岡崎直司さんが「堀田建設(株) 社報あけぼの」に連載していたものです。
今回了解を得ましたので、気の向くまま適当な順に掲載していきたいと思います。
ただし、申し訳ありませんが写真は割愛しました。

建築探偵シリーズ 第42回(平成3年6月)

三崎町石垣ウォッチング

 今回は石垣を追っかけます。え? 石垣が建築かって、まっそう固い事言わないで、原稿が無い時もあるんだから。

 さて、我々の住むニッポンは木の文化圏だと思いますか?石の文化圏だと思いますか? と言ってもこの設問はちと微妙です。まず、石の文化圏として、ヨーロッパでは城や橋、住宅など殆どを石で造り上げて来た。一方日本は、重要な建築物の殆どを木でこしらえてきた。しかしそれを取り巻く環境はかなり石が使われていた。城や寺の石垣、住宅の基礎、川の護岸そして段々畑etc。つまり、日本はよく木の文化圏だと一刀両断に決める事が多いけれど、こうして見るとなかなかどうして、石の文化圏だと胸を張れなくもない。

 前置きが長くなった。その胸を張る部分としては、それこそこの佐田岬半島地域は石垣の宝庫です。特に三崎町には、写真のようにまだ多くの石垣が残されている。

 @は井野浦にある阿弥陀池の畔(ほとり)に建つ漁具倉庫。海に面している為、潮風から守る工夫がこういう形になったようだ。面白いのは、正面扉の形、特に石垣と接する右側の板は、ナント、石垣の形に合わせて切り込まれている。 建築探偵を目指す人は、ここでムカンドーではいけません。素直に驚いて下さい。

 Aの写真は大佐田集落にある天満神社の石垣塀。鳥居のテッペンまで石垣の高さが揃えられ、実に壮観です。ここで面白いのは、@の写真とどこか風合いが違うこと。これに気付く人は石垣ウォッチャーのプロ。@の方は少し丸っこくて隙間があるけど、Aは角ばってて密に積んである。つまり、@は海石を殆ど自然のままに積んだのに対し、Aは集落の中にあって少し海から遠い為か、山石に手を加えて積んである。又、緑っぽい青石に対して、鳥居は花崗岩なので白っぽくて肌合いが違い、風景として見た時に程よいアクセントとなっている。瀬戸内海の大島からでも運んだのだろうか。

 Bは、これも阿弥陀池の畔にある畑を囲む青石垣。潮風などで塩害から作物を守る為に築かれたらしい。浜が近いので海石をそのまま無造作に積んである。低いもので50〜60cm、高いものは2mを超える。誰かが言った。「この風景は日本というより、地中海のそれに近い。」と。

 こうした青石(緑泥片岩)の様々な石垣形態が、佐田岬の地域景観に美しく作用しているのは間違いない。どうだ、日本は石の文化圏だァ。(04年7月3日転載)

建築探偵シリーズ第50回 (平成4年2号)

レクイエム あたらしや (保内町宮内)

 へぇーそうかぁ。もう50回になるのかぁ。昭和62年の10月号から記事の穴埋めに書き始めて、何となく続いて来たものの、考えればいろんな方から「なかなかオモシロイ。」とか何とか励まされ、豚もおだてりや木に登るの例えで、こんな連載になろうとは。

 第1回が、今は無き旧八幡浜繭糸売買所(カネカ市場)の木造四階建てで、市内朝潮橋のヒロタ商会さんでありました。建物は、結局無くなってしまえば、それがどんなにいい建築物であったとしても、記憶のかなたに消え去るのみ。やはり何かの形で記録していかなければ、地域個性を活かした建築デザイソなど夢物語で、没個性の建物群がやたらマチに氾濫する。という事で、今号は50回記念、歴史的建築物の解体について、小沢昭一的ココロだぁ。

 昨年の暮れも押しつまった12月24日、保内町宮内にある“あたらしや”と呼ばれる商家が解体されました。その直前、持主の方のご好意で資料が役場に保管される事となり、その中から珍しい板図という、板面に墨書きされた昔の間取り図が発見されました。それによると、母屋と蔵は文久元年(江戸末期)、今から130年前のものと判明、大工は八幡浜の武エ門、旧竹内邸と呼ぶらしき事なども判りました。

 そうした中、文化財的見地から図面による記録保存の動きとなり、所有者のご理解により解体も数日間延期の措置がとられ、民家調査グループ(茅舎)、八西建築士会有志の方々の協力の元実側調査が行われました。その時の建築部材の一部やら記録図面は、今月22・23日に八幡浜市民図書館にて展示されるとの事。

 さて、そんなこんなで、今では現物を見ようったって残された図面と写真で判断するしか方法はありませんが、少しばかり読者の方にも偲んで頂きましょう。当初の竹内姓から現在の菊池さんに代が替わり、そんな時の流れを経た江戸期の商家建築ですから、本当の詳しい事はまだよく解りません。ただ木ろうを扱っていた家である事は聞き取り調査で明らか。みせ部分の戸棚にはかつて、沢山のろう関係の小物が入っていたらしい。面白いのは、2階が化粧部屋1階が湯殿の建物。だ円形の風呂桶が役場に保管された。衣装蔵は天保三年の建築で今からざっと160年前のもの。これら全て、地上から姿を消すのに一日とはかからなかったのでありました。(04年6月30日転載)

建築探偵シリーズ 第17回(平成元年4月号)

ある鉱山王の館 宇都宮写真館(保内町琴平)

 洋風の宇都宮写真館は、二宮医院(前号紹介)の右隣にある。建築年代は、現 住者の宇都宮さんによると明治18年頃ではないか、とのこと。建てた人は白石 和太郎、例の川之石ドレメ建築に関わるその人でもある。丁度道をはさんで向い 側、宮内川沿いにもただならぬ建物(こちらは和風)があるが、こちらは当時の 別荘とか。いやはやこの白石和太郎なる人物、あちこちに凄い建物を次々と建て ていったようだが、一体、″どがいなヤツ″だったのか地元の人間ならずとも気に なるところである。
 そこで例によって探偵クンの調査が始まる。すると当地きっての事業家として かなりのやり手であったことが浮かびあがってくる。まず保内町誌によると、明 治初年に生まれた彼は、同23年保内町須川にあった柳谷鉱山を手始めに白石鉱 業合名会社を発足させ、雨井の大峯鉱山などあちこちの鉱山経営に乗り出してい る。同38年、四国初の紡績会社であった宇和紡績を買い受ける形で白石紡績を 始めたことから見て、鉱山経営がかなりうまくいっていたものと思われる。
 明治末期には宇和鉱業会社を組織するに及び、中でも当地最大の鉱床であった 大峯鉱山はその頃、出鉱量であの大住友を支えた別子銅山に次ぎ、四国第二位で あったというから凄い。掘り出された銅鉱石は細かく選鉱された後、八幡浜港沖 の佐島にあった精錬所へと送られた。ともかく、西宇和郡一帯で全盛時には試掘 も含め80鉱区を数えたというから、当時は一大鉱業区であったことが判る。地 質学的にも実ほ、佐田岬半島から九州にかけては日本有数の大鉱脈であるらしく 大きくは中央構造線に沿っている意味でも別子銅山などと同じな訳である。しか し、さしもの隆盛を誇った銅鉱山も、やがて鉱質の劣化と精錬時の煙害などによ り、戦後まもなくの閉山へと歴史は流れるのである。写真は大峯鉱山の坑口であ るが、しっかりしたレンガ積みの大きな入口は、塞がれてはいるものの当時を偲ぶ に足る構えである。ここを、彼白石和太郎も通ったのだ。
 さて、その彼が建てたという肝心の建物の方を見てみよう。尾根瓦の棟飾りに は白石の白をアレンジしたと云われる模様が入っている。入口は持ち送りのデザ インも洋風で、上ばかりでなく目を下にもやると、花崗岩が美しく加工されてい る。この家もご他聞にもれず、グルリと足元を切り石積みにしてあるが、単なる 基礎石にこれだけの大材を使うのは、もうそれだけで財力が思われる。恐らく舟 運で宮内川をさかのぼったのだろう。玄関部分に入るとカウンターがあって、 内部とやり取り出来るようになっている。一般住宅のそれではない。 旧白石銀行の事務所として使用されたという土間の方もしゃれたデザインのタイルが 市松模様に配され、一味違う計算された美しさを感じる。しかし中の居室へ向かうと 外観の洋風と違い造りは意外と純和風でまとめられていた。違うのは洋館特有の 縦長スライド窓と、二宮医院と同じ木製ドアの意匠くらいである。ただ二間と半 間の欅の床板や、非常に妙ならせん階段にハッとさせられるのは、やはり普通の 家でないことの充分な証だ。外部裏手へ回ると浴室に当たる所のレンガ塀が美しい。
 ひょっとすると白石和太郎は、建築道楽の癖があったのかも知れない。ただの 成り金趣味ではない懲り方の一途さみたいなものが、雰囲気として伝わってくる のである。彼は一体この家で何を考え何を夢見たのか、八面六臂の活躍をしたであろう 一鉱山王の物語としてこの洋風建築を見るとき、建築探偵の胸は春爛漫の桜 の如くロマンであふれるのであった。

建築探偵シリーズ第10回 (昭和63年9月号)

 ”らんまのやかた”  太陽産業事務所(八幡浜市沖新田)

 昭和通の西の端、港のそばにそれはある。ピシッと決まっている。見た目で重 量感あふれるこの建物が、実は木造であることを知っている人は何人いるだろう か。チョイと見、鉄筋コンクリートのこの建物は、木造二階建の外装を"洗い出し ″という手法でモルタル塗りにしたものなのだ。
 現在は、窓がサッシュになっているほか殆どが建築当初のままで、建築探偵と してはついうれしくなってしまう。さっそく中を拝見。鉄筋に見えた部分が事務所 になっていて、洋風の間取り、そして裏に純木造の住宅が続く。事務所に入ると まず木製カウンターが私を迎えてくれる。そこはそれスチールやアクリル合板な どは使っていない。わかっちゃぁいるが実に結構。木製ドアには、クリスタルの ノブと真鍮金具。天井の空気穴や二階洋間の天井隅飾りも決して手抜きなしの優 れモン。しかし、建築探偵なる者この洋風を基調とした事務所部分にだけ驚いて いてはいけない。きっと奥に何かあるはず。
 そう、後でわかったことだが、ここの見所は奥に続く住居部分にある。特に欄 間彫刻や書院障子の素晴らしさは、ついポケッと見惚れてしまうものだ。これら が作られるときの手間や時間を考えると、現代の施工業者の現状からして素直に 脱帽しておいた方がよさそうだ。ポピュラーな"竹に雀″から始まって"兜″や "から草紋様″が彫り込んであるかと思えば"鳳凰″が華麗に舞い、見るものを堪 能させる。念のいった書院障子のデザイン一つ一つに建具職人の心意気を感じる。 敷居は桜材(滑りが柔らかくしかも丈夫。)床板は欅や肥え松の一枚板。その他、 漆塗りの飾り床が美しく、意匠的にもモダンを感じる。掲載写真はその一部のため、 雰囲気がご想像頂けるかどうか。施工は、地元の大工棟梁である笹山某の名が伝 えられている。
 ある部屋の床の間には、創業者である青木繁吉氏のブロンズ像(胸像)が置か れ、今でも建物全体を見守っているかのようだ。氏は土佐の人だが、愛媛の経済界で も立志伝中の人物で、今も地下備蓄で有名な菊間の製油所に社業の発展を見る。 この建物は、昭和十二年、正に青木石油(旧社名)が社業の基礎を固め一層の飛 躍を目指した時期に、本社社屋及び社長居宅として建てられた。青木繁吉社長、 時に五十才、次代をになう石油会社のオーナーとして、文字通り油の乗り切ったこ ろであった。