ、掘削した土砂の処理が済まされていなかった箇所もあったと聞きました。
 当時のことはさまざまな資料や関係者の記憶、関係者の話を聞かせてもらうしかないのですが、ダム問題に隠れ、原因検証に国が未だ踏み込んでいないことは非常に残念です。
 横手の対岸、鶴地区のさらに上流には、炭焼きの仕事のため山奥に居を構えていた家族もおられました。「土砂が流れてくるかもしれないという父の言葉で、身の回りのものだけを持ち家を出た。その直後に家は土砂に飲まれ、見ている目の前で家が流されていった」。今も災害復旧住居で暮らす女性はそう語ります。鉄砲水はそのまま流れ、鶴の民家ごと濁流へとなだれ込みました。逃げる間もない突然の出来事で、轟音と共に土砂が押し寄せ、すべてが土砂の下に埋まったと言います。今年の水俣の土砂災害を見て、40年前の五木村を生々しく思い出された方々も多くおられるのではないでしょうか。
 この災害により交通網、電話網は完全に遮断。自衛隊のヘリコプターや小型飛行機104台、消防団員や警察延べ1000人以上が出動し、行方不明者の捜索や取り残された村民への物資援助、復旧工事に着手しました。この時の被害総額は32億5000万円。全国から義援金が寄せられましたが、当時の村財政が6000万円という時代にその54倍という巨額の被害総額でした。尊い人命や貴重な村施設、300戸を超える家屋や店舗、田畑が失われ、穏やかだった村内全体を暗鬱な空気が覆いました。
 数日間の「陸の孤島」期間を置いてのち、人道と電気だけは間もなく仮復旧しましたが、完全復旧のための工事は数ヶ月に及びました。それがやっと一通り終わり、村が再出発へ向けて歩き出した矢先の1年後。昭和39年8月に、村を再び台風14号が襲います。幸い死者こそなかったものの、22戸が全半壊・流失したほか、104戸が浸水しました。
 さらにその1年後には、追い打ちをかけるように「7・3水害」と記憶される集中豪雨が起きます。昭和40年7月のこの災害でも死者は出ずに済みましたが、再び38戸が全半壊・流失し、浸水家屋は156戸に及びました。
 昭和35年当時の五木村総人口は、史上最多の6161名でしたが、10年後の昭和45年には、34%減の4006名に。昭和35年に2267名だった第1次産業就業人口も、10年間で946名と半数以下に激減しました。
 3年間の水害は、村の産業構造を大きく変えたと言われます。コバ作から造林による森林経営へ、小規模農業主体の自給自足的生活から復旧工事による現金収入も取り入れた生活へと移り変わっていきました。日本全国が高度経済成長期の入口で、農山村から都市部へと働き手が集中した時期でした。3年連続水害により、出荷を待っていた数百俵もの木炭も、何代もかけて少しずつ切り開いてきた田畑も家も山もすべてを失った人々には、再出発を誓って村を後にした方も多くいました。



Vol.21
 昭和41年7月14日、五木村で相良ダム建設構想並びにこれに伴う県の五木村振興計画基本構想の説明会が開催されました。
 現在熊本県は、住民討論集会開催や新利水計画策定など、国と地元との「調整役」という立場を取り、一定の役割を果たしつつあります。一方で、水没地の目から見た「県も国と一緒にはしごだけかけておいて、今さらそれを外すのか」という根強い批判も耳にするのには、当初からの県の対応とその後の経緯が大きな要因になっているようです。ダム計画発表時から、県は五木村に対して、ダム受入を前提とした地域振興計画受入以外の選択肢を作らなかったこと、調整役どころか一方的に国と同じ立場を取り、地元へダムとセットでの村づくりのみを強いてきたことは、その後大きな影響力を持つこととなりました。
 話を戻します。ダム計画発表の数日後、五木村議会は全会一致でダム建設反対を決議。年が明けて2月には、村は「五木村ダム対策委員会」を設置します。ダム対策委員会は、佐藤忠村長(当時)を会長に、全議員や商工会、組合等の村内各組織の代表、各集落の区長など村の様々な立場の人が会員に名を連ね、村主導型ながらある意味で村内を網羅した水没者団体でした。ダム対策委は水没部会、五木ダム部会の2つに分かれていました。それぞれ建設省による相良(川辺川)ダム計画と、五木村の水害を防ぐ目的で立案された五木ダム計画への対応策について協議を重ねる場でした。昭和45年になると、村は国に対し「ダム建設に伴う五木村立村計画の基本的要求事項」を提示。その後昭和54年までの間に3回に渡って再要求と回答が交わされ、細かく修正されていくことになります。
 一方地元では、一部の村民とダム対策委との間で、信頼関係を揺るがすような出来事が起きていました。昭和45年、村はダムに関する3点調査測量に伴う覚書に調印。翌年には、村への立入調査測量のための協定書と覚書にも調印しました。依然としてダム対策委ではダムへの賛否が統一されていませんでしたが、ダム対策委は村長を会長とする組織であったため、村民と行政の間で意向が分かれた際、結果的に「行政」の立場を取らざるを得ないというジレンマがありました。46年の覚書では、事前の村民大会で決議されていた内容が、村民に知らされないまま書き換えられるという「改ざん事件」が発覚。国が村に立ち入って調査をする際、事前に村民に通達するという約束であったものが、実際に交わされた覚書の中からは「村に通達する」というふうに書き換えられていました。事前通報もなく建設省職員らが民家に立ち入ってきて初めて、このことが発覚したのでした。
 昭和47年9月になると、村の水没予定地は「河川予定地」指定を受け、一切の増改築や補修事業に制約がかけられることになります。
 「ダム対策委員会だけにまかせておいて良いのだろうか」。
 昭和41年1月、水没予定地区の住民有志は、ダム計画についての自主研究会「木曜会」を立ち上げます。後にダム反対水没者団体を組織することとなった彼らは、ダム受入へと傾いていく村の姿勢を見て、漠然とした危機感を感じ始めていたと言います。その後名称を「五木村生活権を守る会」と改め、河川予定地指定が決まった直後の10月、下筌ダム闘争で住民側リーダーであった故・室原智幸氏とともに闘った森純利氏を招き講演会を開きました。森純利氏は、「五木の七不思議」という言葉を使い、国や村の姿勢の問題点をわかりやすく説明。行政への漠然とした不安は、徐々に確信へと変わりつつありました。



Vol.22
 意外にも下筌(しもうけ)と五木村とにつながりがあったと知って、私は驚きました。
 下筌ダムは、熊本と大分との入り組んだ県境に位置する二連ダムの一つ。東の小国町と西の中津江村の間を筑後川の支流、津江川が流れます。下筌ダムはここをせき止めて、久留米市など下流の都市を水害から守るという治水ダムです。
 周囲は一面の山また山。小雨の煙る寒い日に訪ね、一人湖岸に立ちました。木々の間から立ち上っては消えていく霧を見つめていると、同じ九州脊梁山脈の入口にある五木村と光景が重なります。ここには畑作を中心として、柚やシイタケ栽培、林業による村びとの暮らしがありました。
 「蜂ノ巣城の攻防」としても有名な下筌ダム闘争は、九州の公共事業史に残る住民運動でした。現在ダム水門直下となっている、小国町志屋部落の山林地主だった室原知幸氏をリーダーに、公権と私権とが初めて正面からぶつかった事件。記録的豪雨と水害後の立案、地元自治体の計画反対と容認、真っ二つに割れた住民感情、少数派による裁判闘争という経緯は、五木村ともよく似ています。
 現在、川辺川と下筌が比較されることはほとんどありませんが、川辺川ダム計画が発表された直後、多くの人の脳裏にまず浮かんだのは、この下筌ダムの闘いでした。五木村民の間でも、「ダムに沈められるというのなら、下筌に並ぶくらいの闘いはやろう」という気持ちと、その一方で「住民側はあれだけやったのに、結局ダムはできてしまったではないか」という気持ちがあったと聞きました。昭和30年代の激しい攻防とダム予定地の強制収用・代執行を経て、建設省が下筌ダム本体工事に着手したのは昭和42年のこと。当時まだ多くのダム反対裁判が係争中でしたが、40年代半ばに室原氏が亡くなったことで運動は消滅しました。ダム予定地での測量を阻止するため、川を挟み住民と建設省や地元警察が対峙していた時期には、地元外の人びとの介入による流血事件も起きていました。
 中津市在住の作家松下竜一氏の名著に、『砦に拠る』(筑摩書房、河出書房新社)という作品があります。室原氏の妻ヨシさんの語りを挟みながら、格調高い文章で克明に記録されたこのドキュメンタリーには、後に五木村のダム反対裁判の中で中心的役割を果たした森純利氏も度々登場します。
 「生活権を守る会」がつてを頼って森氏を招き、ダム補償に関する講演会を開いたのは昭和47年10月10日。ダム批判どころか、行政が決めたことに異議を唱えることが“お上に楯突く”と表現された時代でした。「団結こそ!勝利への道」。そう書かれた講演会告知のビラを村内各地に貼り、参加を呼びかけました。いつの時代でも、自分たちが村とは異なる立場であることを表明するのは、そう易しいものではありません。少数派であればなおさらでした。深夜、ビラを貼って回る彼らの胸には、「もう後へは戻れない」という決意と、「これから何かが始まるのだ」という昂揚感が交錯していたと言います。翌51年、会は名前を「水没者地権者協議会」と変え、会員数53世帯で再結成されました。
 昭和51年4月から昭和59年4月まで、熊本地裁、福岡高裁とダム反対裁判を闘った地権者協議会ですが、意外にも当時は「ダム反対」を掲げてはいませんでした。ただ、国や県の拙速な進め方に危機感を抱き、ダム計画そのものやダム後の村づくり、個人や村へお補償案について丁寧に検討することが第一の目的でした。
 それが、昭和50年末から51年初め、県議会への「多目的ダム法に基づくダム基本計画」上程を境に大きく変わります。
(松下竜一氏は現在大分の病院にて療養中です。一日も早いご快癒を願っています)



Vol.23
 昭和47年の河川予定地指定を受け、昭和48年5月17日には「五木村水没者地権者協議会」が発足します。当時、ダムに関して国が交渉相手としたのは、もっぱら村当局と足並みを揃える「ダム対策委」のみ。水没者団体でありながら地権協は数年間存在を無視された状況でした。それが、だんだんと国も存在を認めざるを得なくなるほど、地権協とダム対委とのズレが明確化していきました。
 昭和50年の師走。県議会と五木村は、川辺川ダム基本計画上程を巡り大きく揺れていました。基本計画が県議会へ上程、可決されると、ダム計画は永田町へと上がって行きます。ダム本体計画と付随する多くの関連事業が「正式なもの」としてお墨付きを与えられ、関連予算が付けられていくことにもなります。ダム計画へのゴーサインも同然でした。
 この時、地権者協議会は基本計画上程に強く反対しました。可決されたが最後、地元にとって最も重要なダム受入後の立村計画や生活再建策も振り返られることなく、なし崩し的にダムへと走り出してしまう。代替住宅地も代替農地造成計画も白紙に近く、ダム受け入れ後の村振興計画は、多くの村民の懸念を払拭できないまま、迷走を続けていました。
 11月の開発特別委員会で慎重論が主流だったため、当初12月の県議会では取り上げられない予定となっていました。委員会では球磨郡出身の岩崎六郎、園田茂議員らの働きもありました。最大の理由は、地元が正式に受入を決めていないのに基本計画を協議するのは時期尚早というもの。検討を重ねて、少なくとも次の3月議会までは持ち越される見込みだったわけです。自民党議員でさえ、地権協に対し「五木がダム受入を決めるまでは、基本計画上程はしない」と約束していました。
 同じ村に暮らし、同じ課題に直面しつつも、違う視点に立った村民もいました。
 この時、ダム対策委員会が取ったのは、基本計画上程支持という立場。当時の村長を会長とするダム対策委は、不安定でぼんやりしたままのダム計画に「戸籍」を与えて立村計画や生活再建計画に予算枠を取ることを確約させ、ダム受入後へ向けて進むべきという、県からの強い説得がありました。
 すでに計画発表から10年近くが過ぎ、過疎化と林業の斜陽化が押し寄せていました。長引くことで村の将来計画が停滞するよりも、ダムを早期に受け入れ、それを起爆剤とした村づくりへと進みたいという気持ちもありました。委員でもある一部の村民は、当時自民党県連会長だった河津寅雄小国町長の元へ陳情に走りました。一刻も早く県議会で基本計画を議決してほしいというその要望は聞き入れられ、逆に地権者協議会との約束は裏切られました。国と県は当初からダム絶対建設の態度を崩さず、執拗な説得が続けられていました。故郷の水没を拒む気持ちと、ダム受け入れは仕方ないのではないかという諦めの気持ち。村民の気持ちも大きく揺らいでいる時期でした。
 昭和51年の12に一旦は見送られた基本計画は、年明けの1月に開かれた臨時議会で息を吹き返し、混乱の中で基本計画が決議されました。基本計画上程を進める村に対し、森純利氏とともに地権者協議会の人たちは詰め寄りました。
 どちらにも理があり、どちらが誤っていたという観点で捉えることはできません。五木村の将来をよいものにしたいという同じ場所を目指しつつ、その結論へ至る道が大きく違っていたということなのだろうと思います。その違いが対立と作り、平穏なこの村に、長きに渡る苦しい道のりを強いることとなりました。
 


Vol.24 (2003.10.12掲載)
 地権者協議会が起こした裁判は3件。そのうちの一つは、ダム対策委員会の役員報酬支払いについての住民監査請求が下地にありました。ダム対策委は当時の村長を会長とした委員会で、村条例にも規定はないままに成立していました。連日の協議や交渉には多くの時間が割かれ、役員報酬は村財政から支出されていました。このことに対し、条例に基づかないダム対策委委員への報酬支払いは違法であるとして、住民監査請求が起こったのです。提訴されたのは、昭和51年2月のことでした。
 1月の県議会通過を受け、3月30日にはダム基本計画(建設省告示684号)が告示されます。昭和51年4月13日、地権者協議会は、川辺川ダム基本計画取消訴訟を熊本地裁に提訴。5月、役員報酬の違法性をめぐり問題となっていたダム対策委は解散しましたが、責任所在が不明確であったため、続いて地権協は、村長を相手に損害賠償請求訴訟を提訴。さらに、水没地の将来を強く拘束しつつあった河川予定地指定の無効確認を求める訴訟を起こしました。
 村民全体の合意を得ないままの見切り発車が、地権者協議会の立場を硬化させていました。法廷で原告ら全権代理人となった森純利氏が、「五木の不幸は、村長がダム対策委員長になったことから始まっている」。そう話したことがあります。行政の立場に立つのか、水没地村民の立場に立つのか。揺れ動いたであろう村長の苦しい心中も理解できないわけではありませんでしたが、村長を長とするダム対がダムの積極的受入を推進する側に立ち、ダム基本計画上程を押し切った時、地権者協議会の腹は決まりました。「あなた方がそういった立場を取るのであれば、私たちはダム反対に回らざるを得ない」。ダム計画促進への牽制から、断固ダム反対へ。昭和50年末、ダム基本計画上程へ向けた動きをめぐり、地権協が村長へ申し入れをした際の様子を記録したカセットテープには、森純利氏らの言葉が残されています。
 51年5月、違法性まで問われたダム対策委員会は解散し、村条例に基づき村行政の立場に立った「ダム対策審議会」が発足しました。まもなく、ダム対策委員会水没部会メンバーを中心とした住民らが、「川辺川ダム対策同盟会」を組織。位置づけの曖昧だったダム対策委が、行政と住民との二団体に分かれた形になります。どちらも、地権協とは別の五木の将来像を描き、ダム容認の立場から邁進していくことになりました。
 基本計画取消訴訟の提訴から2年後。昭和53年12月、熊本地裁は実質的審理に入らないまま両者に和解を勧告。その後1年間、延べ17回にわたる和解交渉が行われることとなりました。和解交渉中にも、協力要請のため澤田一精知事(当時)が地権者協議会を訪ねたり、ダム建設に伴う損失補償基準提示(延べ3次まで)が行われたりと、ダム計画にブレーキがかかることも、流域住民の合意の有無が再度問われることも、ありませんでした。
 また54年10月には、建設省と村、県、地権協とで高知の早明浦ダム視察にも行きました。公費で旅費を出すとした国の提案を断り、地権協からの参加者だけは自費で参加しました。早明浦で、地権協会員はダムが現実的に何をもたらすかを目の当たりにし愕然とします。「ダムは、決して良いものではなかった」。早明浦の村長の話す重い言葉に、五木の未来が重なりました。


Vol.25(2003.10.19掲載)
 昭和55年3月末、熊本地裁はダム基本計画取消と、河川予定地指定無効確認を求める訴えを却下しました。原告である地権者協議会が判決日に出した声明文の中には、訴えの根拠について次のように述べています。
 「・・・われわれが本件訴訟で裁判所の判断を求めた点は、(イ)川辺川ダムが洪水調整機能がなく、ダム上下流の広範囲にわたって人命財産に甚大な被害をもたらす危険性の極めて大きいダムであること、(ロ)このようなダムは河川法第一条、第二条所定の河川の安全確保義務に違反するものであること、(ハ)その建設によって多数の住民が父祖伝来の土地建物等を奪われるばかりでなく、一村水没で自然および社会・経済循環など、もろもろの住民の生活の基盤が根底から破壊されるということ、(二)このことは憲法二九条所定の財産権の保障に違反するのみならず、同法二五条所定の生存権の保障にも違反するということであった。」
 「これに対し、被告建設大臣は、本件基本計画はいまだ青写真にすぎないので、右基本計画は取消訴訟の対象とならないと主張した。」
 ところが、現実的には青写真ではなく、予算を付けられた関連工事が始まっていました。村内では測量も始まり、補償基準交渉も村と国との間で具体的に詰められている最中でした。県もまた、ダム受入を前提とした「五木村振興計画」を提示していました。
 20年以上を経てもなお、彼らの主張は色褪せることなく、私たちの耳にすんなりと染み入ります。現在、世論やダムをめぐる推進派・反対派の対立で焦点となっているものには、ダム計画が発表された直後からずっと繰り返されてきた議論も多くあります。データや分析が加わっても、ダムを進めようとする国に対峙する住民の眼差しが揺るぐことはありません。
 これら、ダムが地元にもたらす問題にまっ先に向き合うこととなったのは、他の誰でもなく、「水没予定地」と宣告された土地に暮らす住民でした。彼らから見たら、熊本地裁判決は、司法の責務を放棄したとも言える極めて不当なものでした。
 「そもそもダム建設は、それが多数住民に深刻かつ重大な被害をもたらすものであるから、これを建設しようとする起業者側は、誠意をもって話し合いを進め、住民の理解と納得を得て、ダム建設を行なうべきもの」でありながら、建設省はこの基本姿勢を欠き、一方的にダム建設を強行しようという態度に出ていました。この判決では、ダム問題の根本的解決は決してもたらされないとし、翌月初め、地権協は控訴を決めて、闘いの場は福岡高裁へと移されることとなりました。
 国や県の動きに対する牽制として、手探りで始めた活動だったとも聞きます。しかしわずか数年の間に、彼らの間には、決してぬぐい去ることのできない行政不信が生まれていました。極めて少数派であるが故の孤立感とやるせなさは、想像を絶するものであったろうと思います。国も県も、村でさえも、彼らの目から見ると信用には値しませんでした。司法の道に判断を委ねても突っぱねられる。自分たちは間違っていないと自分自身へ言い聞かせながら、誇り高く信じる道を歩むほかはありませんでした。
 この日の声明文は、次のような言葉で締めくくられています。
 「われわれは、危険性の大きい違法なダム建設から美しく平和な五木・相良の里と住民の生存を守るため一致団結して、今後も川辺川ダム建設の違法性を明らかにしながら、あらゆる方法で建設省の住民無視の態度に有効かつ適切な対応をしていくものである。」


Vol.26(2003.10.26掲載)
 地権者協議会が福岡高裁へ控訴したのは、昭和55年4月9日のこと。一審に続き、原告は、五木村水没者地権者協議会と相良村水没者地権者協議会の2団体から構成されていました。一審で101名を数えた原告も、そのまま全員が控訴人となりました。
 高裁への提訴と前後して、地権者協議会の総代理人であった森純利氏が、その任を降りることになりました。免田町出身という森氏が地権協に招かれ、旧五木東小校地にあったへき地集会所で講演をしたのは、9年前の昭和47年10月。会場は400名の村民で満員だったと言います。主催の「生活権を守る会」(のちの地権協)が村行政と別の道を歩むことを明確に示すのは、この集会以降になります。交渉や情報収集、裁判の手続きなど、住民運動の経験のない彼らを勇気づけ、正当な権利を主張するために誰よりも惜しみない支援を尽くしたのは、この森純利氏でした。推進の立場の村当局からは、「森に騙されるな」「室原氏を敗北させた張本人」といった公民館号外まで出されたという記録もあり、放ってはおけないとかって出たのだと、森氏は後に述懐しています。
 その森純利氏と地権協との訣別の理由は、交渉の進め方をめぐる「意見の相違」だったとされます。当時の新聞によると、昭和54年9月に建設省が相良村藤田で藤田橋建設を始めたことをめぐり、その対処方法について意見が分裂したとあります。道路や橋の付替工事については、建設省との交渉の中で、事前協議することがすでに確認されていたにも関わらず、国が協定違反をして無断で着工していたのでした。指摘を受け国側は工事を中止、当地の相良村地権協と総代理人森氏に対し、事後になるがこの問題について協議したいと持ちかけたのだそうです。森氏には、「藤田橋建設の容認はダム容認とは別個、橋に続く付替道路建設さえ許さなければ良い」という考えがありました。そこで、国の申し入れを受け入れるよう五木村地権協に提案しましたが、地権協側は、「また」協定違反を起こした国を許すことができませんでした。
 地裁ではついに審理すら開かれず、熊本地裁は「双方の対話不足」を理由に職権で和解を勧告。地権協も一旦は勧告に従い、国との間で何度目かの和解交渉が持たれていた最中の出来事でした。そんな中でも、ダム建設へ向けて着々と手続きが進められていることへの反発は日々高まり、これ以上の譲歩はあり得なかったのです。国の協定違反に対し地権協は抗議声明を発表。これにより、森氏との間で方針の違いが避けられなくなったそうです。昭和51年に裁判を初めた地権協は、ダム問題を深く知り、国や県、村のやり方を見るにつれて、より一層、ダム絶対反対の意志を強めていました。
 ダム闘争は常にぎりぎりのせめぎ合い。決して譲れない部分は何か、何が最優先事項か。肉を切らせて骨を砕くように、大局的な観点から見て部分的に譲歩することで、有利な状況を作り出すことが果たして可能か。その判断は誰がするのか。地権協もまた、内部のさまざまな意見を一つにまとめ上げ、国という巨大な壁に向かい、一致団結して挑まなければなりませんでした。森氏解任・辞任の裏には、ほかにも複雑な事情があったのかもしれません。この間二人三脚で最前線で闘ってきた森氏との関係について地権協は厳しい決断を迫られ、訣別というやむを得ない結末を選びました。



Vol.27(2003.10.26掲載)
 五木村でのダム計画中止訴訟で原告となったのは、2つの「地権者協議会」でした。相良村にも地権者協議会ができ、早い時期から五木村の地権協と共同歩調を取っていました。相良村には先に「相良村ダム対策協議会」というもう一つ別の水没者団体がありました。しかし、補償基準の早期提示を急いだこの団体に対し、一部の住民らからは反発の声が上がります。「このまま進んでも有利なのは土地持ちだけ。土地や財産を持たざる者にとっては不利な状況しか生まれない」。そのような危惧を感じた人びとは、その頃隣村で始まろうとしていた、水没地の生活再建策と生活権補償を求める動きに賛同。五木村地権協に共闘を申し入れ、熊本地裁への提訴直前に「相良村」地権協を発足させました。
 相良村北部では、野原と藤田の2地区が水没予定地となりました。藤田谷を越えると見えてくる、迫田に囲まれた野原小学校の校舎。S字に湾曲した川のほとりの、わずかな丘陵地に並ぶ藤田集落のたたずまいを記憶されている方も、人吉球磨には多くおられるかと思います。
 こう書くとまるで自分が見てきたようですが、頭地以外の水没地に民家があった頃の様子を、私は写真を通してしか知りません。私が「川辺川」を訪れるようになったのはごく数年前で、すでにほとんどの民家は移転し終えていました。水没地の様子を刻んだ写真集に、建設省川辺川工事事務所が作成した『川辺川の四季』があります。紺色の布地に銀色のタイトル文字の並ぶ大判のページを開くと、今はもう見ることのできない日常風景が、鮮やかな陽光に包まれて生き生きと写し出されています。
 2年ほど前、福岡で川辺川についてのシンポジウムが開かれた際、私も五木村について短い報告を担当したことがありました。その中でこの写真集を紹介したところ、終了後に「今から20年ほど前に、私もその写真集を買いました」と話しかけて来られた方がいました。山歩きを愉しみとする年輩の方で、1983年に写真集が出版された当時五木を訪ね、地元の方からこの写真集を見せてもらったのだそう。ページを彩る四季の移ろいと人びとの日常風景に魅せられたこの方は、川辺川工事事務所所長に直接かけあい、当時はまだ非売品だったこの写真集を特別に分けてもらったのだそうです。福岡で開いたシンポで思いがけずこの写真集と再会し大変懐かしく思った、あの町並みも小学校も今でもよく覚えているが今はどうなっているのだろうと、新聞で五木の字を見るたびに気になっていたのだと話され、会釈を繰り返しつつお連れ合いと共に会場を後にされました。元々この写真集は村内全戸に配布するために作られたもの。最近になってから村役場等で一般向けにも領布されるようになったようです。
 五木と相良で、ダムによる移転が始まったのは昭和56年でした。『川辺川の四季』に納められた写真は、結果として移転開始前の風景を写す最後の機会となった、昭和55年頃に撮影されたものだそう。この写真が撮られて1年後直後に、誰もが予想できなかったような、多くの村外移転が相次ぎました。
 移転開始の引き金となったのは、昭和56年4月29日、国と一部の水没者団体との間で一般補償基準が妥結されたことによります。村行政による水没者団体、ダム対策審議会(旧ダム対策協議会)は、住民監査に端を発し解散したという過去の苦い経験もあり、昭和51年の発足以来、一行政機関のような役目に徹していました。国の実質的な補償交渉相手は、当時五木と相良に暮らす水没地住民によって組織されていた5つの水没者団体。このうち、係争中だった五木村水没者地権者協議会・相良村水没者地権者協議会を除く3団体との間で、ダムによる移転補償基準について合意に達したのです。


Vol.28
 しかしこの当時、代替地計画はまったくと言って良いほど、何も決まっていませんでした。瀬目と国道445号線の間の山中に、金川や清楽など少ない戸数の水没集落を含む村内南部地区の小集落がまとめて移転するため「南部代替地」を造成するという計画もあったほど。もう20年以上も前の話です。村内移転希望者数も代替地の場所も規模も、さあこれからというところでした。熊本県も相変わらずダム促進一点張りでしたが、村の将来像の輪郭はまだぼんやりとした霞の中にありました。
 昭和56〜58年の3年間で、五木から村外へ移転した住民は222世帯619名に上りました。ダムによる移転対象者とされた493世帯1457名のうち、この3年間だけで全体の45%が村を去ったことになります。おおかたの予測を越える数でした。すでにダム計画発表から15年が過ぎ、「あまりに長引き過ぎる」との声も出始めた頃。村の様々な事業は、将来のダム水没を理由として進捗を阻害されていて、過疎化と高齢化、林業の衰退による産業構造の変化はこの小さな山村を覆いつつありました。移転先の目処がないうちに補償基準が確定したこともあり、新生活へ向け一日も早いスタートを願う人たちや、それぞれの事情で補償基準妥結を待っていた人、苦悶の後にやむを得ず離村を選んだ人たちは、次々と故郷を後にしました。
 この補償基準妥結の際、建設省川辺川工事事務所は水没者団体に“3年以内の代替地完成”を約束していました。
 相良村柳瀬、野原、五木村高野、小浜、大平、野々脇、下谷、頭地の8つの代替地のうち、昭和56年に完成していたのは川辺川工事事務所そばの柳瀬柳瀬代替地のみでした。残り7カ所、特に村中心地の頭地代替地の一日も早い完成は、村の存亡に関わる重要な必須事項でした。しかし、ここでも国は村を裏切ります。残り7カ所の代替地完成は約束の期限を越え、最も早い野原代替地でも昭和61年に完成。平成13年にようやく、頭地代替地への移転が可能になりました。実に、20年もの月日が過ぎていました。中には、野原や小浜など、計画段階では移転予定者がいたものの結局1戸も移転しなかった例や、現在は村営住宅地となった野々脇代替地のように途中で利用目的を変更した例もあります。最大の原因は「あまりにも遅すぎた」ためで、他に地形的な理由等もありました。代替地完成の遅れが、多くの人が村外移転を選ばざるを得ない状況を生み出しました。とにかく移転先がないため、現在までに、村外移転者は全水没移転対象世帯の7割を越えることとなりました。
 昭和56年のこの「口約束」を、国が守れそうにないことは分かりきっていたという人もいます。造成地完成には最短で3年はかかると言われていましたが、この約束が交わされた昭和56年は、福岡高裁でのダム反対控訴審が始まってようやく1年が過ぎた時期。両者和解の兆しは皆無で、まったくの膠着状態にありました。無計画でその場しのぎの約束をした建設省担当職員はその責を問われることもなく、本省や九州地方整備局で昇進したり、安泰に定年退職をしたり。地元住民だけが、翻弄されっぱなしの37年間でした。
 頭地代替地は現在でも一部は未完成のまま。代替農地や中・高校移転はまだ計画図でしかなく、川の両岸を結ぶ頭地大橋もまだ橋台に着工されたかされてないかという状態。代替農地もなく、中・高校校舎は老朽化が進んでも手を着けることができず、いつかできるという橋を待たされ続け、住民はもう何年と不便を強いられています。


Vol.29
  
頭地代替地3年以内の完成という約束は、正確には一般補償基準妥結以前に交わされた覚え書きに含まれていました。代替地造成問題は村にとって最重要問題で、この約束があったからこそ、3つの水没者団体は最終的な一般補償基準妥結へと動いたのだとも聞きました。予想外の数と速さで進む離村に、残された住民は危機感を覚えました。移転していく側にとっては新生活への旅立ちの機会でもありましたが、村に残る住民には、残されていくことの寂しさと不安が募りました。
 ダム計画中止を賭け、最前線で国と闘っていた地権者協議会の人びとを突き動かしてきたのも、五木村の未来をよいものにしたいという願いからでした。生活のすべてをかけて裁判で争っていた彼らは、相次ぐ離村者の姿に「なぜ」と憤りにも似た思いを抱くこともあったと言います。一方で、頭地代替地造成予定地には、地権者協議会会員が所有権を持つ農地もありました。「お前たちがダムに反対している限り、代替地造成に着工できない」「代替地完成の遅れが離村をさらに促進させ、村から人がいなくなっていく」。皮肉にもこのことが、ダム反対派である地権者協議会に対し、村内からの批判材料ともなりました。
 農地も家も含め、自分たちの生活権と村の将来を守るためにと裁判を始めた地権者協議会。自分たちのその活動が村づくりの妨げになっているのだと言われた時、その苦悩はどれほどのものだったでしょうか。今後の方向性をめぐって、地権協は大きく揺らぎました。たとえ福岡高裁で負けたとしても、最高裁まで争ってもいいと考えた地権協会員もいました。村長のダム建設同意表明、村議会のダム反対決議の解除、ダム建設へ向けた村民大会開催と、地元では着々とダム受け容れが進んでいました。
 「どんなにいい村を作っても、そこに住む人がいなくなってしまっては意味がない。」
 福岡高裁控訴審判決を目前に控えた昭和59年4月23日。地権者協議会は国との和解を選び、訴えを取り下げました。
 昭和51年の熊本地裁への提訴から8年。唯一のダム反対水没者団体として存在し、ダムに反対する水没者の声を社会に投げかける代弁者として、地権協は大きな役割を果たしたと言えると思います。ダム基本計画発表からは18年が過ぎていました。地権協もまた、村民一人一人の抱えていたダム水没への不安や懸念が結集して発足した水没者団体でした。「団体」としてのダム反対の声は昭和59年をもってなくなりましたが、個々の胸のうちにはそれぞれに異なる思いがありました。立村計画策定や補償をめぐる問題など、裁判は取り下げてもまだ未解決のまま残された仕事も多く、その後も地権協の活動は続きました。
 「ダムが出来て栄えた村がどこかに一つくらいあるはずだと、全国をかけずり回ってそういう例を探した。けれど、結局そんな村はどこにも見つからなかった。五木だけはそうなってほしくないと願っていましたが、私たちはついに一例も見つけることができなかったのです」。
 今はもうダム反対の旗を降ろした地権協の方で、こう話された方がおられました。穏やかにゆっくりと語られるその言葉は、私の胸に重くのしかかるようでした。


Vol.30
 今年5月16日、川辺川利水訴訟が福岡高等裁判所で判決日を迎えました。午後2時を回って数分後、高裁の玄関前に「勝訴」の幕を持った男性が現れて第一報を伝えました。ひとしきり大きな歓声が響き、法廷から出てきた弁護士や原告団と共に、すぐに高裁裏手の弁護士会館で報告集会が開かれました。会場に入りきらないほど原告団や支援者、マスコミなど関係者が集まったため、私たち幾人かは階下で集会が終わるのを待っていました。晴れわたった五月晴れの空の下、どの表情もはればれと明るく、喜びに満ちあふれていました。
 報告集会会場の窓から交互に洩れる歓声と拍手を頭上に聞きながら、私は20年前のことを考えていました。昭和50年代、同じように国を相手取り、地権者協議会がダム基本計画取消等を求め裁判を起こしていました。利水訴訟と同じように、一審で地裁は行政行為への判断を避けた形で棄却し、昭和55年から舞台はここ福岡高裁へと移ります。九州道も未完成だった時代に、五木から200キロ離れた福岡市まで裁判の度に通うのは、相当な時間と労力がかかったことだろうと思います。当時は車を出せる人も少なく、数台に乗り合わせ早朝暗いうちに村を出発していたと聞きました。地権者協議会が苦悩の中、国との和解と裁判取り下げという選択をしたのは、昭和59年4月、高裁判決日の数日前のことでした。
 20年前に五木の人びとが踏んだ同じ地に立ち、利水事業とは言え、同じダム計画をめぐる裁判で住民側が国に勝訴する。第一報を伝えたいと、五木の水没予定地で暮らす知り合いにすぐに電話をかけたところ、五木でもラジオで聴きましたと喜んでおられました。その方もまた、20年前の原告団名簿に名前を連ねていた地権者協議会会員の一人でした。「時代は変わった」の一言では、済ますことのできない経緯と五木村の現在の状況があることは承知しています。しかし、時とともにダムを取り巻く状況も確実に変化しつつあることを感じました。
 山紫水明という例えそのままのこの五木村は、村外からも多くの人が愛してやまない土地でもあります。私が言うまでもありませんが、五木にあるのはダム問題だけではなく、山と川に育まれた人びとの暮らしがあり、連綿と受け継がれた歴史や民俗があります。「五木の子守唄」で全国に知られたこの村が、最近ではダムとの関係だけで取り上げられるのはやや不本意な気持ちがします。よそ者ながら厚かましいのですが、ダムだけではない五木も知ってほしいと大きな声で言いたくなります。それでいて、川辺川ダムというものは現在の五木の上に大きな影響力を持っていることは、誰もが知っている通り。長くダムと村の経緯を書いて来ましたが、もう少しだけ、「よそ者」が見た現在の五木のことを書きたいと思います。なお、私が現在までに知り得た話を元にして書いていますが、多少事実と違うと思われる点もあろうかと思います。ぜひ読者の方からご指摘頂ければ幸いです。
 さて、私が最初に五木へ行ったのは頭地代替地が完成したばかりの頃。トンネルを幾つもくぐって頭地に入ると突然目の前が開け、まだ茫漠としていた代替地が現われたのを覚えています。役場庁舎や、保険福祉センターが開館した直後でした。その後民家や商店が次々と代替地へ移転し、なんとなくよそよそしかった石垣や小径にも、少しずつ人の暮らしの気配がにじむようになってきました。


Vol.31
 久領、下手、田口、溝の口、松本と分かれていた各地区も、代替地移転に伴い、今年4月から新「頭地」として一つの行政区になりました。代替地へ移転以前は、各地区に区長がいて毎月1日には常会と呼ばれる定例会が開かれていましたし、多くの行事が各区別々に行われていたと聞きました。一見ひと続きの集落のように見えますが、それぞれ自分のいる区への思い入れがあったそうで、昔は地区で綱引きがあった後など、血気盛んな若い衆が夜に隣の地区に乗り込み、綱に切り込みを入れたのあの勝負はやり直しだのとケンカになることもあったとか。今は昔のほほえましい話です。
 代替地のどの区画に移転するかは、それぞれ希望を出して村が間で調整し合い決められたそうです。日当たりが良く、できれば真四角に近い区画で、前と同じくらいの広さでとなると、すべての人が希望通りになるわけでもなく、役場で働いているからと遠慮して希望を飲んだ家もいたとも耳にしました。移転前に隣接していた家々には、代替地でも近くに移れるよう希望を出したという話も聞けば、かつて隣り合って暮らしていた家とも離れてしまい寂しい思いがするという話も聞きました。旧道沿いで長く暮らした記憶が新しい分、昔を懐かしむ気持ちはなかなか消えるものではありません。
 さて、平成13年度に完成し、民家や公共施設の移転が始まっている頭地代替地は、現在もまだ完成していないことになっています。代替農地と中・高校移転という計画が残されているからです。
 現在の頭地代替地のある場所は、以前は畑地が広がっていました。旧道沿いに並んでいた頭地集落のちょうど裏山という格好で、山がちな五木村でも数少ない比較的広く農地が広がる場所でした。しかし、頭地集落の代替移転先を検討する際、面積の9割以上が山地という五木村では、地形的に造成候補となるような土地が少なく、最終的に旧頭地地区を見下ろすこの高台に造成することが決まりました。住宅や公共施設が移転するための代替地造成後には、そのために失われた代替農地造成という問題が残ります。国の作った現在の計画では、かつての頭地集落を埋めたその上に新たに代替農地を造成することになっており、また高野にある五木中学校と人吉高校五木分校校舎もこの盛り土部分に移される計画になっています。頭地にも自家消費用の野菜や米を作っていた家々は多くあり、代々先祖から受け継いだ田畑を耕していた家族も少なからずあったと聞きます。水没者団体の同盟会から水対協が離脱した理由は、代替農地造成の目途について国に確約させることを優先すべきという方針の違いからでしたし、当時裁判で国と対峙していた地権協にとっても、代替農地造成の確約は最重要項目の一つでした。
 この代替農地計画も、立案から20年も過ぎてしまったため、現在の造成予定面積のままでは実際のニーズに合わないという指摘があります。事実、高野代替地の近くに造成された代替農地でも、耕作者がいないためすでに荒地となりつつある土地もあるようです。農地も宅地も国から無償で提供されるわけではなく、移転する住民は一旦移転補償契約に調印した後、再び国から購入するという手続きになっています。補償金は宅地や農地を時価換算したものが基本となっていて、本人の望まない移転であるにも関わらず精神的代償などは一切含まれないため、一般に考えられているほど補償金額は大きいものではありません。例え頭地の代替農地が現在の計画通り造成されたとしても、購入希望者が少ないので大半が空き地になるのではないかとも聞きました。予想外の離村や農業従事者の高齢化、社会構造の変化など、公共事業にありがちな「時代の変化」を考慮しない姿勢はここでも同じのようです。

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