+ 週刊ひとよし 「私的“五木紀行”」
| その1 | 2003年4月〜 | Vol.1-15 |
| その2 | 〜2003年12月 | Vol.16-31 |
| その3 | 2004年7月4日〜2005年4月3日 | Vol.32-65(終了) |
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Vol.16 Vol.17 7月7日を過ぎると、五木村では庭先に七夕の笹飾りが立てられます。 高さ4mほどの竹を切ってきて、店で買った飾りや色紙で作った短冊やクサリを飾ります。七夕とお盆とは関係が深く、新暦七夕に飾られた笹は、そのままお盆まで飾られます。8月15日の送り日になると、昔は笹を小さく切り、先祖供養や豊作祈願の意味を込めて川辺川に流していたそうです。 同じ九州でも、さすがに200キロ離れた私の故郷とは習慣が異なります。明治42年生まれの祖母に聞くと、福岡の辺りでは、昔から七夕飾りと農業とにはあまり関連はなかったそう。子どもが中心の行事で、朝露を取って墨を刷り、習字の上達を願って書道をしたり、願い事を短冊に書いたり。大きな川がないので、流すこともありませんでした。故郷周辺では、毎年13日夕方に花や一握りの線香、小さな水差しと提灯を持ち家族で墓地や納骨堂へ行きます。花と線香を供え、墓前のロウソクから提灯に火を移し、家の仏壇にまで先祖の霊を連れて帰りました。15日夕方には同じようにして、提灯を持ってまたお墓まで送って帰ったものでした。 五木ではお盆が近づくと、ショーローさんを迎えるための準備が始まります。 「お盆にはみんなショーローさんが来やっで、ご馳走作って準備せんばん」と聞いたので、「ショーローさんってどなたですか」と尋ねたら、精霊、つまり先祖の霊のことでした。 お盆は、年に一度祖先の霊が帰ってくる日。昔は一通りの大行事だったようです。集落ごとにショーロー迎えや送りの日と時間も異なっていたそうで、13日までに墓掃除、タカンポの花の入れ替えなどを済ませ、ショーローさんにお供え物を作るのは同じです。集落ごとに習慣的に墓掃除の日時が決まっていたので、先を競うように墓地へ行ったとも。タカンポも今はプラスチック製が主ですが、昔は全部竹で作ったそうで、毎年お盆に新しく作り替えていました。 「五木の民俗」(五木村民俗調査団編、1993年)によると、地区ごとに少しずつ異なった七夕とお盆の慣習が記録されています。七夕はショーローさんがあの世を出発する日で、七夕竿を目指してやって来るとも言われたとあります。墓地から至る道ハライ、掃除や草取りなど墓コシラエに始まり、盆までにすべてを済ませ先祖を迎えます。お供え物も地域ごとに違うようで、果物や落雁など以外には米、煮しめ、ダゴ、カボチャやソーメンを上げたりとのこと。私も、ショーローさんは生きている人間と同じ食事をするので、朝昼晩と一日に何度も仏前に上げるという話を聞きました。ここに記録されているもので面白いなと思ったのは、その家のショーローさんと一緒に、トモやガキと言われる無縁のショーローさんも一緒に来るとされる習慣があることです。人の出入りが激しく、山川の事故や災害で亡くなる人も多かったという、村の背景もあるのではと思いました。 それからお盆で忘れてはならないのは、町から子どもたちが帰ってくること。普段は遠くにあっても、正月、盆の帰省は、帰る方も迎える方も楽しみに指折り数えるもののよう。ここ近年は、ダム関連工事によって帰る度に様相が変わっているのではないでしょうか。 現在五木村の人口は1600人。すべての村民を巻き込んで川辺川ダム問題があり、全国で五木村に縁のあるさらに多くの人たちが、その動向を注視しています。 Vol.18 五木村の貴重な文化財、民俗慣習については、これまで鶴宗六さん、佐藤光昭さん(どちらも故人)を始めとする「先人」たちによる調査の蓄積があります。 昭和41年にダム計画が発表されてから昭和50年代末までの間は、ダム絶対反対か受入かをめぐり、特に大きく揺れた時期でした。水没者団体の一つ「地権者協議会」はダム反対の立場から裁判闘争まで行った団体でしたが、会員数は最も多い時期でも村内で80世帯余り。村が一旦ダム受入へと移って後、ダム反対派は常に少数派であり、村行政や他の水没者団体とは対立する立場になりました。 「村の水没地区が永久に沈むのであれば、この村が日本、世界の他の地域と比べて、一体どういう村だったのかを記録せねばならない。しかし、日本や世界の各地と比較していたのであれば、気の遠くなるような年月がかかってしまい不可能に近い。それならば最低限、五木村のすべてを調査し、その中にあって水没地というものは一体どういう位置づけにあったのかということを記録せねばならない。」 ダム容認やむなしの雰囲気が漂い始めたその当時、在野の郷土歴史家や文化財保護委員であった方たちはそう考えたのだそうです。ダムによる水没を余儀なくされるとき、このままではその地域の長い歴史が育ててきたものたちが、永遠に失われることになる。後に続く世代のため、失われるその前に記録し残さなくてはならない。時代が下って後にも、五木村民が自分たちの長い営みを振り返ることができるように、と。 水没予定地での民俗調査は、ダム関連事業として実施されるべきものの一つというのが、彼らの考えでした。五木村には各集落ごとに残るお堂や仏像のほかにも、石碑や庚申塔、古い民具や農具、言い伝え、風習や漁法、猟法など、記録しておかなければ急速に人々の記憶から失われてしまう可能性のあるものが数多くありました。志を同じくする村の文化財保護委員の方たちは、正式な調査を行う前の基礎調査として、昭和59年、2冊の五木村文化財に関する報告書をまとめました。それぞれ仕事の合間を見て、手弁当での調査作業でした。 「五木村にはこれだけの民俗資料がある。専門家による正式な調査をぜひ実施してほしい」。彼らはこの報告書を村と国に提出し、これら文化財に加え、人文、自然両分野での本格的調査の必要性を繰り返し訴えました。その熱意に、ついに当時の川辺川ダム工事事務所所長らは動かされ、必要な予算措置を取ることを約束しました。ところが次の所長の代になると一転、国は予算出費を渋り始めます。なんとか国とかけあい、結局村が費用の一部を負担する形での本格的調査が実施されました。 団長は村田煕鹿児島大教授。地元の文化財保護委員も、協力者として大いに活躍されました。その膨大な調査資料を集約したものが、『五木村学術調査』(五木村学術調査団編、1987年)人文・自然編の2冊になります。えんじ色の布表紙に、金字の表題。一地方史として誇るに余りあるこの本は、県外の研究家からも好評なのだそうです。 地権者協議会の会員には、文化や歴史が水没することを懸念してダム反対闘争に加わった人たちもいました。 Vol.19 村に最初にダム計画が浮上したのは、昭和20年代末。電源開発株式会社によるダム計画に対し、五木村民は一斉に反対の声を上げました。一企業の営利目的のために村を沈めてなるものかという思いは実を結び、ついに事実上の凍結にまで追い込みます。ところが一方でダム計画は生き残り、今度は国土総合開発計画の一環として建設省(当時)と県によって、密かに調査が引き継がれていました。 とは言っても表面的に大きな動きはありません。ダム水没の恐れから解放され、村民の間からほっと安堵の息の漏れた30年代末。 村を未曾有の大災害が襲いました。 1963(昭和38)年からの3年は、村史に残る大災害が続いた年でした。大雨だけでなく、38年1月の豪雪、春先から梅雨まで続いた長雨、7月の集中豪雨の後、8月に入ってからは台風9号接近に伴う集中豪雨と、異常気象の1年でした。 後々まで村民の記憶に刻みつけられることとなった、昭和38年8月17日。その日の朝、折からの長雨は一時小康状態になり、大雨洪水警報は7時35分、注意報に一旦切り替えられていました。ちょうどその日に、五木郵便局職員によるソフトボール大会が予定されていたそうです。「朝8時頃は空も明るく、この分だと雨は昼過ぎまでになんとか上がって、ソフトボール大会も決行されるだろうと思ったくらいだった」。当時の便局員だった方が後に回顧しています。 ところが正午へ近づくにつれ、天気は一転。突然「天の底が抜けた」ような豪雨が村中を強打します。五木村八重にあった観測所の記録によると、8月17日朝9?10時の雨量は3.6ミリ。それが12?13時には140ミリに達しています。激しい雨は夕方まで降り続きました。川辺川の水位は6メートルにまで上昇、川辺川とその支流数カ所で鉄砲水や土砂崩れが起き、11名の尊い命が失われました。村では、この大雨で295戸が全壊・半壊・流失し、155戸が浸水したと記録されています。 当時、頭地郵便局には電話交換台がありました。豪雨によって郵便局にも避難命令が出されていましたが、郵便局が無人になってしまうと村内の電話網が完全に途絶えてしまいます。当時郵便局長だった土屋義人さんは、局長としての責任と村からの要望もあり、局員と共にその場に残りました。交換台では途切れなく呼び出しが鳴り続け、その対応に追われながらも、足元からは徐々に水位が上がってきていました。不安な気持ちを抑え励まし合いながら仕事を続けましたが、とうとう電話交換台が水に浸かり、二人はやむなく消防団の出した小船に乗り避難しました。 上流の横手地区では、川辺川へ注ぐY字谷沿いに、大規模な土砂崩れが起きました。土砂はあっという間に家屋や田畑を押し流し、なだれ込むように川まで一面を、真っ白な泥に埋めました。住民は土砂崩れが起きる前に避難していたため、幸い一人の犠牲者も出さずに済みました。日中だったことに加えて、谷の水が急に止まったのを見た地区の長老がが異常を察知し、皆に避難を勧めたからだとも聞きました。 横手の対岸、鶴地区でも谷川の上流から鉄砲水が轟音と共に押し寄せ、何人もの方の命が失われました。避難する時間もなく、あっと言う間の出来事だったと言います。 参考資料:「五木村誌」五木村編 Vol.20 もう少し、ダムと村の関係を追ってみたいと思います。 昭和20年代末から戦後の拡大造林は第一次ピークを迎えます。全国的に木材が不足し、薪炭林や自然林がスギ、ヒノキの幼木林へと変わりました。専門書によると、植林して10年以内の山では、土中に残っていた元の自然林の根が腐敗し、そこへ若齢の梢が風で煽られると空隙のある土中で根がグラグラと揺れ出し、雨で緩んだ土壌と一緒に崩れやすくなったともありました。五木でも造林のため新たに林道が開かれ、掘削した土砂の処理が済まされていなかった箇所もあったと聞きました。 当時のことはさまざまな資料や関係者の記憶、関係者の話を聞かせてもらうしかないのですが、ダム問題に隠れ、原因検証に国が未だ踏み込んでいないことは非常に残念です。 横手の対岸、鶴地区のさらに上流には、炭焼きの仕事のため山奥に居を構えていた家族もおられました。「土砂が流れてくるかもしれないという父の言葉で、身の回りのものだけを持ち家を出た。その直後に家は土砂に飲まれ、見ている目の前で家が流されていった」。今も災害復旧住居で暮らす女性はそう語ります。鉄砲水はそのまま流れ、鶴の民家ごと濁流へとなだれ込みました。逃げる間もない突然の出来事で、轟音と共に土砂が押し寄せ、すべてが土砂の下に埋まったと言います。今年の水俣の土砂災害を見て、40年前の五木村を生々しく思い出された方々も多くおられるのではないでしょうか。 この災害により交通網、電話網は完全に遮断。自衛隊のヘリコプターや小型飛行機104台、消防団員や警察延べ1000人以上が出動し、行方不明者の捜索や取り残された村民への物資援助、復旧工事に着手しました。この時の被害総額は32億5000万円。全国から義援金が寄せられましたが、当時の村財政が6000万円という時代にその54倍という巨額の被害総額でした。尊い人命や貴重な村施設、300戸を超える家屋や店舗、田畑が失われ、穏やかだった村内全体を暗鬱な空気が覆いました。 数日間の「陸の孤島」期間を置いてのち、人道と電気だけは間もなく仮復旧しましたが、完全復旧のための工事は数ヶ月に及びました。それがやっと一通り終わり、村が再出発へ向けて歩き出した矢先の1年後。昭和39年8月に、村を再び台風14号が襲います。幸い死者こそなかったものの、22戸が全半壊・流失したほか、104戸が浸水しました。 さらにその1年後には、追い打ちをかけるように「7・3水害」と記憶される集中豪雨が起きます。昭和40年7月のこの災害でも死者は出ずに済みましたが、再び38戸が全半壊・流失し、浸水家屋は156戸に及びました。 昭和35年当時の五木村総人口は、史上最多の6161名でしたが、10年後の昭和45年には、34%減の4006名に。昭和35年に2267名だった第1次産業就業人口も、10年間で946名と半数以下に激減しました。 3年間の水害は、村の産業構造を大きく変えたと言われます。コバ作から造林による森林経営へ、小規模農業主体の自給自足的生活から復旧工事による現金収入も取り入れた生活へと移り変わっていきました。日本全国が高度経済成長期の入口で、農山村から都市部へと働き手が集中した時期でした。3年連続水害により、出荷を待っていた数百俵もの木炭も、何代もかけて少しずつ切り開いてきた田畑も家も山もすべてを失った人々には、再出発を誓って村を後にした方も多くいました。 Vol.21 昭和41年7月14日、五木村で相良ダム建設構想並びにこれに伴う県の五木村振興計画基本構想の説明会が開催されました。 現在熊本県は、住民討論集会開催や新利水計画策定など、国と地元との「調整役」という立場を取り、一定の役割を果たしつつあります。一方で、水没地の目から見た「県も国と一緒にはしごだけかけておいて、今さらそれを外すのか」という根強い批判も耳にするのには、当初からの県の対応とその後の経緯が大きな要因になっているようです。ダム計画発表時から、県は五木村に対して、ダム受入を前提とした地域振興計画受入以外の選択肢を作らなかったこと、調整役どころか一方的に国と同じ立場を取り、地元へダムとセットでの村づくりのみを強いてきたことは、その後大きな影響力を持つこととなりました。 話を戻します。ダム計画発表の数日後、五木村議会は全会一致でダム建設反対を決議。年が明けて2月には、村は「五木村ダム対策委員会」を設置します。ダム対策委員会は、佐藤忠村長(当時)を会長に、全議員や商工会、組合等の村内各組織の代表、各集落の区長など村の様々な立場の人が会員に名を連ね、村主導型ながらある意味で村内を網羅した水没者団体でした。ダム対策委は水没部会、五木ダム部会の2つに分かれていました。それぞれ建設省による相良(川辺川)ダム計画と、五木村の水害を防ぐ目的で立案された五木ダム計画への対応策について協議を重ねる場でした。昭和45年になると、村は国に対し「ダム建設に伴う五木村立村計画の基本的要求事項」を提示。その後昭和54年までの間に3回に渡って再要求と回答が交わされ、細かく修正されていくことになります。 一方地元では、一部の村民とダム対策委との間で、信頼関係を揺るがすような出来事が起きていました。昭和45年、村はダムに関する3点調査測量に伴う覚書に調印。翌年には、村への立入調査測量のための協定書と覚書にも調印しました。依然としてダム対策委ではダムへの賛否が統一されていませんでしたが、ダム対策委は村長を会長とする組織であったため、村民と行政の間で意向が分かれた際、結果的に「行政」の立場を取らざるを得ないというジレンマがありました。46年の覚書では、事前の村民大会で決議されていた内容が、村民に知らされないまま書き換えられるという「改ざん事件」が発覚。国が村に立ち入って調査をする際、事前に村民に通達するという約束であったものが、実際に交わされた覚書の中からは「村に通達する」というふうに書き換えられていました。事前通報もなく建設省職員らが民家に立ち入ってきて初めて、このことが発覚したのでした。 昭和47年9月になると、村の水没予定地は「河川予定地」指定を受け、一切の増改築や補修事業に制約がかけられることになります。 「ダム対策委員会だけにまかせておいて良いのだろうか」。 昭和41年1月、水没予定地区の住民有志は、ダム計画についての自主研究会「木曜会」を立ち上げます。後にダム反対水没者団体を組織することとなった彼らは、ダム受入へと傾いていく村の姿勢を見て、漠然とした危機感を感じ始めていたと言います。その後名称を「五木村生活権を守る会」と改め、河川予定地指定が決まった直後の10月、下筌ダム闘争で住民側リーダーであった故・室原智幸氏とともに闘った森純利氏を招き講演会を開きました。森純利氏は、「五木の七不思議」という言葉を使い、国や村の姿勢の問題点をわかりやすく説明。行政への漠然とした不安は、徐々に確信へと変わりつつありました。 Vol.22 意外にも下筌(しもうけ)と五木村とにつながりがあったと知って、私は驚きました。 下筌ダムは、熊本と大分との入り組んだ県境に位置する二連ダムの一つ。東の小国町と西の中津江村の間を筑後川の支流、津江川が流れます。下筌ダムはここをせき止めて、久留米市など下流の都市を水害から守るという治水ダムです。 周囲は一面の山また山。小雨の煙る寒い日に訪ね、一人湖岸に立ちました。木々の間から立ち上っては消えていく霧を見つめていると、同じ九州脊梁山脈の入口にある五木村と光景が重なります。ここには畑作を中心として、柚やシイタケ栽培、林業による村びとの暮らしがありました。 「蜂ノ巣城の攻防」としても有名な下筌ダム闘争は、九州の公共事業史に残る住民運動でした。現在ダム水門直下となっている、小国町志屋部落の山林地主だった室原知幸氏をリーダーに、公権と私権とが初めて正面からぶつかった事件。記録的豪雨と水害後の立案、地元自治体の計画反対と容認、真っ二つに割れた住民感情、少数派による裁判闘争という経緯は、五木村ともよく似ています。 現在、川辺川と下筌が比較されることはほとんどありませんが、川辺川ダム計画が発表された直後、多くの人の脳裏にまず浮かんだのは、この下筌ダムの闘いでした。五木村民の間でも、「ダムに沈められるというのなら、下筌に並ぶくらいの闘いはやろう」という気持ちと、その一方で「住民側はあれだけやったのに、結局ダムはできてしまったではないか」という気持ちがあったと聞きました。昭和30年代の激しい攻防とダム予定地の強制収用・代執行を経て、建設省が下筌ダム本体工事に着手したのは昭和42年のこと。当時まだ多くのダム反対裁判が係争中でしたが、40年代半ばに室原氏が亡くなったことで運動は消滅しました。ダム予定地での測量を阻止するため、川を挟み住民と建設省や地元警察が対峙していた時期には、地元外の人びとの介入による流血事件も起きていました。 中津市在住の作家松下竜一氏の名著に、『砦に拠る』(筑摩書房、河出書房新社)という作品があります。室原氏の妻ヨシさんの語りを挟みながら、格調高い文章で克明に記録されたこのドキュメンタリーには、後に五木村のダム反対裁判の中で中心的役割を果たした森純利氏も度々登場します。 「生活権を守る会」がつてを頼って森氏を招き、ダム補償に関する講演会を開いたのは昭和47年10月10日。ダム批判どころか、行政が決めたことに異議を唱えることが“お上に楯突く”と表現された時代でした。「団結こそ!勝利への道」。そう書かれた講演会告知のビラを村内各地に貼り、参加を呼びかけました。いつの時代でも、自分たちが村とは異なる立場であることを表明するのは、そう易しいものではありません。少数派であればなおさらでした。深夜、ビラを貼って回る彼らの胸には、「もう後へは戻れない」という決意と、「これから何かが始まるのだ」という昂揚感が交錯していたと言います。翌51年、会は名前を「水没者地権者協議会」と変え、会員数53世帯で再結成されました。 昭和51年4月から昭和59年4月まで、熊本地裁、福岡高裁とダム反対裁判を闘った地権者協議会ですが、意外にも当時は「ダム反対」を掲げてはいませんでした。ただ、国や県の拙速な進め方に危機感を抱き、ダム計画そのものやダム後の村づくり、個人や村へお補償案について丁寧に検討することが第一の目的でした。 それが、昭和50年末から51年初め、県議会への「多目的ダム法に基づくダム基本計画」上程を境に大きく変わります。 (松下竜一氏は現在大分の病院にて療養中です。一日も早いご快癒を願っています) Vol.23 昭和47年の河川予定地指定を受け、昭和48年5月17日には「五木村水没者地権者協議会」が発足します。当時、ダムに関して国が交渉相手としたのは、もっぱら村当局と足並みを揃える「ダム対策委」のみ。水没者団体でありながら地権協は数年間存在を無視された状況でした。それが、だんだんと国も存在を認めざるを得なくなるほど、地権協とダム対委とのズレが明確化していきました。 昭和50年の師走。県議会と五木村は、川辺川ダム基本計画上程を巡り大きく揺れていました。基本計画が県議会へ上程、可決されると、ダム計画は永田町へと上がって行きます。ダム本体計画と付随する多くの関連事業が「正式なもの」としてお墨付きを与えられ、関連予算が付けられていくことにもなります。ダム計画へのゴーサインも同然でした。 この時、地権者協議会は基本計画上程に強く反対しました。可決されたが最後、地元にとって最も重要なダム受入後の立村計画や生活再建策も振り返られることなく、なし崩し的にダムへと走り出してしまう。代替住宅地も代替農地造成計画も白紙に近く、ダム受け入れ後の村振興計画は、多くの村民の懸念を払拭できないまま、迷走を続けていました。 11月の開発特別委員会で慎重論が主流だったため、当初12月の県議会では取り上げられない予定となっていました。委員会では球磨郡出身の岩崎六郎、園田茂議員らの働きもありました。最大の理由は、地元が正式に受入を決めていないのに基本計画を協議するのは時期尚早というもの。検討を重ねて、少なくとも次の3月議会までは持ち越される見込みだったわけです。自民党議員でさえ、地権協に対し「五木がダム受入を決めるまでは、基本計画上程はしない」と約束していました。 同じ村に暮らし、同じ課題に直面しつつも、違う視点に立った村民もいました。 この時、ダム対策委員会が取ったのは、基本計画上程支持という立場。当時の村長を会長とするダム対策委は、不安定でぼんやりしたままのダム計画に「戸籍」を与えて立村計画や生活再建計画に予算枠を取ることを確約させ、ダム受入後へ向けて進むべきという、県からの強い説得がありました。 すでに計画発表から10年近くが過ぎ、過疎化と林業の斜陽化が押し寄せていました。長引くことで村の将来計画が停滞するよりも、ダムを早期に受け入れ、それを起爆剤とした村づくりへと進みたいという気持ちもありました。委員でもある一部の村民は、当時自民党県連会長だった河津寅雄小国町長の元へ陳情に走りました。一刻も早く県議会で基本計画を議決してほしいというその要望は聞き入れられ、逆に地権者協議会との約束は裏切られました。国と県は当初からダム絶対建設の態度を崩さず、執拗な説得が続けられていました。故郷の水没を拒む気持ちと、ダム受け入れは仕方ないのではないかという諦めの気持ち。村民の気持ちも大きく揺らいでいる時期でした。 昭和51年の12に一旦は見送られた基本計画は、年明けの1月に開かれた臨時議会で息を吹き返し、混乱の中で基本計画が決議されました。基本計画上程を進める村に対し、森純利氏とともに地権者協議会の人たちは詰め寄りました。 どちらにも理があり、どちらが誤っていたという観点で捉えることはできません。五木村の将来をよいものにしたいという同じ場所を目指しつつ、その結論へ至る道が大きく違っていたということなのだろうと思います。その違いが対立と作り、平穏なこの村に、長きに渡る苦しい道のりを強いることとなりました。 Vol.24 (2003.10.12掲載) 地権者協議会が起こした裁判は3件。そのうちの一つは、ダム対策委員会の役員報酬支払いについての住民監査請求が下地にありました。ダム対策委は当時の村長を会長とした委員会で、村条例にも規定はないままに成立していました。連日の協議や交渉には多くの時間が割かれ、役員報酬は村財政から支出されていました。このことに対し、条例に基づかないダム対策委委員への報酬支払いは違法であるとして、住民監査請求が起こったのです。提訴されたのは、昭和51年2月のことでした。 1月の県議会通過を受け、3月30日にはダム基本計画(建設省告示684号)が告示されます。昭和51年4月13日、地権者協議会は、川辺川ダム基本計画取消訴訟を熊本地裁に提訴。5月、役員報酬の違法性をめぐり問題となっていたダム対策委は解散しましたが、責任所在が不明確であったため、続いて地権協は、村長を相手に損害賠償請求訴訟を提訴。さらに、水没地の将来を強く拘束しつつあった河川予定地指定の無効確認を求める訴訟を起こしました。 村民全体の合意を得ないままの見切り発車が、地権者協議会の立場を硬化させていました。法廷で原告ら全権代理人となった森純利氏が、「五木の不幸は、村長がダム対策委員長になったことから始まっている」。そう話したことがあります。行政の立場に立つのか、水没地村民の立場に立つのか。揺れ動いたであろう村長の苦しい心中も理解できないわけではありませんでしたが、村長を長とするダム対がダムの積極的受入を推進する側に立ち、ダム基本計画上程を押し切った時、地権者協議会の腹は決まりました。「あなた方がそういった立場を取るのであれば、私たちはダム反対に回らざるを得ない」。ダム計画促進への牽制から、断固ダム反対へ。昭和50年末、ダム基本計画上程へ向けた動きをめぐり、地権協が村長へ申し入れをした際の様子を記録したカセットテープには、森純利氏らの言葉が残されています。 51年5月、違法性まで問われたダム対策委員会は解散し、村条例に基づき村行政の立場に立った「ダム対策審議会」が発足しました。まもなく、ダム対策委員会水没部会メンバーを中心とした住民らが、「川辺川ダム対策同盟会」を組織。位置づけの曖昧だったダム対策委が、行政と住民との二団体に分かれた形になります。どちらも、地権協とは別の五木の将来像を描き、ダム容認の立場から邁進していくことになりました。 基本計画取消訴訟の提訴から2年後。昭和53年12月、熊本地裁は実質的審理に入らないまま両者に和解を勧告。その後1年間、延べ17回にわたる和解交渉が行われることとなりました。和解交渉中にも、協力要請のため澤田一精知事(当時)が地権者協議会を訪ねたり、ダム建設に伴う損失補償基準提示(延べ3次まで)が行われたりと、ダム計画にブレーキがかかることも、流域住民の合意の有無が再度問われることも、ありませんでした。 また54年10月には、建設省と村、県、地権協とで高知の早明浦ダム視察にも行きました。公費で旅費を出すとした国の提案を断り、地権協からの参加者だけは自費で参加しました。早明浦で、地権協会員はダムが現実的に何をもたらすかを目の当たりにし愕然とします。「ダムは、決して良いものではなかった」。早明浦の村長の話す重い言葉に、五木の未来が重なりました。 Vol.25(2003.10.19掲載) Vol.26(2003.10.26掲載) Vol.28 Vol.29 Vol.30 Vol.31 |
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