(レポート.21 - 30)


ライン(足跡)

レポート30. 文献資料による”丹波大山「河南屋敷」”について


 前回 (レポート29) の続きとして もうすこし”旧丹南町大山村の歴史”と、”大山城および河南屋敷”について書いてみたい。『丹波国大山荘現況報告書』の現地を一度この目で見たく昨夏 大山城跡を訪れた。(右写真:2007.7 大山下「市場」から撮影 / 図1参照 )

 「旧大山村」は旧丹南町の北部にあり、北野・大山下地区に大山城があった。大坂街道が南北に走り、旧山陰道が京都・亀岡から篠山当地を西に進む。街道が交差し、篠山川と大山川が合流する台地に築城された。蛇行する河道が時代とともに河岸段丘を激しく侵食・変化している。今 台地は栗林におおわれ、雑草の茂る一段低くなったくぼ地の連なりが からくも城内・空堀りだったことを物語る。
    

                       


  現況調査報告書が当時の”大山城の縄張り”について述べている。--- 台地を数条の空堀で仕切ったタイプの平城である。川が合流する地点の河岸段丘の先端部に立地し、急崖の先端部に主郭・本丸がありその南端に「河南(かんなん)屋敷」があったと想定される。今は侵食で河道が北上しているが 屋敷は当時、城内に位置していた(右上図2)。 城主長沢重基の伯父、長沢(河南)出雲や弟源五、与吉の住居か---(2007. 5. 4記)

--おわり--



レポート29. ”文献資料の丹波「河南」氏  その2)丹波国大山荘現況報告書”


  昭和59年(1984)より旧西紀・丹南町教育委員会が、国庫補助事業「大山荘遺跡詳細分布調査」を五ヵ年計画で行った。『丹波国大山荘現況報告書』として5冊にまとめられているが、調査報告を見る前に大山地区及び大山荘の概略をみる。

 「大山」は旧丹南町の北部にあり、篠山川をはさんで北岸が大山地区、南岸が古佐地区(旧味間村)である。原始・古代よりこの地域は氏族集団が住みつき、古墳群が点在する。古代律令下は多紀郡西県河内郷に属した。「東寺領大山荘」はもと藤原良房の所領であったが、僧空海の跡を継いだ実恵が、承和12年(845)に東寺の伝法料田として設定したもので『東寺百合文書』などの中世文書によってその存在が古くから知られている。”承久の乱”の恩賞として関東御家人だった中沢基政が地頭職として当荘に入部などを経て中世荘園として16世紀まで続いた。

  丹南町史及び当報告書で注目すべきことが、『丹南における中世城館』のところで書かれている。


    

          『丹波国大山荘現況報告書』(抜粋)

      --- 「丹南における中世城館 大山城」:
       長沢氏の居城大山城は、戦国
      時代に大山川の浸食によってできた段丘上に造ら
      れた多紀郡では珍しい台地城である・・・。大山
      城と館との関係については、『篠山領地志』に・・
      ・(前回参照)・・・こうした屋敷の一つが南二丸
      の南にあった「河南(かんなん)屋敷」に相当する
      のであろう。
       また「河南屋敷」の名が伝わる場所は、河川改修
      工事で消滅しているが高さ7m位の小台地だった
      「河南屋敷」は『古城由来』が城外とする長沢与
      吉朗居宅に相当するのかもしれないが、大山川の
      旧河道を想定すると川より内側に含まれるので、
      城域だったのだろう --- と記されている。



  文化財保護委員の斎藤○○氏(大山・北野新田在住)に電話でお聞きしたところ”以前「河南屋敷」の発掘調査に立ち会ったが、何もでてこなかった。屋敷名としてあるから長沢氏の家老か重臣だったのでは。関東御家人の内に「河南」氏の名がないか調べてみては”という助言をいただいた。「長沢(又は中沢)」氏と「河南」氏との関係を調べる必要がある。(2007. 1. 1記)

--おわり--

レポート28. ”古文書の丹波「河南」氏  その4)篠山領地誌”

  事前に篠山市役所に問合わせ・連絡をとって、この初夏に篠山市西吹の”市立中央図書館”に出かけた。古文書”篠山領地誌”を所蔵しているという返信を頂いたからだった。

  『篠山領地誌』(ささやまりょうちし) : 

    篠山藩の儒学者奈良由繹と太田資置が、

    江戸時代・貞享4年(1687)に当時の藩主

    松平信庸(のぶつね)の命により編纂した

    篠山藩領内の地誌原本である。

     別名を『貞享記』(ていきょうき)と言い

    全6巻を乾坤2冊に綴っている。
 


   次に「河(川)南」氏について関連のある記述部分を抜粋してみる・・・。
  前回(レポートNo.23)の古文書『吹村西蓮寺縁起』に登場した”河南出雲友房”は、ここにでてくる長澤出雲”と同一人物である。




   ・・・・
長澤孫十郎重基営構遺跡在千辰己地一
遺址東西四十五間南北三十間所中有八
幡小社封彊高二間?廣六間也南有二遺
址東西四十五間南北三十五間所封彊高
一間餘?廣三間也戌亥有三遺址東西八

十三間南北三十間所封彊高二間?廣三
間也向戌亥方北野為表門路向東下村八
幡坂為裏門路又向西通路而出屋口有門
跿及?井也一遺址南有重基之伯父長澤
出雲住居跡東西二十五間南北十三間所
?廣三間世又有重基六弟源五遺跡東西
二十間南北十三間所?廣三間也又有弟
與吉遺跡方二十間所也・・・・・  



<要 約>
(長沢氏の居城大山城)主郭の南に、城主長沢重基の伯父、長沢出雲や弟源五、与吉の住居があったとしている。
・・・出雲の住居は東西二十五間(45m)、南北十三間(23m)、堀幅三間(5m)とし、源五は東西二十間(36m)、南北十三間(23m)、堀幅三間(5m)。与吉は方二十間(36m四方)としている ・・・

    言い伝えによると、これらの屋敷(又はこれらの屋敷のひとつ)が、
”河南(かんなん)屋敷”と呼ばれている。(2006. 9. 5記)

--おわり--



レポート27. ”文献資料の丹波「河南」氏  その1)丹波史年表”

  明治・大正期に編纂された『丹波史年表』(松井挙堂著)及び、『旧味間村年表』(奥田楽々斎著)に詳しい。
次に「河(川)南」氏についての記述の部分を抜粋すると・・・。

 1)『丹波史年表』

  時 代     年 号                   できごと
 平安期  保元2年(1157)  北条時政、川南正景に恩賞状を授く。
 川南蔵人正景、原山庄仙波を領地す。
 南北朝期  正平8年(1353)  川南勝重、(足利)尊氏に江州に従い戦功あり。
 戦国期  天文18年(1549)  川南景長、(武田)義晴に従い、江州浅井郡佐野寺に死す。
 天生1年(1573)  川南景幸、松崎合戦に永原飛騨守を討ち取り、浅井長政より感状を受く。
 天生2年(1574)  川南景幸、曽地谷戦に赤井直信より感状を受く。
 江戸期  慶長1年(1596)  川南但馬景幸、没す。
 慶長18年(1613)  川南出雲尉友房、死す。

 2)『旧味間村年表』

  時 代  年 号               できごと
 平安期  永保3年(1083)  吹の河南八右衛門、亡くなる。
 戦国期  永正8年(1511)  織田弾生忠より、河南に感状あり。
 江戸期  享保13年'1728)  吹の河南八良右衛門、亡くなる。
 天明5年(1781)  吹の河南徳右衛門、亡くなる。
 近世  大正4年(1915)  河南国蔵、県会議員となる。



   名字や地名は、時代により、文書により「川」が「河」の字に
  なったりといった例ははよくある。もっと詳しく調べたいと思って
  いるが、これらの年表の出典が不明ということもあり、手がかり
  がない。(資料・情報あれば、教えて下さい!)

   ひとつ分かったことは、篠山市の(旧丹南町)「吹」の河南さん
  一族の菩提寺に地元”西蓮寺”がある。次の寺院縁起に”河南
  出雲友房”のことが書かれている。(右文献は同縁起の末頁写し)


        『吹村西蓮寺縁起』

  --- 寛永の頃(1624〜44年)、河南出雲
  友房という者あり。 三男・長三郎(法名
  友道)が出家し小庵を建立。後に厳誉上
  人が中興し、西蓮寺と改めた ---



 ”西蓮寺”のこと。”河(川)南出雲友房”という人物のことを、もっと調べてみたいと思っている。(2006. 4. 16記)

--おわり--


レポート26.”古文書の丹波「河南」氏  その3)某河南家伝書を読む”

  我が家には、代々伝わる家系図や家伝書といったものは残念ながらないらしい。
篠山市図書館の郷土資料コーナで地元某”河南”さんの家伝書を観る機会があった。郷土史家グループ「多紀郡史蹟研究会」の編纂による古文書『吹村 河南氏古文書』を次に紹介する。




   ---- 先祖は北面(御所を警護)の武士で、鎌倉時代(1225年)に祖父「民部尉広茂」が河内国の三郡(若江・渋河・丹南)を領した。そして丹南郡に居城したので、「河州(かしゅう。河内国)、「丹南」の字を合わせて「河南」を名字とした。

 戦国期には織田信長に属していたが、滅亡後は、「丹州(たんしゅう。丹波国)」多紀郡に隠れ住んだ----






河内国の
「若江郡」、「渋河郡」は現在大阪市の東部・東大阪市から八尾市にかけての地域だ。また「丹南郡」は大阪市南部の松原市から大阪府美原町にかけての地域である。(図1参照)

<丹南郡>: 『和名抄』にみえる丹比(たじひ)郡が、平安期に丹南郡・丹北郡に分かれた。鎌倉期には大冨荘・菅生荘などがあり、南北朝内乱期には平尾城・城岸寺城・大保塁などがつくられている。郡内に竹之内街道・西高野街道が通じる交通の要衝だったので、この地域はしばしば戦場と化した。この地には有力な武士団の成長はみられなかった。南北朝期には北朝方の河内国守護として細川氏が南朝方と戦い、戦国期には三好氏と畠山氏との合戦などがある。

 一方、当郡には平安期よりわが国最高の技術を有する鋳物師集団が居住した。河内鋳物師・丹南鋳物師と呼ばれ、神社・寺院の灯篭・梵鐘・鰐口などを鋳造し全国に生産・出荷したのは有名だ。




 現段階での調査の結果では、河内国の
「丹南城」および「河南」氏についての史実は見つかっていない。
篠山市/東吹の河南○○さんと、偶然電話で話しをする機会があった。---古文書に書かれている「河南市蔵」は私の父親です---。
---家紋は「一文字に三ツ星」で先祖は毛利氏より出た。伝来の甲冑・刀をはじめ織田信秀(信長の父)からの「感状(軍功に対する恩賞状)」がある。27代目にあたる---一度お会いして詳しく話を聞きたいと思っている。(2006. 1. 1記)

--おわり--



レポート25. ”古文書の丹波「河南」氏  その2)二村神社調書を読む”

  古文書『二村神社調書』をみる前に、兵庫県篠山市ホームページより転載の”民話と伝説”の一部を見てみよう。
話のあらましは、江戸時代の西古佐に”五十兵衛(いそべい)”という力持ちがいて、もっと強くなりたいと神様にお願いし、千人力にしてもらった。ところがその途端、千人力になったために足が土の中にめり込んで動けなくなった。「神様お願いです。どうかもと通りの十人力の人間にしてください」。十人力になった五十兵衛さんは、大変喜んで帰っていきました。それからのお祭りには、五十兵衛さんのいる限り、みこしかきは負けたことがなかったというものです。

話の前の方で、同じ旧丹南町の西古佐に昔、”(河南)小柴”という力持ちがいたことを語っている。

民話と伝説

また『二村神社調書』に年代を想定させる記述がある。”文明14年”は15世紀室町時代で、西暦1482年。応仁の乱が終息し、世相は下剋上・群雄割拠の時代を迎える。文化・美術の面では、足利義政が京に銀閣寺を建立している。また「丹波志」の伝える「河南小柴(土佐)」が登場する。



 氷上市(旧氷上郡春日町)栢野の河南利美さんの墓所に
、河南土佐の墓”土佐塚”が在ることは、前回レポートの通りでこれらの史実を総合していえることは、--- @丹波”河南”氏の先祖は、少なくとも室町時代(1600年代)より実在した。A教科書・歴史書にでてくるような歴史上の人物でないにしても、少なくとも村・地域では有名人・実力者だった---といえる。(2005. 11.16記)

--おわり--


レポート24. ”古文書の丹波「河南」氏  その1)丹波志を読む”

  丹波国は古い文献のきわめて乏しいところで、まとまったものは『丹波志』(江戸期。福知山城臣古川茂正編)が唯一。これも丹波六郡の内、三郡(天田・氷上・多紀郡)のみで、「河南」氏に関する記述の部分を抜粋すると、『丹波志四巻上』の「氷上郡姓氏部」に次の文がある。

  丹波志/河南土佐      

また「氷上郡春日部郷」の部に「河南土佐」が来住した「和田貝村」(現丹波市春日町栢野・野瀬)について記されている。


 丹波志/和田貝




 数年前(’98年)、”春日町役場”から、
”土佐塚”の在り場所がわかったという連絡が入った。栢野の河南○○さん宅を早速訪ねて、実物(写真1)を見ることができた。昔話をお聞きしたところによると、河南土佐は神池寺(じんちじ。市島町)に行く途中、ここ和田貝村に寄り、居ついたとのこと。室町時代のことである。(2005. 5. 1記)

--おわり--



レポート23. ”丹波「河南」氏、ゆかりの地「旧春日町」”
 
「旧春日町」は、平成14(2004)年11月1日に氷上郡6町が合併して誕生した「丹波市」にある。町名の由来は町域の大部分が古代の
「春日部郷」、中世の「春日部荘」に属し春日神社に対する崇敬が深く、「春日」の町名が選ばれた。

 兵庫丹波「河南」さん、約540名(136世帯)の内、篠山市・丹南についで多く17世帯(13%)が「旧春日町」のそれも
「栢野」に集中している。
 
 
〔栢野(かやの)〕 春日町役場発行(昭和56年12月)の部落誌『春日甼誌』によると、大路地区771世帯の内「栢野」86世帯。藩政時代は野瀬谷・滝尻と共に「和田貝村」と称し広瀬区境から野瀬境まで約3Kmに及ぶ細長い集落である。
 竹田川をはさんで山が迫る地形だから農耕地は少なく、農外収入として林産物関係の特産物を生産している。




 
〔地理歴史〕 竹田川最上流域の町で、中世には赤松氏、戦国期には赤井氏が収領し、丹波における反信長勢力の結集を計った波多野秀治の元に赤井直政が黒井(保月)城、二階堂秀香が大路城にいた。近世、氷上郡は亀山藩領・柏原藩領・上総国鶴牧藩領・旗本領などに分轄された。(2005. 1. 1記)

--おわり--













レポート22. ”丹波「河南」氏の、発祥地「旧丹南町」”

旧丹南町(篠山市・丹南)は昭和30(1955)年に4村が合併してできた。町名の由来は丹波国の南部に位置することによる。
次に荘名、村名の移り変わりと、主な地名の由来をみてみる。
 
        〔昭和期〕       〔明治・大正期〕         〔江戸期〕
        味間村   ←   大沢組、古佐組     ←  大沢庄、味間庄、吹庄
        古市村   ←    古市組、波賀野組   ←  酒井庄
         大山村   ←                     大山庄
        城南村   ←   真南条組、岩崎組   ←  南ノ庄、酒井庄
 
〔味間(あじま)〕 地名は古く、天平3(731)年の『住吉大明神大社神代記』に「阿知万」と書かれている。
 地名の由来は二説あり@昔は芦の自生する湿地で「アシ」が「アジ」に転化した。A「畦地(あち)」のある所つまり、早くから農耕地を開いたという意味。

『兵庫の中の古代朝鮮』(段 熙麟著)より
---「古事記」に天之日矛(あまのひぼこ。新羅王子)が日本に帰った新妻の阿加流比売命(あかるひめ)の後を追っかけて来てみると、難波(大阪)にある比売許曽社に祭られていたというくだりがあるように、「許曽」という言葉はどうも渡来人と関連があるようである。そういえば朝鮮では現在も春と秋に、家内の安全を祈るために「コサ(告祀)」という祭りが行われていることを思うと、この「許曽」は韓語の「コサ」がなまった「コソ」の当て字ではないかと思われる。またはこの地に入植して定住していた渡来人が天地の神を祭った「古祀(こさ。古い祀)」の当て字かもしれない。---
〔古佐(こさ)〕 二説あり@川の左岸に位置する「コサ」は川の浅瀬を渡渉する意味で、昔は篠山川を歩いて渡る浅瀬だった。A「古曽」の意で神を奉る社の名で、古佐村には村の名のごとく古い神の祭壇があるという。



〔吹(ふき)〕 二説あり@『郡志』によると「蕗(ふき)」がよく採れたので「蕗」と称したが字画が多く「吹」に改称した。A「吹」付近は篠山川の流心が屈曲して、流れが疎外され昔の堤防のない時代は流心の移動により付近一帯は低湿地であったので「フキ(フケの転化)」と称した。
〔網掛(あがけ)〕 二説あり@盆地が湖か低湿地の時代に漁師が網を干したところより称した。A「味間(畦地のある所)」の東の突角地を「網掛(畦地欠けの意)」という。(2004.11.14記)


--おわり--




レポート21. ”丹波の「河南」氏は、「かんなん」さん !”

名字「河南」で、「わたしは、”かんなん”です」と言われたら、99%その人は丹波出身だ。裏を返せば丹波地方では「河南」さんは、「かんなん」と読む。
兵庫丹波「河南」さんの分布状況
 兵庫丹波には「河南」さんは、約540人(136世帯)おられる。地域分布をみると

      篠山市・旧丹南町     392人(98世帯)
            旧篠山町      68人(17世帯)
            旧西紀町      4人( 1世帯)
            旧今田町      4人( 1世帯)
      氷上郡・春日町        68人(17世帯)
            柏原町        8人( 2世帯)
                      
( 注 : 右図の表示は、旧市町村名による )

篠山市の「旧丹南町」に集中しているのがわかる。それと氷上郡の「春日町」にも多い。 


住吉台からの、JR丹波大山駅・西古佐付近 地名から由来するものか?篠山市内を篠山川が東西に流れ、川の北側「旧西紀町」に「川北」の地名が室町時代よりある。だが川の南に位置する「旧丹南町」には今も昔にも「川(河)南」の地名はない。同様に氷上郡・春日町にも竹田川の現「栢野(かやの)」付近にも地名としてはない。(2004.6.27記)


 写真 : 篠山市”旧丹南町”の田園風景(2004.5)


--おわり--