第1章 不思議の国
| 海の生き物 冬の晴れたある日、おかやんはコートの上に立っていた。まさか自分がもう一度コートの上に立つことができるとは思っていなかった。おかやんは手足が少し震えていることに気づき、自分の気持ちが高ぶってることを楽しむかのように、ボールを両手で縦にくるくると回し、その皮の感覚を10本の指先で感じていた。いったいどれほど、この瞬間を待ち望んでいたことか。もうすぐあの音を聞くことができる。ボールとネットが擦れ合う音を…。しかし次の瞬間おかやんの視界に飛び込んできたものは、ボールでもリングでもなかった。 |
| 「アザラシ…?」 どすどすと足音を響かせながら大股で近寄ってくる生物は、まぎれもなく二本足で歩くアザラシであった。二本足で歩くアザラシ。おかやんは小さい頃によく見ていた「海の生き物図鑑」の「海の猛獣たち」のページを思い出していた。 |
| おかやんの父親は仕事からの帰りに、いつも何かの本を買って子供に持って帰った。それは自分の帰宅がいつも遅くなり、子供とろくに顔を合わせることもできないことから、父親らしいことを少しでもしてあげたいという気持ちがあったからだった。月に一度、その本の中に何らかの図鑑があった。子供向けの図鑑で、自動車図鑑や昆虫図鑑など、フルカラー印刷で立派なカバーのついた大きな本だった。おかやんは小学校に入るくらいまで、毎日のようにその図鑑たちに熱中していた。特に「動物図鑑」の「サバンナの動物」のページと、「海の生き物図鑑」の「海の猛獣たち」のページは大好きで、毎日のように絵を描き、粘土で動物を作り、また生態を記憶していた。 |
| 俺の記憶には、二本足で歩くアザラシはない。しかしおかやんが回想している間にも、徐々に近付き、そして幾何級数的に大きくなるアザラシの姿に、おかやんは驚愕した。 「馬鹿な…。なぜアザラシがバッシュを履いているんだ」 そのつぶやきをかき消すかのように、おかやんの目の前まで来たアザラシは突然しゃべりだした。そこはまるで不思議の国のアリスの世界だった。 「ハロー、アイムマライアキャリー!!」 アザラシは意味不明な英語のような言葉を発した。それと同時に右手を差し出し、握手を求めるような仕草をした。 なんて訓練されたアザラシなんだろう。おかやんは親しみと尊敬の念を込めて右手をすっと前に出した。この刹那こそ、おかやんが不思議の国に迷い込んだまさにその時。アザラシの右手に指が五本あったことに違和感を覚えることさえなかった。「はろーあいむまらいあきゃりー…はろーあいむまらいあきゃりー…」この言葉がおかやんの頭の中をこだました。 |