未界テーマ企画より
We Two Are One.



 一月ほど前から、僕の心を捕らえて放さない存在がある。一目会ったその日から、強引に僕の心を掴んでそのまま奪い去ってしまった。よく恋愛小説などでいう「あなたは私の心を盗んだ泥棒よ」なんて台詞は、僕にとって今まで別世界のものであったというのに。今の僕は盗まれた心の行方を思って、まさに「抜け殻」になってしまっていた。
 そう、「彼女」に出会ったその日から。

 一月ほど前のことになる。
 僕は大学の友人達と共に、最近開園したばかりの動物園へと足を運んでいた。動物園なんて、小学生じゃあるまいしとても行く気なんてしなかった。別に特段動物に興味なんてありもしない僕が、友人の誘いに乗って動物園に足を運んだことには理由があるのだ。
 「創造と科学展」。のどかな日曜日の動物園の一角で催されていた特別展に僕は強い興味をひかれた。パンフレットを窓口でもらい、目を通す。別に猿だの鳥だの象だのを見に来たわけじゃない。僕はそういう「普通に存在する」動物になんて興味がなかった。このパンフレットがいわんとしている「創造科学」とやらになにがしか引っかかるところがあったからだった。
 パンフレットには「新たなる『種』を探る」というサブタイトルが書かれていた。二つ以上の「種」を掛け合わせてキメラを作り、そこからさらに進化を進め、在来種を超えた新しい可能性のある「種」を見いだす……と、そんなことが何行にも渡って書かれていた。小難しい理論なんてどうでもよかったが、神様ごっこを見てやろうという気分にもなった。
「そんなこと……実際に出来るんだろうか?」
 素朴だが正直な僕の疑問だった。

 友達が他のどうでもいい動物を見に行っている間、僕は一目散にその展示会場へと急いだ。会場まで走ることは、まさに「新たなる『種』」へと続く長い一本道であるように感じられた。
 短いようで長い道のりを走り抜けた後、展示会場が僕の前に姿を現す。二階建てのなんてことのない普通のコンクリート建築であるはずなのに、その白い外壁が強大な威圧感を持ってそびえ立っていた。僕は一瞬、その壁が自分に向かって崩れ落ちてくるような錯覚にさえ襲われていたのだった。
 会場の中は想像していた通り、物音一つしない暗く深い空間だった。だが、通路の両端にあるガラスの向こう側では全く異質の生物が確かに存在していたのだ。
 僕は恐る恐る、生物の進化系から外れた者達の前を歩き始めた。歩く一歩一歩が何やら重い。進化の道から外れていく誘惑と禁忌、その二つが僕の心に同居していた。
 スポットライトに照らされた生物達は様々な表情をしていた。動物の顔が浮き出た樹木、双頭の蛇、背中に鷲の翼を持った猿、ある者は虚ろな、ある者は興味を、またある者は獰猛な視線を僕の方に向けてくる。その視線の底には一体どういう感情が渦巻いているのだろうか。僕は奇妙な不安感に襲われながら少しずつ進んでいく。
 様々な動物植物が展示されていたが、その一番最後には今までは全く違う異質な存在が待ち受けていたのだ。
「あれは……もしかして……」
 僕は絶句した。そこに存在していたのは、背中から蝶の翼を生やした少女だったのだ。
 年の頃は僕と同じくらい。背中まで届く紺色の長い髪、青みの強い蝶の翼と頭から伸びる二つの触角、全てを見透かすような意志を持つ赤い瞳、彼女の全てが僕の心の全てを強引に奪い去っていった。手に持った鞄とパンフレットが音も無く滑り落ちていった。

 どれだけの時間が経っていたのだろうか、僕は心配して捜しに来てくれた友人達から声をかけられるまでそこに立ち尽くしていたらしい。僕は未だ夢から覚めきらないまま、友人との話に付き合った。
「しかし……まさか人間とはね。人類の科学もここまで来たってことか。まさに科学が生み出した『現代の妖精』ってとこだな」
「科学なんてどうでもいいとか思っていたけど、あんだけ可愛い女の子が作れるんだったら信じてもいいなぁ。西島はどう思う?」
 友人に背中を叩かれ、僕は少しむせこんだ。僕はその場では何も言えなかった。ただ、視線はずっと彼女に向けていた。彼女も誘うような視線をじっと僕の方へと向け続けていた。

 家に帰ってからも心の中にはずっと彼女が存在し続けていた。瞼の裏に強烈にあの赤い瞳が焼き付いている。僕は、彼女に恋をしてしまったのだろうか。ガラスケースの向こう側で妖しげに微笑むあの彼女の美しさにか、それとも、進化の道を踏み外した者という要素が強く僕の心を捉えたのか、それは分からなかったが、そのどちらだとも断定はしたくなかった。恋心だとも、純粋な科学的興味だとも。

 明くる日も、その次の日も、毎日僕は動物園に足を運んだ。そして「彼女」に会いに行った。大学の授業もすっぽかして、僕は一日中彼女に会いに行っていたのだ。その度に彼女はあの視線で僕の方を見つめてくるのだ。彼女と二人でいる時間は僕にとって何事にも代え難いものだった。ああ、僕はやはり彼女自身に恋をしているんだろう。あまり恋愛経験のない僕にとっては、こんな熱にうかされたような気分になるのはほとんど初めてと言ってもよかった。こんな幸せな時間がいつまでも続けばいいと心の底から思っていた。
 しかし、幸せは往々にしていつまでも続くものではなかった。展示会の終了と共に彼女らは再びどこかへと行ってしまうということを知った時は、心に鈍い衝撃が走ったような気がした。頭のどこかでは理解していたが、心ではそれを否定していたかった事実。それが今僕の前に残酷に立ちふさがっている。
 ふと、彼女の方を見つめ直す。すると、彼女は一瞬悲しげな瞳を僕の方に向けたのだ。あのいつもの清純さの中に妖艶さを秘めた微笑みでなく、寂しげで悲しみに満ちた瞳で僕の方を見ていた。と、一瞬後には再び元の微笑みを取り戻していたのだが。
 彼女を僕のものにしたい。他の誰にも渡してなるものか。あのガラスケースの向こう側から連れ出して、僕の腕の中に抱いてしまいたい。僕は、強く拳を握り、窓の外へと視線を移した。決行は、今日だ。

 僕は夜陰に紛れて動物園に忍び込んだ。金網を乗り越え、一目散に会場へと向かっていく。彼女に会いたい、その一心で夜の動物園を駆け抜けていく。自分でも実際にどうやって忍び込んだかまでは分からない。でも、今の僕は彼女に会いに行く、そのためならば何でも出来る気がしたし、またしなければいけないと思っていた。
 数分後、僕は「彼女」の前に立っていた。辺りの電気は消えていて、非常用の弱く頼りない明かりがぼんやりと僕と彼女を闇から浮かび立たせている。
「……君に、会いに来た」
 ごく自然に言葉が出た。いろいろ伝えなきゃいけないことはあったような気がするが、今はこの言葉しか頭に思いつかなかった。
 何度も足を運んでいたせいもあって、鍵のある場所は分かっていた。タオルを当て、何度もその場所に金槌を叩きつける。何度目かの短くも儚い抵抗の後に、展示用ガラスは脆くも砕け散った。そうして人一人がようやく通り抜けられるだけの穴を作り出すと、僕は彼女の手を取って一目散に走り出した。考えていたよりも時間がかかってしまった。もうすぐ警備員もこの異常に気付くだろう。それまでに、一メートル、いや一センチでもこの動物園から遠ざからないといけない。僕は裸のままの彼女に自分のジャケットを着せて、自分の限界以上の力で走り始めた。

 ……もう、どれだけの時間走り続けたのだろう。僕はもう一歩も動けなかった。なんとかして自分の家まで帰り着こうと思っていたが、さすがにほとんど裸の彼女を連れたまま電車にも乗れず、近くの大きな公園まで走るのが精一杯だった。
「……ごめん、痛かったろう?」
 僕が声をかけると彼女は笑って首を横に振る。しかし、裸足のまま走ったせいで出来た細かい擦り傷や切り傷が多く目に付いた。嘘つきめ、と僕は呟いていた。
 まだ夜明けには遠い。秋の夜空は少しだけ肌寒く、僕達は空を見上げながら少しだけ肩を寄せあっていた。遠くからサイレンの音が聞こえてくる。きっと僕と彼女を捜しているのだろう。渡すものか、僕は無言のうちに彼女の肩を強く抱き寄せた。一瞬だけ驚いた表情を見せた彼女は、また元のように柔らかく微笑んでみせた。
「大丈夫、僕が君を守ってみせる」
 そうは言ったものの、具体的に彼女を守る術など何もない。そうか、嘘つきは僕も同じことか、となんだかたまらず笑ってしまっていた。
 僕は彼女の方に向き直った。彼女は相変わらず柔らかな微笑みで僕のことを見つめている。僕は一瞬、その赤い瞳の中に取り込まれてしまうようなそんな気がして、頭がぐらついたのを感じた。
「僕は……君のことが……」
 彼女は全てを聞くことなく、僕の唇に自らの柔らかい唇を重ねてきた。突然のことに驚いた僕だったが、気がついた時には彼女の体を強く抱きしめていた。服を通して彼女の鼓動が伝わってくる。たまらなく彼女のことが愛おしい、心からそう思った。
 唇を放した後、彼女は僕の胸に手を当て地面に横たわらせた。そのまま、僕のシャツのボタンを外し、胸元に優しくキスをした。素肌に触れる涼しい風よりも、彼女の体温と自分自身が混乱の極みにあったことですっかり気にならなくなっていた。それよりも僕は彼女の唇と肌が触れた所から流れる甘い電流に必死になって耐えていた。
 と、不意に彼女の手が止まった。僕は彼女の方を見た。彼女も真っ直ぐに僕の瞳を見つめていた。何もなく、何かに満ちた数瞬が二人の間を通り過ぎる。彼女は何かを一言呟いたかと思うと、スッと目を閉じた。
「あ……」
 僕はその姿を見て絶句した。彼女の閉じた目から涙が一筋流れ落ちるのが見えた。
「泣いて……いるのか?」
 彼女は両手で顔を覆ってすすり泣き続けていた。その姿を僕はどうすることも出来ずにただ眺め続けていた。
 ひとしきり泣いた後、彼女は再び僕に唇を重ねた。頭の中がじいんと痺れるような長く甘い口づけ。最後に彼女は僕にあの柔らかで、どこか悲しげなあの微笑みを残して、自らの翼を月光に晒して飛び去っていってしまった。 僕の手にはまだ彼女の温もりが残っていた。手の中には、彼女に着せたジャケットと彼女の青い翼の欠片が残されていた。翼の欠片はまるで彼女そのもののように脆く儚く、ぼーっとしていると崩れ落ちてしまいそうだった。翼を手にしたまま、僕は夜空を見上げていた。

 翌朝、僕は疲れ切った体を引きずるようにして家に帰った。飛び去った彼女の行方はようとして知れない。心の中になんだかぽっかりと大きな穴が空いてしまったような気がして、しばらくは何もする気がしなかった。
「お前、昨日の夜どこに行っていたんだ?」
 家では父親が不機嫌な顔で出迎えた。僕はそんな父に対して何も答える気がしなく、とぼとぼと二階の自分の部屋へと向かっていった。
「全く、何もないから良かったようなものの……動物園に忍び込んで展示会の動物を盗み出そうとした犯人がどこをうろついているか分かったもんじゃないんだからな……」
 と、ふと、父親は床に落ちているものに気がついた。拾い上げてみるとそれは照明の光を受けて青く透き通った光をたたえた翼の欠片だった。
「まさか、あれが、あいつがまだ生きていたというのか? 高崎を殺したあいつが……」
 以前、自分が関わっていた生物実験。その時破棄を免れた実験個体が一時期研究員と一緒に過ごしていたことがあった。しかし、ある時研究員が内蔵を食い破られて死んでいる姿で発見され、実験個体もそのまま行方不明になってしまったのだ。その遠い昔の事件の痛みが脳裏をかすめたのだ。
「これは、罰なのかもしれんな。『神様ごっこ』を続ける我々に対して、本物の神が与えた罰なのかもしれん……」
 誰に聞かせるともなく、一人呟いた。相変わらずテレビのニュースは動物園から消えた「現代の妖精」の姿を映しだしていた。