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2004年3月22日 19日に「梅美人見学会&おめで登録パーティの報告」を安藤加代子さんからいただきました。
「梅美人酒造 国有形登録文化財選定」に係わる現地見学会及び祝賀会兼交流会平成16年2月29日(日)
○梅美人酒造は、八幡浜市で、初めて国有形登録文化財に選定された。
○八幡浜市は、明治期に「伊予の大阪」とよばれ、港を利用した商業が盛んだった。その背景には、明治3年に宇和島藩が民間につくらせた八幡浜商社の伝統があった。大阪から商品を仕入、高知県や愛媛県南部、九州などにむけ、呉服や太物の中継ぎ貿易で栄えた。この時期に、呉服の行商で富を築き、大正7年に酒造業に転業したのが、梅美人酒造の創始者上田梅一さんである。その名を取って梅美人と名付けられた。
○事務所は、昭和8年に完成。外観は洋風だが、内部に入ると寄棟屋根の日本瓦葺き建築となっている。
○住宅や医院などとは違う、銀行や会社の事務所を連想させる建築スタイルである。
○「ウメビジンホン店」と描かれた煉瓦煙突(昭和3年完成)が目を引く。
○玄関の中に帳場があり、畳の部屋に続いている。2階は和室が6部屋もあり、宴会の時には襖を外して広く使用していたようで、天井が高い。
○床の間の違い棚の造りなど、至る所に細かい気配りで贅を尽くして建てられたことが伺える。
○蔵は、戦時中に塗られた迷彩色のままである。大正7年の創業時に建設。
○蔵の中に、現役で使用されている圧搾機(水圧によって酒を絞る器械・・・舟)がある。昔の物なので、余り量を絞れないので、大量生産が出来ない。よって、酒粕にはお酒の成分がたくさん残っていて美味しい。
○設計者は不明だが、施行は濱上組。
祝賀会兼交流会
上田社長、ご家族、八幡浜みてみん会(代表:菊池勝徳さん)、濱知の会(代表:大本敬久さん)を始め、梅美人さん関係諸氏、宇和町、町並み博関係、保内大学(学長:白石久晴さん)生7名他50名弱の方々が集い、梅美人さんの文化財登録を祝った。
上田社長の挨拶の言葉に、登録に向けての並々ならぬ決意を深く感じました。
出席者各位の祝辞に、登録を祝う喜びとそれぞれが地域を思う気持ちが伝わり、和やかな会でした。
ご出席の皆さんとの交歓の中で、交流の輪が拡がる機会になりました。
注:保内大学・・・保内町の町おこしグループ
2004年3月22日 旧白石和太郎洋館・・・
保内町琴平にある旧白石和太郎洋館。ここが、今年改修されるよう・・・。「教育費」「社会教育費」「委託料」−旧白石洋館改修工事管理業務委託料65万円/「工事請負費」−旧白石洋館改修工事費3000万円/が予算化されている。
16日 保内郵便局からの帰りに寄ってみると、おそらく軒部分の漆喰かと思われる部分が落ちて、地面で粉々に。また、その他の部分もよく見てみると、それなりに傷んだ箇所がある。入り口ドアのペンキも剥がれがあるような・・・。これらも含め、どのような改修が行われるのだろう?
ところで、この洋館の向い側のお家も,千本格子、床下部分にある持ち送り・・・気になるといえば、気になる。「たぶん、建築年としては旧白石洋館よりも古いのかも?」と見立てる方もいらっしゃる。どうか "古いから・・・" "きれいになった洋館の前で恥ずかしいで・・・"で壊されることのないように・・・。洋館とその正面に建っている日本家屋−その対比がなによりの魅力!? (案内人)
旧白石洋館の向いお家は2004年4月23・24日に解体とのこと
2004年3月16日 水本孝志さんから久々の投稿です。ありがとうございます。
『不粋でござる、山の鉄塔群!!』
私の家向かいの小高い丘に石鎚神社がある。当神社周辺の“鎮守の森”は、
ホルトノキやクスノキ等の照葉樹と競うように生育しているムクノキやエノキ
等の落葉樹が素晴らしく、今はまだ裸木の風情で、来るべき春の陽射しを待
っている。年中、フクロウがさえずり、イカルが木の実をついばみ、夏にはキビ
タキが子育てし、時にアオバズクが姿を見せることも。冬季はシロハラやシメ、
アオジたちが休息する。
さて、2月の中頃から、神社に隣接する伊予柑畑に、
突如ブルトーザーが出現!訊けば、大平〜白浜地区をカバーする携帯電話用
の中継鉄塔を建設すると云う。その為のアプローチ道路は、罰当たりにも社叢
林を薙ぎ倒し、神社境内を横断しトグロを巻いた。そして、夕焼け空に美しいシ
ルエットを描く落葉樹群の枝先よりも一際高く、不粋な鈍色の鉄塔が出現した。
現在、佐田岬半島の55kmにも及ぶ、緑したたる、たおやかな山波は、大いに
病んでいる。さしたる環境アセスメントも無いまま、ケモノ道や渡りルートをズ
タズタにしながら、伊方原発から都心へ向かって林立する送電鉄塔に加え、巨
大発電風車群、TV・ラジオ局の放送用鉄塔、南予用水タンク等々の乱立で、
山頂部は人工物だらけ! あの心地よい里山景観が台無しになりつつあるのだ。
この狭い国土に、アメリカ合衆国の300倍ものコンクリートをブチ込むと云う
祖国:日本。大和民族の“侘び・寂び”を基調とした小粋で繊細な美意識は、
一体どこへ消え失せたのだろうか…?
寝耳に水本
2004年3月10日 メロディー・ライン3月の花
昨日今日は暖かい。我が家の桜(さくらんぼ--なんという種類だったか?)も、昨日の午前中は蕾だったのに、午後には開き始めた。そして、今日はもうほぼ満開っていいほど・・・。よく見ると、ミツバチがしきりに飛んでいる。
メロディ・ラインを走ってみると、先週には黄緑色のオオバヤシャブシの垂れた雄花もやや黒っぽくなり、心がうきうきするようなさわやかさはなくなったものの、まだまだ葉を落としたままの木々が多い中では確実に来た春を教えてくれる。このヤシャブシ、目立つのは大久東トンネルから大久トンネルにかけてのところ。両側に続く黄緑色の花(見た目は実のよう)々は青い海を背景にすると、いっそう際立って優しく美しい。(案内人)
2004年3月2日 もう春の渡り?
メロディラインを走っていると、バス停で言えば「加周口」(伊方町)、
周辺が整備されつつある亀ヶ池を見下ろすところに、
人・車・望遠鏡が・・・。昨年の秋にも何日間か同じような光景を見ています。
気にしながらも、そのときは尋ねる勇気がありませんでした。ですので、今日は・・・。
その方、九州は福岡から来ていらっしゃるとのこと。
「午前中はいろいろいたんですが、午後はだめです。風が出てきましたから。」
たとえば、どんなのが?と尋ねると、「トビ、ミサゴ、オオタカ、ハイタカ、ノスリ、ハヤブサ」と教えてくださいました。小さければスズメ、黒ければカラス、上空を飛んでいればトビ、屋根にいるのはハト、家で飼っていたのは鶏くらいしか知らないわたしには驚きです。そう言うと、「カラスにも二種類いるんですよ。カァカァが濁っていればハシボソですね。」と聞き分け方や「トビもそろそろ巣作りの時期ですね」とかも教えてくださいました。(ありがとうございます。)
う〜ん、それにしても九州からいらっしゃっているとは、驚きました。
昨年の秋には、ここのほかに瀬戸町の権現山、三崎町の伽藍山でも、観察なさっている方たちがいました。そして、権現山では町や県の観察会も開かれていたような・・・。わたしたち同様、この半島で生きている鳥たちや、遠くからやってくる鳥たちのことを思いながら、空を見ることも必要かもしれません。(案内人)
2004年3月2日 久し振りに岡崎直司さんから
「九里四里通信」拝見。
やはりそうだったか、という記事を見つけました。遊歩道の保中側部室の張り石。
私も前々から気になっていて、どうも化粧積みのデザインが“変”だったから、
どっかにノド骨がささってるような違和感がありました。
あの積み方は、阿波の青石の積み方です。
同じ緑泥片岩の地層が和歌山の紀ノ川や徳島の吉野川にあるといっても、
実は微妙に青石の(含有成分か何か)質感・色・風合いが違うんです。
徳島の青石は、大体において何故かあぁした平積みになっていて、
八西地区のように斜めに不整形に積んだりはしていません。
どちらかと言うと、整然と上品に積んだ感じ。
こちらの青石は積み方自体に野趣があって、それは実際に向こうのモノと較べると一目瞭然です。
一度、そうした県下に散らばる石垣ウォッチングの集大成もしてみたいものです。
青石を機軸に取材すれば、西日本がカバー出来、東西の流れに沿った
花崗岩(瀬戸内海の大島石や御影石)やあるいは砂岩(宇和島石)、
石灰岩などが表層に造られた石垣を見るだけで浮かび上がってきます。
さて、昨日の「梅美人おめで登録パーティ」は、結構盛り上がりました。
その昔、あの建物を建てた、浜上組(浜上建設)の社長(孫)と
高田左官の親父さん(壁を塗ったのは義父の鶴一郎氏)も出席。
見学者は80名を超え、パーティも50名ほど。
いい会になりました。
今後は、梅美人酒造をどうやって市民で使っていくか。
幸い、今のオーナーが意欲的なので、
二階座敷で会食をするなり、会合をするなり、自由に使ってくれ、ということなの
で、その活用法を考えていくことになりそうです。
日進館の兵頭さんも出席してくれていて、登録有形の所有者としての苦労もあり、
いい民間連携が今後出来れば、と思っています。合併のこともあるし、もっと八幡浜
と保内は、積極的に交流をしないといけません。
それが合併の数少ないメリットかも知れません。
嬉しかったのは、かつての施工会社濱上組(現浜上建設)の社長と高田左官の親父
さんが出席してくれたこと。思えば、戦前期に一世を風靡した職人集団でもある施工コンビが、今も企業として存続していること自体奇跡的なこと。
以上、許可をいただきましたので、3月1日にいただいたものを一部略しながら、掲載しました。
参考:昨日・・・2004年2月29日(日) 午後3時〜八幡浜市登録有形文化財「梅美人酒造」見学会
午後6時〜「梅美人おめで登録パーティー」
2004年2月26日 今日は瀬戸町足成!!
いやぁ、風邪が強かったぁ〜。足成へ行くと決めて方向を変えたとたん、目に入ったのは白波がたっている瀬戸内海! 今日は特別なんだろうけど、宇和海側と大違い!!
集落に入って、昭和57年に閉校になった足成小学校の運動場に車を止めて歩きます。目に付くのは、屋根の瓦を白い漆喰で押さえた家々。そして、さすがに海近くの畑は風除け(だと思うのです)の垣をしています。防波堤で囲まれた漁港にも白や黄の漁船が20数隻。たまたまいらっしゃったおじさん(昭和3年生まれとのこと)に尋ねると、「時化(しけ)やけんな。」とのこと。「黄色い船かな。これは、5トン未満で網をひく船よ。設備が違うやろ。」と教えてくださいました。「20年くらい前は、鯛専門でやりよったけんど、今はいろいろよ。人も二人ばかり雇(やと)うてしよったけんど、今は夫婦(みょうと)でよ。」とのこと。そう話を聞きながら、ときおり波戸を越す波しぶきに目をやっていました。この波戸、付け根の方に回ると、「昭和九年竣工」と刻まれた碑が建てられています。この碑の石もそうなのですが、波戸自体に使っている石はどれもこれも大きいもの。全体写真で小さくなるよりは・・・と、一部だけ撮ってみましたが、その一個の大きさが伝わるでしょうか? さきほどのおじさんが「今は県なんかがしてくれるけんど、これは部落でやったけんな。」と誇らしげに語ってくださった意味もわかります。その近くには「水中安全」と彫られた地蔵さんが一体。漁で生きてきた人たちの願いが伺えます。
さて、集落の中。足成らしい家はないかしらとあれこれ見ながら歩いているときに、たまたま庭にいらっしゃったおばあさん(大正8年生まれとのこと)に声をかけることができました。その方のお家は、大雑把な言い方をすると、漢字の口の形に建物があります。下の辺に門があり、上の辺が住まい、右の辺が風呂、左の辺が便所という具合です。こまかく聞けば、たぶん右手には物置もあるのでは?という大きさです。集落の特徴というより、個々の敷地の制約ということなのかもしれませんが。そう言えば、集落の中の小道は地形に従ったままという感じです。二ヶ所ばかり、大きな岩の上に石積みを築いているところもありました。それを生かしたといえば言えますし、半ば無理することはあきらめて・・・のようにも感じられます。そして使っている石は浜に近いだけあって、角のとれた丸っこい比較的大きな石でした。ところで、こうして足成の地に入ってみると、狭い入り江にあるということなのでしょうか? いっさい、よその集落が見えないのです。後ろの山もわりと近く大きく迫っています。集落名の「足成」も気になります。(となりは「大成」) なるい(緩い)・・・なだらかである(「広辞苑」)と関係があるのかないのか?
帰りに寄った「八幡神宮」の狛犬。なぜか、顔に彩色をほどこし、彫りに沿って線が引かれています。余計なことを・・・と思ったのですが、見ているうちになんとなく、それは神社の明るさにあるかもしれない・・・と思ったのです。山際に建てられていますから境内が狭いということもあるのですが、社叢林らしいものは特になく、明るいのです。それにあわせようとすると、なんとなく狛犬に色をつけてはっきりさせたい・・・という気持ちが誰かに起こったのかもしれません。でも、やはり変ですかね、色をつけられた狛犬って・・・。
今日もまた、1時間あまりのまちあるき。海に面し、海に生きた人々の工夫や力強さを感じた足成でした。(案内人)
参考:「瀬戸町誌」によると、水中安全・・・昔この辺は葦の生えた沼地で毎年夏になると、この辺で遊んでいた子どもが神隠しにあい子を持つ親は心配していた、そのおり1人の僧が来てその話を聞き、やがて経文を唱え一字一石の経文を書き沼地に投げ込んで何日もかかって沼地を埋めその上に地蔵を祀り供養した。それからは神隠しもなくなったという。現在地は昔の場所ではない。とありました。
八幡神社・・・眺望良きこの地に昭和28年新築移転した。現在の足成漁協、足成集会所が旧神社跡地である。 とのこと。
2004年2月24日 教えてもらいました!
以前(04年1月19日)、保内町役場に「今ごろ尋ねる質問ではないような気もするのですが、
「もっきんろーど」で使った緑色片岩(部室を覆ったもの)は、どこ産というか、どこのものを
使っているのか、ご存じないでしょうか?」と質問したのです。そして、当日もどった返事は
「石居建設さんの施工なので、石居建設さんに聞いてみたらわかるかと 思います。」でした。
そこで、再度「ぜひどこのものかつきとめてもらえませんか? これって、どこそこのものですよ
と具体的に説明するのと、この辺の石です・・・とでは説明の濃度がまるでちがうと思いません?」とお願いしていたのです。
*「 」内はメールでのやりとりのまま
今日、自転車で外出したおり、その「石居建設」の脇を通りましたので、思い切って尋ねて
みました。事務所にいらっしゃた方は、怪訝そうな顔をしながらも電話で連絡をとってくださいました。そして、もらった返事は「徳島の業者からです」。
その内容に驚くやら、がっかりするやら・・・。というのも、私はてっきりこの近くのものを
使用したものだとばかり思っていましたから・・・。
ほんとはもっと細かく尋ねればよかったのでしょうが、仕事中の事務所ですし、電話の方も
現場でお仕事中でしょうから、それ以上は聞けませんでした。
う〜ん、徳島から とは・・・。これって、徳島産?それとも、扱った業者が徳島ということで、石は愛媛のもの?という可能性はない? でも、なぜ保内のものではないの? 保内ではもう青石は採石していないの? とまた、あらたな疑問が実はわいてきました。
なんで、半年以上もたって青石のことが気になったかというと、青石橋近くのもと採石場で、
ふたたび青石を採っているようだったからなのです。で、そういえば というか、ひょっとしたら というか・・・の気持ちで知りたくなったのでした。(案内人)
2004年2月22日 ”メロディライン−2月の花”のことなど・・・
午前中なら、なんとか天気が持つかな?と思いながら、メロディラインを走りました。
ここ2、3日よい天気が続いたからでしょうか、道路沿いに、あるいは畑の縁に、今日はとても多くの菜の花が咲いていました。また、ところどころの畑の端っこには「梅」の花も・・・
ところで、現在保内と伊方を結ぶ「大峠トンネル」では電気関係の工事中。照明だけかと思っていましたら、どうやら換気用のファンも二基付いたようです。このトンネル、以前自転車で枇杷谷→渕ヶ谷→鼓尾と回った帰りに2,3度通り抜けたことがあるんですが、細い・暗い・臭いで、なかなかこわ〜いところなんですよね。これらの工事で、自転車ででもいくらか走りやすくなるでしょう・・・。
ここしばらく、他のところでもトンネル内の照明工事をやっていました。なにかあったのでしょうか? ほんとに暗いトンネルが多かったですから・・・。あのトンネル内の照明の電気代って、どこが負担しているのかとかも気にはなるのですが・・・。どなたか、ご存じないでしょうか?(案内人)
2004年2月19日 今日は三崎町二名津を歩いてみた
用事があり、二名津に入りました。ここは、自分が通った中学校があるところです。懐かしさもあってそのまま集落の中を歩いてみることにしました。ただ、中学校は集落の入り口といっていいところにあるものですから、実際集落の中を歩いたことはほとんどなかったのです。ですから、ほんとに初めてに近いくらいの感覚でした。
海に向かっての中央の道路(たぶん大谷川の暗渠)が比較的広く、見通しがよいものですから、ここを起点に行動すればそう迷うこともなさそう。ということで、ここから左側におりて少し奥のほうへ行ったり、引き返したのち右におりて、しばらく商店を確かめながら歩いたりしました。そして、出会ったのが、格子越しに見る「鎮火地蔵」、その左の「子易観世音」「ひぎりのぢぞ」さんたち。最近屋根を葺き替えたらしいお堂の中にいらっしゃいました。「子安地蔵」とか「子安大師」は見ていますが、「易」の字は初めて。でも、こちらのほうが納得が行くような気がします。そういえば、姿は大佐田で見かけたものと似ていらっしゃる・・・。(注:石仏探訪第24回のものの右側にいらっしゃるもので、HPには未掲載) また、別のところでは「大乗妙典之塔」の石塔。三面にびっしり事情などを記しています。その中に「二間津浦」とあり、二名津のもともとの地名を確認でき、嬉しくなりました。
(「三崎町誌」によれば、1782年天明2年 二間津を二名津に改称 とある)
その他、共同井戸一ヶ所。すぐそばのお家の方に尋ねると、今でも土のついた野菜などの洗い物に使っているとのこと。覗くと、金魚が二匹いましたから、井戸兼池といったところでしょうか。また、解体時に引き取ったという、飾り瓦をいくつか並べているお家が2軒。もとは造り酒屋さんだというお家の「持ち送り」などなど・・・。1時間余りのまち歩きながら、歴史がしっかりとうかがえました。(案内人)
2004年2月15日 松山から「歩け歩け協会」のみなさんがやってきた!
午前9時半過ぎ、大型バス4台で役場前に到着。総勢150名とのこと。で、迎えるのは、ボランティア・ガイドの面々。名ばかりガイドの私も、やっと2度目の出番。(初回は昨年6月の「もっきんろーど」開通式のとき)
担当したのは、前回と同じ「内之浦公会堂」。ここは、昭和12年に建築され、洋風建築ということもあって、登録有形文化財にも指定されているのですが、それとは別の”見どころ”も・・・。
伊方町の「旧佐々木長治邸」にも弾丸の跡がありましたが、この「公会堂」は、グラマン機の機銃掃射を受けたということで、その跡は数知れず・・・。二階の大広間の天井にはざっと20数ヶ所。一階の和室の天井には数ヶ所なのですが、うち一ヶ所は、障子の取っ手付近をかすめ、柱をえぐっているのです。その角度や深さを想像すると、ちょっとした生々しさが感じられます。
そのへんのことも含めて、建物のことなどは地元出身のもう一人のガイドの方が説明なさいました。
さて、「歩け歩け」のみなさん方、ここで昼食・トイレをすませ、12時過ぎ、「雨井」方面へ向けて元気に出発なさいました。短い時間のおつきあいでしたが、ありがとうございました。(案内人)
参考:保内町誌より・・・(年表)昭和20年1月 米機B29が県下で初めて宮内西之河内に一トン爆弾二個投下。7月 東紡川之石工場 爆撃を受け一部焼失
(p.935)3月18日に米機の銃爆撃を受けた。(*3人の死者) この日は須川上空に日米両戦闘機の空中戦があり、被弾した米軍の一機が佐島に墜落炎上した。
八幡浜市誌(p.261)より・・・3月18日アメリカ軍機が佐島に墜落し、海軍弾薬庫が爆発した。同年7月24日にはグラマン機が来襲し、八幡浜駅や諏訪崎の防空監視哨、三崎沖の船などが銃撃された。
2004年2月12日 瀬戸町大久を歩いてみました
陽気に誘われたわけでもないのですが、瀬戸町大久の中を1時間ほど歩きました。
自分の記憶の中では、八幡丸から見る大久の砂浜には真っ黒な牛がそこを覆い尽くすくらいいたように思うのですが、それから40年くらいもたつとさすがに、すっかり様変わり・・・。肝心の砂浜も沖にテトラポットを入れたせいで、砂浜自体が痩せてしまいました。たまたま出会ったおばちゃんがおっしゃるには「潮が満ちたら見えなくなります。むかしは、おかで履物脱いで泳ぎに行くのに、途中で熱うなってよう歩きませんでした。」というくらい広い砂浜だったのに・・・。
さて、集落の中を歩くと、石の使われ方がおもしろい。先ずはおなじみの石垣。そして、土と一緒に築いた「練り壁」。驚いたのは、ここまでやるかという感じで板状の石をずらっと並べたお家。
できれば、大久らしいお家に出会いたいと思いながら、歩いたもののなかなか・・・。
というのは、らしい家は空家になっていたり、住んでいるお家はやり変えたりしているからなのです。「牛小屋が残っているお家はないですか?」と尋ね、案内してもらったお家も、そこは物置になっていて、残念ながら牛小屋らしい様子はうかがえませんでした。
もっと丁寧に尋ね歩くと残っているとは思うので、機会があればもう一度・・・。
話しかけてくださったおばちゃん、案内してくださったおばさん、どうもありがとうございました。(案内人)
2004年2月8日 八幡浜から歩いて帰ってきました
ハーバープラザホテル(仲之町)での「みなとまちづくり市民フォーラム」のあと、せっかくだからと思い、歩きました。
ここってもとは3階建ての旅館?と思われるものを改めて見たり、塀笠の飾り瓦3体・・・向灘でも同じような像を見たけれども、それぞれ誰?と眺めたりしているうちに、そう言えば「防空壕(松本町)」もここら辺だったはずと先へ。
表の空き地は「有料駐車場」となり、車が2台。初めて来たとき(平成13年)は穴のあいたサザエの殻を拾って帰ったところです。そこから、ずっとずっと気になっている大平方面へ。この周辺も地域高規格道路関係の工事で家はどかされる、山の斜面は削られる、高架橋の橋脚は立ち上がる・・・で、ずいぶん様子が変わっています。そして、これからも完成に向けてますます変わっていくのでしょう・・・。
名坂トンネル手前で見かけた真民さんの碑−「念ずれば花ひらく」(平成6年奉)。私はいったい何を念じましょう?(案内人)
参考:「八幡浜第一防空壕」・・・昭和16年2月完成<「愛媛温故紀行」平成15年発行より>
参考:八幡浜民報04年2月17日付 [八幡浜地方局が2月13日に開いた県政モニター地域別懇談会での建設部長の答弁] 国道197号地域高規格道路のうち、八幡浜市と保内町を結ぶ名坂道路は平成6年 計画路線に指定、同7年に調査区間、同8年に整備区間に指定され、同9年に補助事業に採択された。八幡浜市大平から保内町喜木までの約2.3kmで現在の進捗率は約71%。八幡浜市から大洲市までについては計画路線となっているだけで、今のところ調査区間にもなっていない。このため、四国整備局に対し、県として調査区間への格上げをお願いしている。
2004年2月1日 伊方町「ふるさと探検隊がいく」に参加
日曜日の午後1時30分。伊方町中央公民館に集合。意外と少ない?十数名で歩きました。
この機会だから見ることができた建物が「旧佐々木長治邸」。すばらしいお家の部屋部屋を回るたびに、ため息・・・。ところが、2階から降りる踊り場の壁に残されていたのが、この弾丸の跡。なんとも物騒な代物ですが、貴重な戦時資料。そして、それを残し伝える意志。双方ともしっかりと胸に刻みたいと思います。(案内人)
参考:伊方町誌(年表)より・・・昭和20年1月 敵機来襲 川之石上空で
交戦。敵機一機墜落。佐島の軍需施設被爆、全焼。
5月敵機来襲 湊浦一円を銃撃 爆弾一個を投下。人畜被害なし
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