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レポート20. ”歴史に観る!丹波国の「河南」氏” その3)丹波の主な土豪達
土豪」にはその地方に代々住む一族の場合と、関東御家人が恩賞として地方に赴任・土着のケースとがある。つぎに主な中世丹波の土豪をみてみる。

@ 久下 : 武蔵国大里郡久下郷(埼玉県熊谷市)出自の関東御家人。”承久の乱”の功で久下直高が、丹波国栗作郷(氷上郡山南町)地頭として入部。また直高の弟・大西直家は、川南一分の地頭として、直弘は美作印之荘に住んだと伝える。村岡・中沢・川原・東条・熊谷氏はみなこの一族。
A 長(中)沢 : 武蔵国那珂郡中沢郷(埼玉県児玉郡の内)出自の関東御家人。”承久の乱”の功により中沢基政が大山荘(多紀郡丹南町)入部。
B 酒井 : 相模国出自の関東御家人。酒井政親が”承久の乱”の功により主殿保・犬甘保(多紀郡丹南町)に入部。その子孫は当野・波賀野・初田・矢代・栗栖野・油井・宮林氏など。
C 荻野 : 赤井氏と同族。氷上の後屋城主・赤井時家の二男・直正が、天文11年(1542)荻野孫四郎の養子となり、荻野を名乗る。
D 赤井 : 清和源氏頼秀の末裔。丹波国氷上郡の豪族。芦田・荻野氏と同族。
E 芦田 : 氷上郡芦田荘より起こる豪族で荻野・赤井氏とは同族。
F 足立 : 武蔵国足立郡(東京都足立区)より起こる関東御家人。源頼朝に仕えた足立遠元の孫・遠政が”承久の乱”の功により、佐治荘(氷上郡青垣町)に入部。
G 内藤 : 関東御家人。南北朝、丹波曾地(篠山町)の地頭。のち波多野氏により衰退。
H 波々伯部 : (ほほかべ)。祇園社領「波々伯部保」の開発領主として代々下司職。
(2004.2.7記)
--おわり--
レポート19. ”歴史に観る!丹波国の「河南」氏” その3)中世丹波土豪の活躍
中世で丹波の土豪の名が、文献によくでてくる主な歴史的出来事をみてみる。
@ 鎌倉期の関東御家人の西国任地(”承久の乱”)
A 南北朝期の足利尊氏の挙兵(”元弘の乱”、”建武の中興”)
〔鎌倉期の土豪〕:東国を中心に荘園をめぐって土豪が武士団として台頭し、”源平の合戦”や”承久の乱”の恩賞として畿内や西国の新領地を得、いわゆる関東御家人が丹波地方にも移入・土着していった。 関東御家人として、久下、足立、長沢、酒井、内藤氏らがいる。
〔南北朝期の土豪〕:元弘3年(1333)御醍醐天皇を擁護する伯耆国”名和長年”攻略のため、鎌倉幕府が派遣した”足利尊氏”は丹波まで進んだが”篠村八幡”(京都府亀岡市)に来て反旗をひるがえす。
『太平記』によると”尊氏の旗揚げに対して挙兵した丹波国人衆は、まず久下時重が250騎で駆けつけ、長沢・志宇知・山内・芦田・余田・酒井・波賀野・小山・波々伯部その他の近国の者どもは一人残らず馳せ参じた。・・・荻野朝忠をはじめとして高山寺城に立てこもっていた足立・小島・和田・位田・本庄・平庄らの者どもは若狭・北陸道より上洛をくわだてた”と伝えている。
新政「建武の中興」もつかの間、新田義貞・名和長年らの宮方と尊氏・楠木正成らの武士方が争い、建武4年(1337)敦賀”金崎城の戦い”には丹波守護”仁木頼章”が率いる丹波勢が参戦している。
京の都に近い丹波国は絶えず戦禍に見舞われ、小勢力の丹波土豪は栄枯盛衰を繰り返すことになる。(主な文献・史料に”河南”氏の名は見当たらない)(2003.12.2記)
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レポート18. ”歴史に観る!丹波国の「河南」氏” その2)丹波国の地理と歴史
まず”兵庫丹波”の特色をみる。古来より有名な産物として@大粒の”丹波栗”、A”黒豆”。生活・文化では”デカンショ節”と酒造造りには欠かせない”丹波杜氏(とうじ)”で、冬の農閑期に阪神間の伊丹・西宮・灘の酒造に出稼ぎ、18世紀末には2000人を超えたという。 <歴史と史話> (市町村名は旧名による)立杭(今田町) : JR相野駅より西へ。”立杭焼”で知られる丹波焼きの陶郷だ。 小枕(丹南町) : 平氏討伐の源義経が戦勝祈願のため、当地春日神社に駒を奉納したのが地名の起こりという。 篠山町 : 徳川家康が藤堂高虎に築かせた、篠山城とデカンショ節で有名だ。 桑原(西紀町) : 泉式部伝説がある。 柏原(かいばら)町 : ”雪の朝、二の字、二の字の、下駄の跡”の句を6才のとき詠んだ、田 捨女(でん すてじょ)の故郷だ。 石生(いそ) (氷上町) : JR駅近い国道の”水分橋(みわかればし)”下の流れが、日本で一番低い分水界(標高95m)だ。 黒井(春日町) : 徳川家光の乳母”春日局”の生地だ。 国領(春日町) : 京都方広寺の有名な大坂夏の陣の発端となった、”国家安泰”の鐘の鋳造にかかわる鋳物師の名人右衛門の伝説がある。(2003.8.17記) --おわり-- |

レポート16. ”歴史に観る!北陸の「河南」氏”
現在この地方には比較的多くの「河南」さんがおられる。 また古今を通じて「河南町」、「河南荘」などの地名がみられ、名前の由来を想像させられるが詳しいことは今のところわからない。
1)加賀国(石川):南北朝から戦国期にかけての地元有力武士は、富樫氏をはじめ吉見・得田・土田・長・飯川・得江・温井・本庄氏らがいた。電話での聞取り調査をしたとき、”名前を変えたら兵隊にゆかなくてもよいということで、変えた・・・”、”明治に国民は、名前をつけよということで・・・”(明治3年「平民苗字許可令」)であった。家紋は「かたばみ紋」が多い。
2)越中国(富山):中世豪族として石黒氏が砺波郡南部「石黒荘」を中心に勢力を張った(石黒党=福光・高楯・太海・野尻・河上・井口・加茂島・水巻・蟹谷氏)。 そして宮崎氏が新川郡東部「佐味荘」を中心に入善・南保一族がいた。戦国期には守護代の神保・椎名・遊佐氏らがいた。いづれも「河南氏」とのつながりはみあたらない。当地「河南」さんも名前の由来はご存知なかった。家紋は「五三の桐」、「剣かたばみ」紋。
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有名な「高岡鋳物師」は慶長16年(1611)砺波郡西部の鋳物師を高岡に移住させたのにはじまる。彼らの祖先は河内国丹南郡狭山郷の出身である。(関連が?) (2003.1.15記)
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レポート15. ”歴史に観る!阿波国の「河南」氏”
文献『阿波誌』、『故城記』によると、小笠原一族「源 吉清」が「河南駿河守」と名を改め、戦国期に名東郡上八万村(現徳島市内)にいて、三好氏の支城のひとつ「鬼神嶽塁」(砦)を守っていた。 家紋「「松皮菱」・添紋「しこえびら」(矢立て)。 隣国土佐の長宗我部元親の阿波侵略のため、天正10年(1582年)阿波三好一族は滅亡。 小笠原氏流の阿波河南氏は在地武士として、細川氏に仕えまた三好氏の被官となって命脈をたもつが、数十貫扶持程度の小領主だったと思われる。 『阿波誌』に”八万下村に山号龍宝真言宗「円福寺」(旧河南寺)があり蛭子祠を祭った”とあり、河南氏の菩提寺だったか。
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阿波小笠原(のちの三好)氏についてもうすこしみてみると、関東御家人だった信濃の小笠原長清が”承久の乱”の戦功で守護となり子・長経が守護代として正治2年(1200年)阿波に入る。
室町期から戦国時代の300年間に一族・その支流が土着し、吉野川流域を中心に勢力を張っていった。(2002.11.01記)
--おわり--
名和氏についてもうすこしみてみると、村上源氏を称し村上天皇第六皇子より11代後胤・行盛が伯耆国に流され、長田姓を賜りその孫・長年の時、「奈和郷」の名により「名和」を名乗った。隠岐島を脱出した後醍醐天皇を船上山に迎えたことは著名で、南朝の忠臣として入京し建武の中興に仕えた。(2002.7.1記)
肝付氏についてもうすこしみてみると、”天智天皇の皇太子・大友皇子の九代目孫・伴兼行(ばんかねゆき)が安和元年(968)に薩摩の守護職となり、鹿児島郡神食(鹿児島市)に着任した。 兼行の孫・兼貞が長元9年(1036)肝属郡の弁済使となり、子の十二代兼俊が高山に住んだ頃に、高山本城が築城されたといわれる。 二十九代左馬助兼道の天正2年(1574)島津氏に攻略され、530余年肝属地方に威を張った名族肝付氏は滅びた。
当時、島津藩の財政は困窮しており、利益の大きい中国との唐物輸入を奨励した。