コンプレックスの無い人などいるのだろうか。辞書には「劣等感」とか「心理的に抑圧された強迫観念」とあるが、言ってしまえば人間誰しもそれの積み重ねで構成されているのではないだろうか……などと最近の僕は考えていたりする。
今回はいつもの「科学ネタでビックリオチなショートショート」とは少し離れて「コンプレックス」という言葉に対して僕が考えることを書き綴っていきたいと思っている。(自分では論理的に書いているつもりでも、おそらく支離滅裂なことばかり書いているに違いないが)「水瀬つかさ・水楊千尋」らしさが今回は微塵も感じられなくなるかもしれないが、それはそれでご容赦頂きたい。
たいていの場合においてコンプレックスというのは他人にしてみれば大したことがないものなのだが、思春期の少年少女が抱える問題のように、自分にとっては永遠に克服できない問題だと考えてしまうものだ。背が高い・低いとか、性格が活発・大人しいと言ったものはお互い相反する物に憧れるもので、結局は「ないものねだり」というものなのかもしれない。これは意外に面倒な問題で、「背が高いのが嫌だ」というように身体的なものであれ、「性格が暗いのが嫌だ」という精神的なものであれ、対処が非常に困難なのだ。体重のあるないはまだ何とかなるにせよ、背の高低はどうなるものではない。高くはなれても低くはなれない。さらに面倒なのはこういった問題がなんらかの形で解決できたとしても、それでその人がコンプレックスを克服して幸せな生活を送ることができるかというと甚だ疑問だったりする。欠点が解決されたとしても、また別なものを見つけてそれにこだわり出すに決まっているのだ。「自分の欠点を次々と埋めていくことによって自己実現を目指す」と言ってしまえば非常に耳に聞こえがよいが、当人はそんなこと考えてはいないのだ。僕の目に映るのが、常に何でも良いから不平不満をぶつけているだけのようにしか見えない場合が多々あるからなのかもしれない。性格的な問題の場合はもう少し問題は複雑化する。実はこれは最近(とか言いながら、一年位前なのだが)になって考えたものなのだが、コンプレックスの原因になる性格を「解決」してしまったら、それは同時にその人は「その人でなくなってしまう」のではないのではないだろうか……と。この考え方には異論反論もきっと多いことだろう。なにせ、こんなことを言い出した僕自身ですら「そうなのか?」とはっきりしない。ではなぜ、ここでこんな自説を述べるに至ったか。理由は割と簡単で「未だそういった性格上のコンプレックスを克服した人を僕が見ていない」から、問題提起という形で提示してみたといったものだから。確かに性格上のコンプレックスを克服した人は数限りなくいるだろうし、僕自身もそうだったのかもしれない。ただ、その克服前・克服後の性格を克明に調査研究したわけではないので、どこがどう変わったのか、どこが変わっていないのかという所が把握できていないのがどうも引っかかるのだ。
そもそも「その人でなくなってしまう」といった書き方をしたのは僕自身の前提として「コンプレックスも含めてその人の人格なのだとしたら、克服する前の『その人』と克服した後の『その人』というのは一体どういう関係にあるんだろうか?」という書いている本人も意味のよく分かっていない妙な疑問があるからなのだ。文前半の仮定の部分は理解して頂けるだろう。まさか「その人の人格・性格とコンプレックスは別物で全く無関係だ」なんて意見はそう無いと思うのだが。
話を元に戻すと、コンプレックスを克服するということはその原因になっているなんらかの心理的要素(トラウマなど)を乗り越える、または消去してしまうわけであり、その人の人格をベースの部分で変更してしまうことになるのだから、今までのその人とは同じ人では無くなってしまうのではなかろうか……と考えているのだ。「イコールでないから違う」と書いてしまうのはいかにも杓子定規過ぎるが、程度の差こそあれあり得ることではないだろうかと思う。(例えば、昨日まで女性を全くの苦手としていた人が、急に「女好き」と呼ばれるほどになるということがあれば、何か違う人になったという印象は否めないだろう)
コンプレックスに限らず、人の心というものは様々な要素が複雑に絡み合っているもの(だと思う。心理学には詳しくないけど)だから、心の中にあるコンプレックスの部分が無くなる・変質するということになれば、それは必ず別な部分の変化をもたらすはずで、同じ人間ではいられないだろうと考えているのだが、実際の所はどうなのか僕自身もあまり分かっていない。答えを教えて欲しいと思っていながら「でも、小難しい話聞くのって面倒だよね」なんて考えている時点で、どうしようもないのだが。微妙なものだ。
ところで、人間にとってコンプレックスはあった方がいいのだろうか、無い方がいいのだろうか。これにも賛否両論あるだろうが、僕自身は無いよりはあった方がいいと思っている。人間必ずどこかにコンプレックスを抱えているもので、「僕(私)はコンプレックスなんてありません。完璧に自己実現できて、ご機嫌で満たされた毎日を送ってまーす」なんて人がどうも信用できなく、嫌いだからなのだろう。それはただ満たされていない人間のひがみなのかもしれないのが厄介だが。
僕自身も当然のようにコンプレックスを抱えて生活していたりする。「女性恐怖症」の気がある僕としては「彼女がいる」ということはそれだけで「人生の勝者」というような一種短絡的すぎる発想をしてしまったりしているのだ。(まあ、それも彼女いない人間のひがみにしかなっていないような気もする)さらにこの裏は「僕を心の奥では嫌っていながら、僕自身はただそれに気付いていないだけじゃないんだろうか」という漠然とした恐怖があり、自分の容姿に対するコンプレックスが拍車をかけるという構図になっている。
「あの人は出来るのに、なぜ自分はできないんだろう」といった類のものもそれに当たる。一番これを痛感するのは実は音ゲーをやっている時だったりするのだが、問題の本質は変わっていない。たいていの場合それは努力次第である程度補正がきくのだが、自分でその現実を認めたくないくせに目立った努力をそていないのが厄介で仕方ないのだが。
そういった意味からも僕自身が「自分を周りよりも一段低いところに置く」ような行動をしているのは、この種のコンプレックスが背後に存在しているからなのだろうと考えるようになった。自分でこう自覚する前にもこういう行動はとっていたのだが、改めてその行動の理由付けを考えるとこの結果に行き着いたという事なのだ。
「自分が親切にしている行動」(こう書くと語弊があるが的確な表現がなかったので)の裏にはこんな汚い計算があるとは正直考えたくもないのだが、自分自身を知るためにはいいのかもしれない。一方、これによって余計に自分を追い詰めたりはしないだろうかと考える自分がいるということも否定できない。
結局、コンプレックスがある人間(ほぼ全て)は多少なりともそれの克服に努める(という希望)のだから、人間的に成長できるならそれを否定することはないのではないかというのが僕自身の現在の意見である。まあ、コンプレックスが強すぎて周囲に具体的な被害が及ぶようになるのは正直頂けないが。完璧な、欠点のない人間になりたいと思いながらも、実際になってしまったらそれはつまらないだろうなぁという漠然とした思いが裏にはあるに違いない。言い換えると「コンプレックスは人間を成長させる素」なんて身も蓋もない言い方になるのだろうが。
さて、今回は「コンプレックス」というテーマなので、いつもとはちょっと趣向を変えて書いてみた。次回からはいつものショートショートに戻ると思う。実際はここに書いた以上にコンプレックスを抱えた人間なので、本来の僕はもっともっと小さい存在なのだろう。読んでいて不快になることがあるとしたらここでお詫びする。
ただ、「俺様がナンバーワンだ!」といきがるような人間にもおそらくこういう側面があると思うのだが、どうなのだろうか。そういう検証はまた別な機会にでも。僕はそういうタイプの人間ではないのでろくすっぽ調べもせずに書くわけにいかないのだ。(「俺様がナンバーワンだ!」と役職上言える立場になったことはあるが、どうも出来なかった) それでは長々となってしまったが今回はこの辺で。あ、でも、このシリーズは続かないと思うなぁ。オチ無いし。
終