気がついたら、僕はいつも雨の中にいる。それも、生温かい赤い雨の中に。
真っ赤に染まって疲れ果てた体で僕はまた歩き出す。
雨が降った日、僕の体はいつも赤く染まっているんだ。だけど、僕は雨の日が好きだ。
体の赤く、汚いモノを全て洗い流してくれるから。
一時の、温かくも冷たいシャワーの後、僕の体はきれいな体になる。
赤くなった手も肌色のいつも見慣れた手に戻る。
でも、この胸の痛みは何だろう? 気がついた後の、この痛み。
僕の体が赤く染まる度に、僕の心に重くのしかかってくるモノ。
それが何か分からないけど、今日も僕は赤く染まるのを恐れている。
○
照明を落とした薄暗い部屋の中に揺れる人影があった。一人は細身で長身、もう一人はそれよりもやや小さく丸みを帯びたシルエットを持っていた。二つの影は一度、二度、とお互いの距離を縮めたりしていたが、三度目は一方が一気に近づいていって、そのまま二人の影が重なった。重なったやや小さめの影は重なったまま微妙に動いていた。甘く、押し殺したような切ない声が漏れる。短くも長い一瞬の後、小さな影は甘い切なげな最後の吐息を残して崩れ落ちた。もう一人は何事もなかったかのように乱れた服を整え始めた。
崩れ落ちた影は二度と起きあがることはなかった。先ほどの吐息はまさに「最期の」吐息であった。
「概念が違うんだよ、『抱く』ことと『食事』はな」
崩れ落ちた影にそう一瞥をくれて、部屋を出ていった。夜空が美しい、そう思いながら彼は翼を広げ、夜空へと飛び出していった。
「……ちっくしょう、今度ばかりはちょっとシャレにならんぞ」
机や計器の中からニル・アーリッカはよろよろと立ち上がった。足元がふらついていた。元々体はヤワな方ではなかったが、歩く度に脇腹に衝撃が走った。彼のシャツから白衣へじわじわと赤い染みが広がってきた。動かずに首の動きだけで周りを見回してみる。
「まぁ、いいか。こいつが大人しくなってくれただけでも……」
床にはティムの小柄な体が横たわっていた。二度目にはね飛ばされた時、夢中で投げた「催眠」のメモリシアの効果かもしれない。
「エレノアの所行かないとな。なんか嫌な予感がするんだよ」
ニルは白衣を引き裂いて作った即席の包帯を当てて、よろよろと部屋を後にしたのだった。軽い寝息をたてるティムも一緒に。
「えっ? 相棒? 僕にですか?」
翌日早朝、ケイリード・ウォルフィニックの所にはもう一つニュースが飛び込んできた、それもかなりの衝撃度を持った情報が。
「ああ、どうやらテロ対策には上も相当焦ってるみたいでな、より正確でかつ迅速な捜査の為に人員投入を決定したんだそうだ」
ダレス・マッケンゼンはパイプ椅子をギシギシ鳴らしそう言った。今日付けでこの事件の対策本部長に任命された彼だが、本部長の椅子がパイプ椅子だという所に緊急というか、焦りが感じられる。
「そういうわけで、君にもパートナーがつくことになった。そうだ、今そこまできてるんだよ。入ってくれたまえ」
異世界からの人間にもパートナーが与えられるのか? いや、逆に自分がパートナーとして扱われたのだろうと彼は思った。
ドアが開いて中に入って来たのはなんと、うら若き女性だった。ゆったりめのワイシャツと黒のロングパンツに身を包み、中性的な表情に黒のボブカット、その黒い瞳には意志の強さが感じられた。
「今日からパートナーを組む事になった、SSのフリージア・ロマリエーナといいます。以後、よろしくお願いします」
フリージアの声を聞いて彼は目が回りそうになっていた。
「あの、どうして黙ってるんですか? わたくし、何か気に障ることでもしましたか?」
黙り込んだまま廊下を歩くケイリードと対照的にフリージアは積極的に話しかけてくる。別に嫌いなわけではない。ただ、突然現れた相棒、しかも妙齢の女性という存在に対して戸惑っているのだ。
「これから一緒にお仕事するんですから、せめて、お名前とかお年だけでも教えてくれません?」
この質問も何度目だろうか。フリージアは部屋を出てから何回もケイリードに向けて質問を投げかけている。
「ケイリード・ウォルフィニック、歳は17。こっちでも同じ暦を使っているならの話ですけどね」
ようやく返ってきた質問の答えに今度はフリージアの方が黙ってしまった。まじまじと見つめてくる彼女の視線がなんだか妙だった。「ということは、わたくしの方が年上なの?ずいぶん落ち着いた雰囲気があるから、年上だと思ってたんだけど……」
自分の事を「わたくし」と呼ぶ割には、くだけた話し方をするんだなとケイリードはこの時思ったものだった。対するフリージアは相棒が年下と分かって安心したのか、ケイリードの顔をのぞき込んで妙に明るい笑顔を見せた。
「そう、ケイリードさんって、異世界から来たの……。この事件が終わったら、ここの世界のこと色々と教えてあげるわね」
そう言って、一人で気をよくしたフリージアは資料を取ってくると言い残して廊下の奥へと消えていった。
「何だか、こっち来てからまともな人にあまり会っていないような、そんな気がするんだけど……」
ケイリードは一人肩を落としつつも、迫り来る爆破予告に対して対処するべく急ぎ足になっていた。SSのフリージアという爆発物に対しての知識がある味方をつけて、少しは捜査に心強さが生まれてきたような気がする。あのEメールを受信してから四時間が経過している。爆破予告は今日、彼らには残り時間がなかった。
午前7時30分。朝日が昇り、街に活気が出てきた頃、街の中にたたずむ者がいる。スレイヴドールの「少年」ラーイ・グローム、その人だった。目の前を通り過ぎてゆく人々を眺めながら、自分のことをふと考えてみる、それが最近の日課になりつつあった。
「人間……ワカラナイ。爆弾デ人ヲ殺ソウトスレバ、今度ハ他人ノ事ヲ命ヲカケテ守ッタリ……」
ラーイの頭の中にはまだ昨日のことが鮮明に残っている。あの症状を克服しないことには自分の幸せがないとは分かっているのだが、どうしてもあの衝動に負けてしまう自分がそこにはいるのだった。
「……待テヨ、僕ニトッテノ『幸セ』ッテ何ダ?」
ラーイの頭にまた新たなる疑問が生まれた。しかも、これは最も回答に困難を極める問いであることは彼はまだ気づいていない。
「『幸セ』ッテナンダロウ……」
新たな疑問を見つけたラーイはリール地区の人混みの中を漂うように歩き出した。人混みの中にいると「自分」という存在が希薄になってゆくような気がしてあまり彼は好きではなかったのだが。
ふと、足を止めて上を見ると映画館の大きな看板が見えた。
「幸福ノ、条件……?」
午前9時、帝都リール病院。エレノア・ティルピッツはラーイのクローにより負った傷で未だ入院中だった。
「エレノア……元気か?」
「ニル! どうしたの、その傷!」
病室に入ってきたニルとティムをエレノアは驚きで迎えた。パジャマの下の胸に巻いた包帯が痛々しかった。ニルはというとジャケットと持ち前の強気で傷を隠していたが、エレノアの目にはすぐに見抜かれてしまっていた。
「あれ、ティムまで……どうしたの?」
「ああ、こいつの事でエレノアに話があるんだがな……」
ニルはいつになく真剣な表情でエレノアの目を見つめた。
「エレノア、お前、こいつのことどう思ってるんだ?」
ニルが椅子に腰掛けながら言う。
「どうって、あたしはあの子が凍えてるのを見るのが辛かったから、親を見つけるまでの間預かっててあげようかと……」
そこまで言ったところでニルはベッドに手をついて詰め寄った。
エレノアが一瞬怯む。ニルは身を引いた彼女の耳に顔を近づけた。
「いいか、こいつは大人しい子供と思ったら大間違いだ。こいつは、化け物じみた力を持った人間もどきだ、少なくとも人間じゃねぇ」
ニルの言葉にエレノアは絶句した。少なくとも彼女の目には大人しい少年としてしか映っていなかったから、その驚きは想像を超えたものに違いない。
「じょ、冗談でしょ、ニル……」
言葉も体も両方震えているエレノアの目をニルはただ黙ってじっと見つめていた。病室に重い沈黙が覆い被さる。ティムは言葉一つ発するでもなく、視線を二人に向けていた。
「とにかく、ティムの事はオレに任せろ。このままだとお前、まともな生活が送れなくなるぞ」
そう話すニルの言葉に冗談という要素はひとかけらも無かった。
エレノアはニルの言葉を聞いた後、ずっとうつむいたままだった。
「ねぇ、ニル。あたしは今までニルにいろんな事言われたけど、今の言葉ぐらい頭にきたものは無かったわよ」
しばらくの間うつむいていた彼女が低い声で呟いた。彼女の髪の向こう側がどうなっているのか、ニルはまだ分かっていない。
「『このままだとまともな生活が送れない』なんてあたしの心配してくれるのはいいけど、ニルがあたしの代わりに危ない目に遭ってくれなんていつ言ったの?」
病室の空気を大きく震わせてエレノアは半ば叫ぶように言葉を叩きつけた。
「いい? この子のことであたしが危ない目に遭うのはあたしの勝手だけど、ニルまで危ない目に遭うなんて事はあっちゃいけないの!
あの時だって……あたしは、勝手に体が動いたんだよ。あいつのクローが見えた瞬間、『危ない!』って思ったら……」
エレノアは気丈さを前面に出して言葉を続ける。後の方では言葉が少し震えていた。
今度はニルの方が黙ってしまう番だった。意外な言葉をぶつけられて、完全に彼の表情は固まってしまっていた。
「あたしのせいで、ニルが危ない目に遭うなんてあっちゃいけないんだから……」
その言葉が終わるか終わらないかの所で、ニルはエレノアの体を抱き寄せた。ニルは彼女の傷をなるべく刺激しないように力を加減して体を引き寄せた。エレノアの鼓動が包帯を通して伝わってきた。 しばらくの後、ニルはエレノアの体を離した。彼女の頬には朱がさしていて、表情はぼんやりとしていた。
「お前の言いたい事は分かったよ。だがな、オレはお前を危険な目に遭わせてしまった以上、この事件を解決する責任があるんだ」
ニルはそう言って席を立った。ティムはじっとエレノアの方を見つめていた。
「ティム、キミがどんな子か分からなくても、あたしは気にしない。あたしの目には……ティムが悪い人に見えないんだからさ」
エレノアはティムの頭を軽く撫でて、ニルの方に送り出した。
「あたしも早い内に退院するからさ、それまでお願いね」
その答えに返答は無用だった。ニルは軽く笑うと、ティムを連れて病室を後にした。エレノアは小さく笑うとベッドに身を沈めた。
「やっぱり、気づいてないのかなぁ……」
ベッドの中で、一人そんなことを呟いてみるのだった。
午前10時。リュート・ラグノールは人が行き交う街の中を真っ黒い服装でうろついていた。
「ぐぇ……暑くてかなわん。黒い服なんて着るんじゃなかった……」
この日は記録的猛暑であった。黒い服ならなおさらである。
「こんな時こそ、心頭滅却すれば火もまた涼し……南無……」
人々が行き交う街の中で、ぶつぶつ呟いてみる。人口一千万を超えるブレンブルグには様々な人がいるが、こういう人間はどの世界でも少数派である。
「明鏡止水の心境をもってすればこれしきの暑さ……」
黒い衣服の中に見える顔がだんだんと赤くなる。限界は近いはず。
「だぁーっ、暑い! 暑い暑い暑い!」
……ついに限界突破。名のある高僧ならまだしも、凡人が急にそんなことが出来るわけない。困ったときに一生のお願いを連発する人間に対する神様の態度にもどこか似ているような気がする。
さて、リュートである。暑さに半狂乱になった彼は近くにあった古びた映画館へと飛び込んだ。映画の内容もろくに確認せずに。
彼が入った映画館はリール地区で最も古い映画館だった。映画自体も古い物らしく、彼の理解の外にあった。まあ、「映画を見る」という「軟弱な」趣味は持ち合わせていないリュートではあったが。
「映画館か……ふん、事件を追ってたらこんな所に辿り着くとはな」
映画を見るつもりなど毛頭無かったが、代金を払ってしまった以上仕方なく銀幕の前に座ることとなった。開始のブザーが鳴り、映画が始まる。主人公の生い立ち、親しい友人達とのシーン、恋人との会話……様々なシーンが流れてゆく。いつしかリュートは銀幕の世界に引き込まれていった。周りのことは目に入らず、その視線は全て銀幕の中に向けられていた。
映画が佳境に入った頃、辺りが急に騒がしくなってきた。何やら廊下を走る音や人の怒鳴る声などが大きくなってきたのだ。
「何だよ!せっかく人が感動してるって時に!」
リュートは数年ぶりに流した感涙も拭わずにドアの外へと怒鳴る。 しかし、潤んだ彼の瞳には意外な物が映っていた。大勢のSSが警備体制をひきつつある光景を。
その頃、ラーイの行った映画館でも同じ様なことが行われていた。何人ものSSとEP関係者が映画館に入り込んで、辺りは騒然とした雰囲気に包まれた。
「コレハ……? 何カアッタノ……」
口調は穏やかだが、ただならぬ雰囲気を感じてラーイの違う人格が目を覚まそうとする。
「皆さん! SSの権限により、この映画館から退去して頂きます。落ち着いて、慌てずに映画館から退去して下さい!」
恋人達の口づけのシーンが流れるスクリーンの前で、拡声器を手にケイリードが布告する。彼はテロ対策のために各映画館からの避難勧告を出すように提案した。ダレスは市民をあまり刺激しないようにと付け加えて承認し、映画館からの退去を指揮する立場としてケイリードを派遣したのだった。
「退去……? ナンデ、アノ人ハ僕ノ邪魔ヲスルノ……?」
ラーイが拡声器を手に次々と観客を退去させてゆくケイリードに視線を送る。心の中で何かが反発していた。少なくとも彼は自分が興味のある映画を邪魔されたことが気に入らなかった。
しかし、ラーイはわき上がってくる物を必死で抑えようとした。
自分が自分で無くなるあの瞬間が恐い……彼が「ラーイ・グローム」として生きるようになってから、彼はいつもその恐怖に怯え続けているのだった。
「すいません……ご気分が悪いんですか……?」
ラーイの肩にかけられる声、ケイリードと一緒に避難誘導の指揮役として派遣されたフリージアであった。
「ア、ウ……ボ、僕……」
「大丈夫、心配ないですから、落ち着いて行動して下さいね」
ラーイは微笑みを浮かべたフリージアの手に引かれて、心残りながらも映画館を出た。
数十分後、B映画館からの一般客退去は完了した。人々は具体的な理由も聞かされないまま映画館を遠巻きに見つめていたのだった。 同じようにC映画館も封鎖された。こちらも同じくテロ対策ということは観客には告げずに映画館から退去させた。対策本部長ダレスが付け加えた「市民を刺激するな。自分のいる建物に爆弾があると知って慌てん奴などいるはずがない」という点を守ってのことだった。
ここで話はA映画館に移る。ここでは配置された人員が少な目のせいか、封鎖作業が遅れ気味だった。いや、それ以外にも理由が。
「何すんだよ! 人がせっかく映画を見てるって時に!」
廊下で張り上げられる大声、言わずもがなの彼である。今までの映画論もどこへやら、SS相手に大見得を切っての攻防である。
「だぁかぁらぁ! 俺達が映画見てるのを邪魔する権利がなんでお前らSSごときにあるのかって聞いてるんだよ!」
詰め寄るリュート、負けずに突き返すSS、両者の間には一触即発の危険な空気が張りつめていた。リュートにはいつのまにか一緒に映画を見ていた年配の方々が味方について彼と一緒になってシュプレヒコールをあげる始末にさえなっていた。両者は一歩も譲らず意地と意地の張り合いに進展。いや、一刻も早く観客を避難させなければならないSSの方に焦りの成分が含まれていた分不利なのか。
「とにかく、一刻も早く映画館から退去して下さい!入館料やその他の補償はいたしますから!」
「『補償します』だと? いい加減にしろよ、俺達は映画館に映画を見に来てるんだ。その意味が分かるか?映画館で見るってのはなぁ、ただ家で見てるのとは意味が違うんだよ、意味が!」
SSの言葉に半ば逆上してつかみかかるリュート。こうなってくるとSSとしてもとりうる選択肢は自ずと絞られてくる。
と、その時リュートの足元を何かが駆け抜けていった。それに一瞬リュートが気を取られた隙を狙ってSSは一気に強行封鎖を決行した。なだれ込んでくる制服姿の川に黒い物体がもみくしゃにされて沈んでいく光景が二階からはっきりと見てとれた。
「いててて……ちくしょう!SSの野郎なんて大っ嫌いだ!」
映画館の外に放り出されたリュートが叫ぶ。最後の方まで抵抗を続けた彼も結局は数人のSSにより、強制的に退去させられたのだった。今は映画館の前にある空き地にへたりこんでいる。
「あん時、俺が気を取られなければ……って、ん?」
愚痴を重ねるリュートの所に猫が一匹すり寄ってきている。ごろごろと喉を鳴らしながら体をすり寄せる姿はリュートならずとも心を和ませるには十分かもしれない。
「お前だけだよ、俺の気持ちを分かってくれるのは……」
リュートが猫の体に手が触れる瞬間、猫は脱兎の如く逃げ出していってしまった。後に残るはリュートただ一人。晴天なのに、彼の心の中はスコールが降り始めていた。
B映画館、ここでは観客の退去も完了し、爆弾の捜索が行われていた。爆破時刻は特に指定されてはいなかったものの、爆弾処理は一刻を争う。時刻を指定してこないということは、今この瞬間にビルが吹っ飛んでもおかしくないということなのだから。
「まずいわね……予想以上にもたついてる。一刻を争う時に……」
フリージアが焦りの色を濃くする。一応、彼女もSSなので爆弾処理技術を身につけて現場慣れはしているが、それでも焦りは隠せない。すると、一緒にいるケイリードが目で彼女を励ます。フリージアは一瞬微笑みを浮かべてすぐに捜索に戻る。実はこの二人、にわか仕立てにしてはなかなかいいコンビかもしれない。
捜索範囲はかなり広い。映画館自体が大きなビルであり、その中に巧妙に仕掛けられた爆弾を探さねばならないのだから、神経がすり減るのを短時間に自覚できるような環境にはもってこいだった。
「フリージアさん、ありました!」
廊下の奥の方から聞こえてくる声。それは彼女が聞きたかった、(いや、本心は聞きたくなかった)事実を報告する声だった。
フリージア達は一つため息をつくと、廊下を走りだしていた。
爆弾は客席の椅子の部分に巧妙に仕掛けられていた。しかもご丁寧なことに爆弾を黒く塗って、カモフラージュまで施されている。 爆弾はリミットボム、それにメモリシア「火」と「熱」で威力を増大させた物だった。爆弾処理自体は何とかなるかもしれないが、発見が遅れたことで、爆破までの時間が迫っていた。デジタル表記を見る限りあと十分足らずしかなかった。
「ケイリードさん、他のSSを避難させて下さい。処理はわたくし一人でやりますから……」
その言葉にケイリードは無言で従った。短時間のうちに他のSSを避難させ、映画館から他の人影を消したのだ。
リール病院からの帰り道、ニルとティムは映画館の異様な雰囲気に足を止めた。ビルを遠巻きに見上げている人々に聞いてもその理由を教えてはもらえなかった。
「……何かあったのか?」
そう呟いていると、彼の脇を誰かが通り過ぎた。彼はその人影が他の人影と違うことに敏感に反応した。忘れようとも忘れられない、あの時の黒い影。奴だ、間違いない、エレノアを傷つけたあいつに。ニルは人混みの中をさまよい歩く「彼」に狙いを定めて追っていった。あと五メートル、三メートル、二メートル……。
「おい、そこのあんた。ちょっと待てよ」
後ろから声をかける。「彼」が振り向いてニルの方を見る。やっぱりそうだったか……ニルは心の中で呟いた。
「アノ……僕ニ、何カ用デスカ?」
「彼」ラーイ・グロームは不安そうな面持ちでニルの顔を見る。
不安そうなラーイとは対照的にニルの中では怒りがふつふつとわき上がってきた。こいつのせいでエレノアが……そう思うと感情の抑制がきかなくなりそうだった。
「あんた……俺の顔を覚え……」
そこまで言った瞬間、人々が急に騒ぎ出した。ビルから煙が……。
「くっ……ずいぶんとふざけたことして……」
煙の出所は例の爆弾だった。残り時間が三分をきった所で、爆弾から猛烈な勢いで煙幕を張り始めたのだ。フリージアはゴーグルをつけるのが遅れたため、直撃を受けた目をやられてしまった。必死に爆弾を停止させようとするが、視界が全くきかなくなっていた。
「目が……油断したわ……ごめんね、ケイリードさん……」
煙のせいではない涙を拭おうとした彼女に触れる手があった。驚いて振り返ってみても、そこにはぼんやりとした人影があるだけだった。今、このビルにいるのは自分一人だけだと思ってたのに……。
「フリージアさん、助けに来ましたよ」
彼が顔を近づけてくるが、フリージアはまだはっきりと彼を認識できていない。それでも「感じ」はつかめていた。「彼」の感じを。 助けにきたのはケイリード・ウォルフィニックその人だった。彼は他のSSを避難させた後、一人またビルへと飛び込んでいったのだった。
「フリージアさん、僕につかまってて下さい……」
口を耳に近づけて一言呟く。フリージアはうなづくと、ケイリードの後ろに隠れるようにしてしっかり彼につかまった。ゴーグルを通して見えるデジタル表記は二十秒をきっていた。このまま逃げても、間に合わないことは分かっている。ならば……。彼はおもむろに星剣を構えた。自分の意志全てを星剣に集中する。逃げ切れないのは分かっている、ならば、星剣「ウィアードブレイカー」を使って、爆発の影響を最小限に抑え込むしかない。咄嗟にそう考えた。 神経を限界まで鋭くして、その瞬間を待っている。あと十秒、九、八、七……心臓の鼓動が限界まで早くなる。決めるのはカウント零の瞬間。生きている保証は全くないが、それでもやるしかない。
四、三、二……ケイリードは星剣に文字通り「全力」を込めた。
「星剣よ、僕に力を……!」
ケイリードは叫んだのと同時にカウンターは零を示す。その瞬間、全ての物が弾けた。全ての物が光の中に呑み込まれていった……。
「……っ、う、ん……」
もうもうとたちこめる煙の中に声が漏れる。辺りの物がうっすらと煙の中から浮かび上がってくる。
「生きてる……のか?」
煙の中から身を起こす。どうやら、物好きな神様もいるものらしい、と彼は思った。あの瞬間、星剣の刀身を盾状に展開して、爆風から自分と後ろにいる自分のパートナーを守ろうと……そこまで思いを巡らしたとき、急に頭の中で弾けるものがあった。
「フリージアさん!」
彼はすぐ後ろにいる女性を抱き起こす。気を失ってはいるが、幸いなことに、無事らしい。思わず安堵するケイリード。
とりあえずフリージアの無事を確認した彼は辺りを見回してみた。椅子は爆風の影響で床から金属ごとはぎ取られる格好にはなっているが、壁には大した損傷は見られない。爆弾は確かに「爆発」した。こんなものがわざわざ予告するほどのものか……?彼の中に疑問がわいた。だが、次の瞬間、視界が急に狭くなった。精神力を限界まで使ってしまったせいか、彼は膝をがっくりとつくと、そのまま彼の意識は暗闇に落ちていってしまった。
映画館爆弾テロ事件は不可解な点をいくつか残したまま終結した。B映画館と同じく、他の映画館でも確かに爆発はしたが、せいぜい被害は部屋一つの規模でおさまっていた。今までのように建物全体に被害が及ぶようなものではなかったのだ。テロの真意はなんだろうか?そして犯人は……?いくつもの疑問点を残したまま、予告された日がもうすぐ終わろうとしていた。
帝都リール病院、午後11時45分。消灯時間を過ぎた病院はひっそりと静まりかえっていた。暗い夜の中に白っぽく浮かび上がる病院のシルエットに近づいてくる者があった。それは翼を広げ、病院の前へと降り立った。
603号室、ここがエレノアの病室だった。エレノアは病院と同じように、眠りについていた。彼女がうとうととした所、何かの気配を感じて目を覚ました。
「……誰? そこに誰かいるの?」
寝起きの声で誰ともつかない者に呼びかける。そこには誰もいない。いないはずだ。
「……誰とは、俺のことを聞いているのか……?」
予想もしなかった返答が返ってきて、彼女は飛び起きた。「いないはず」の人間がそこにはいるからだ。
エレノアは目の前に浮かび上がる白い肌の青年に目を奪われた。虚ろな瞳と表情、病的なようにまで白い透き通るような肌。その容姿は何か、この世ならざる、異世界の住人が持つ不可解な魅力が感じられた。いや、それよりも彼女の目をひいたのは彼の背中からは例えるならフクロウのような翼が生えていることだった。
「あなた……一体誰? ここに、何しに来たの……?」
エレノアは何か、得体の知れない恐怖にも似た感情に怯えながら声を出した。目の前の「彼」は相変わらず虚ろな表情をしている。
「……俺の名はハーラン、ハーラン・ウィルバー……」
ハーランと名乗った男は軽い含み笑いを浮かべると、食事にきたのだと一言低い声で呟いた。
「食、事……? あなた、何者……」
そこまで言うと、いつのまにかエレノアはハーランの腕の中に捕らえられていた。目の前に虚ろな、だが魅惑的な表情が近づく。
「エレノア、とかいったな」
表情だけでなく、声も虚無的な、退廃的で不思議な魅力を持った声だった。心臓の鼓動がものすごい勢いで早くなっているのを感じる。頭の中がしびれてきて、何だか体が熱い……不可思議な高揚感に彼女は包まれていた。考えることがおっくうになってきていた。
「食事の前に、一応、聞いておこうか……お前の最後の望みは、一体何だ?」
ハーランの言葉は、エレノアの脳裏に直接響く感じがした。精神に直接問いかけられているのだろうか……彼女はそう思った。
「あたし……あたしの望み……」
彼女は高揚している頭の中で必死に何かを考えていた。
病院に「使者」が訪れる少し前、テロ対策本部。本部長ダレスは今日のテロ事件に関する調査や報告などに追われて、一時も休まる事が無かった。
「しかし……一体どうなってるんだ。こんなにテロが頻発するようになってしまったとは……」
ダレスは頭を抱える。ケイリードとフリージア他、SSの力をもってしてもテロを未然に防げなかったということが重くのしかかってくる。犯人を捕まえることは不可能なのか……そんな考えもわく。 そんな時、ダレスのディスプレイに突然文字が打ち込まれ始めた。
「これは……?」
ディスプレイに次々と表示される文字。その内容を追ってゆくうちにダレスは怒りの感情がわき上がってくるのを感じた。そして、全てを読み終わらないうちに彼は近くの電話を取り、無意識のうちに指示を出していた。
「今まではほんの遊びのつもり。でも、次は本気でいくよ。明日の十二時に帝都リール病院を狙う。爆弾はもう付けている。なんで、こんなことをするか、キミ達には分からない。誰も、何も、わかっちゃいないんだから……みんな、嫌いだ……大っ嫌い……」
事実上のテロ予告に再び対策本部はざわめく。「今まではほんの遊び」という言葉に彼らは本気で怒りを見せた。人間の命というものを軽視した人間を必ず捕まえてみせる。そんな熱気が感じられた。 狙われた帝都リール病院ではまた、もう一つの出来事が起ころうとしていた。様々な不安を抱えながら帝都の夜は更けていった。
第3話 終