「あなたの美しい思い出、もう一度体験してみませんか?」
手にしたチラシにはそう書いてあった。暗い通りの中に、その店だけは不思議な引力を持って、私の好奇心を急速に引き寄せていた。
いつもの長く辛い仕事を終え、私は疲れた体を引きずるように遠くの我が家へと向かっていた。外を見ながら思わずため息が漏れる。今までも薄々気づいてはいたが、最近特にそう感じられるようになってきた。
何をするにも全く気力が出ないのだ。仕事に限らず、生活上全てのことに対して面白味が感じられないのだ。飲み会などにもよく誘われたりするが、周りの人間が楽しく盛り上がっている時に、どうしても冷めた心持ちでいることが多いのだ。
「なんだってそう、お前はいつもつまらなさそうな顔してるんだよ。そんなんじゃ、綺麗な物も色褪せて見えるぞ」
実際の所、この言葉通りだった。視力自体には何の異常も無いのだが、街を歩いてみても見える物全てが汚れたガラスを通したように色を失って見えるのだ。
「もう少しさぁ、明るく物事を考えられないのか、お前?」
分かってるのだ、そんなことは。分かってるのだが……。
小さな時から勉強と部活に明け暮れ、世間一般的に言われる「いい子」な人生を過ごしてきた。その甲斐もあって、私は「いい大学」に入り「いい会社」に就職して現在に至っていた。それまでは、私も今のように全てに無気力に陥るようなことはなかった。今よりもずっと何かに燃え、何かに打ち込んでいた頃は全てがバラ色に見えていた。
それなのに、いつからなのだろうか、徐々にその情熱とも言えるものが薄れていって、入社当時は優秀だった成績も今は見る影もなかった。どうしてこうなってしまったのか。自分でもその理由がよく分からなかった。分かるわけがない。分かっていたらとっくに対処を始めている。分からないからかえって泥沼にはまり込むようにどんどん症状が悪化していくのだ。
「君、明日から会社に来なくていいからな」
明くる日、ついに上司に宣告された。味も素っ気もなく、まるで雑用を頼むような口調でそう言われ、さすがの私も狼狽を隠せない。確かに最近すっかり気力を失ってしまってはいたが、いつか立ち直れるという気持ちが心のどこかにあったからだった。
上司の元からふらふらとした足取りで戻る私の心は、最後の支えを失って底の知れない暗闇に深く深く落ち込んでいくだけであった。 会社の荷物をまとめて、とぼとぼと早すぎる家路につく。「燃え尽き症候群」とはよく言ったものだと、心の中で思いながら電車に乗るべく駅に向かって歩いていた。
失意の中で歩いている私の目に、チラシの文字が止まった。
「あなたの美しい思い出、もう一度体験してみませんか?」
手にしたチラシにはそう書いてあった。
胡散臭いとは思いつつも、気が付けば足はその店に向かって進み始めていた。
「ここか?」
古びたコンクリート建ての建物にその店はあった。錆びた金属扉の前に立って、数回ノックしてみるが、返事はない。
扉を押すと鍵はかかっていなかった。扉をきしませながら開くと、そこにはさながら画廊のように壁に何枚かの絵が掛かっていた。
「これはこれは、お客様ですか……?」
突然掛けられた声に恐る恐るうなづくと、そこには柔和な笑みを浮かべた白衣の男が立っていた。
画廊の雰囲気とはどこか外れた白衣の男はゆっくりとこちらに近づいてきた。
「人生というのは瞬間の連続です。時間が流れるというように全てが繋がっていると考えるのは少し違います。アニメーションのように瞬間瞬間の連続によって世の中は動いているのです、お分かりですか?」
矢継ぎ早に投げかけられる言葉に私はただただ頷くしかできなかった。さらに言葉は続けられる。
「そこで私はこう考えたのです。世の中がこう動いているのなら記憶の中はもっと分割されているだろう。それを活用できないか、と。貴方も、いい思い出の一つはあるでしょう?」
その言葉に、私は心の底にある何かが動き出していた。
しばらく後、私は店の奥にある研究室のような部屋に招き入れられていた。
「さっきの廊下にあった絵はそのまま記憶の絵ですよ。今までいらっしゃったお客様にとって最高の瞬間を残してあるのです」
結婚式、全国大会での優勝シーン、家族との一時など、様々な絵ガラスの額に入れられ廊下には掛かっている。私にはそんな場面があるだろうかと思いを巡らせていた。
「それで、お客様はどのような思い出に致しましょうか。どんなものでも結構ですよ」
会社に入ってからはあまりいい思い出が無かったが、高校時代にいた恋人と言えるかどうかよく分からない女友達のことが灰色の記憶の中に甦ってきた。
「ふふ、かしこまりました。では、そちらの椅子の方に座って下さい……」
白衣の男は笑みを崩さずにそう言って私をゴテゴテと怪しげな機械のくっついた椅子の方へ導いた。椅子に腰掛けた私に次々と機械が取り付けられてゆく。最後に巨大なヘルメットのような物がかぶせられると、白衣の男が機械を操作しだした。
「いいですか? 思い出のシーンを強く思い出して下さいよ」
命を吹き込まれた機械の音に混じって男の声が聞こえてくる。その声に従うように私は固く目を閉じて来るべき物を待った。
「……くん、楢橋くんったら」
聞き覚えのある声がする。いつの間にか眠っていたらしい。目をこすりながら体を起こすと、そこには髪を短く切りそろえた少女がこちらの方をのぞき込んでいる。
「なんだ、白崎か……」
隣にいる少女から目を逸らして、周りの風景を眺めてみる。見覚えのある教室に、見覚えのある窓からの風景、何もかもが高校時代そのままだった。
「変わってないんだなぁ……」
「変わってないって、そりゃ昨日今日で一気に街が変わるわけないじゃない」
放課後、白崎と一緒に家へと歩きながらそんなことを口走っていた。歩きながら、当時は感じられなかった嬉しいような、むずがゆいような不思議な気持ちになっていた。
「ねぇ、楢橋くん。今日はヒマなの?」
彼女の問いに私は一瞬躊躇した。昔の私は白崎に対してどうも素っ気ない態度をとり続けていた。今となってはその事が私自身とても悔やまれて仕方がなかった。今度こそは。そう私は決意していた。
「うーん……今日か? 大丈夫だけど」
「そう? じゃ、どこか行こうか?」
白崎の笑顔が妙に魅力的で、私は内心どきりとしたが、さしたる恥じらいもなく手をつないで再び歩き出していた。
ああ、私にもこんな時代があったのだ。これから灰色の社会人生活を送る前にはこんなような時間が私には存在したと思うと、急に元の世界に帰るのが嫌になってきた。出来るならこの世界にずっと留まっていたい。いや、元の世界になど戻りたくない。ずっとこのままでいてやるのだ。あの白衣の男には悪いが、私はこのまま帰るつもりなど無い。ここで人生をやり直してやるのだ。私はそう決心した。
「いいんですか、所長? こんなことしてしまって……」
先程の白衣の男とは別の男の声が暗い研究室の中に響く。電気スタンドなどしか照明器具のない部屋の中で、いくつものガラスの水槽が不気味にその姿を現していた。しかも、その中には一つずつ人間の脳が入れられ、回路で水槽の外にある機械に繋がっていた。
「いいんだよ。どうせここに来る連中など、世の中で失敗した奴らばかりだ。連中の意識を思い出の中に留めて、体は臓器ブローカーに売りさばいてやるんだよ」
白衣の男が面白くなさそうに言い放つ。その目は先程のような柔和さはどこにもない。
「連中にとっても、あそこから出ることなど望んじゃいないさ。永遠に思い出の中に閉じこめてやった方が連中にとっても世間にとっても幸せなことなのさ」
白衣の男はそう言って、研究室を後にした。 もう一人の男が水槽の方を哀れみを持った目で見つめている。ガラスの向こうの脳はその視線を感じることはない。
「思い出に逃げることが、幸せなことなんだろうか……」
そう呟きながら、男も研究室を後にした。部屋の中には、水槽から聞こえる気泡音だけがいつまでもその存在を主張していた。
終