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2004年6月20日(日) わく2ドキ2佐田岬シンポ「教えて町長さん!」
 台風が近づいていて迷いに迷ったものの、せっかくの企画・・・と思い直し、行ってきました。といっても、家を出た時点で20分ほどの遅刻! まして会場が「瀬戸の風パーク」から瀬戸中学の体育館に変更になっており、このことでも無駄に走ってしまいました。
 会場には、赤いTシャツのスタッフの姿・・・テントで懸命に販売している人たち・・・風船をもらって元気に遊んでいるちっちゃい子供たち・・・そして、お目当てのシンポの会場には・・・う〜ん、正直用意された椅子には空席のほうが多いかも・・・の感じ。
 ステージでは司会の方、3人の町長さんがタオルで顔をぬぐったり、扇子で風を送ったりしながら、お話なさっています。結局1時間くらい遅刻した私ですから、聞けたのは事前提出の「新しい町づくりの方法?」「町民・住民に望むこと」「新町のキィ・ワードは?」の質問に対する回答と会場での生の質問「町長選に立候補しますか?」「プルサーマルの安全性について」「来年3月末の合併は間に合うか?」くらいの正味30分ほど。でも、それだけでも十分来た甲斐はありました。
 こうして一ヶ所で町長さんの考えを聞く事ができることってあまりないですから、とても有意義な企画だったと思います。三町の青年団の方々、ほんとうにご苦労様でした。(案内人)
回答:住民に望むこと・・・伊方「町民のみなさまの声を聞かせてほしい。伊方では無作為に抽出した方によるモニター制度を取り入れてはいるが、一般の人の声が聞こえてこない。」・・・三崎「今回の合併は初めて自分たちで行う体制の変化。一人ひとりが自らの力でなにをすべきかを考えて欲しい。」・・・瀬戸「キィ・ワードは「共働」(ともに働くと言ったからこれ?)。今までの"右肩上がり"の考え方、制度をご破算、0にしてあるべき姿を考えることで新しい発想が生まれてくる。住民一人ひとりもそう。」
新町のキィ・ワード・・・三崎「慈愛と思いやり」・・・伊方「お互いがお互いのこと、立場を考え、尊重すること」・・・瀬戸「ふるさと再生。キラリと輝くふるさとに。」
プルサーマルについて・・・伊方「伊方町に原子力発電所がある関係で近隣の皆様方にはいろいろと精神的なご負担をおかけしておる。そのことについては本当にご迷惑をおかけしますというような言い方でしかご挨拶ができません。



2004年6月17日(木) 自転車で清水町→雨井へ
 自転車で雨井まで行って来ました。特別な用事があるわけではなく、なにか変わったことがないように・・・です。琴平・菊池邸あとの横の水路でなにやら作業中!尋ねると水路にふたをして道路を広げるんだとか。水路の石積みをパチリ!
 雨井の入り口・木村造船で船を拭いているふうな作業中! 「写真かまいませんか?」と断ってパチリ! 尋ねると、「放って置くと黒くなるので船体に付いた油を落としているんだ。」と教えてくださった。保内でも近くのところはほとんど護岸工事をしているので、寄せては返す波を見ることが出来るのはここだけではないか?!と思っている所。いい写真が撮れていますように・・・。
                       (案内人)


2004年6月15日(火) 岡崎直司さんからメールでいただきました。
 福井から戻りました。因みに、この写真は、京都府美山町北集落の伝建地区。  この地区はご覧の如く、茅葺き集落の景観保全で有名です。  既に三十代前後の茅葺き職人が育っています。
 福井の上中町熊川宿(こちらも伝建)も44歳の役場担当者が頑張っていて、  いいまちづくりをしていました。 
 内子の岡田さんたちと数名で行ってきました。
 ほかに、穴太(あのう)積み石垣で有名な近江坂本(伝建地区)や小浜市、  兵庫の龍野(ヒガシマル醤油の町)などにも寄りました。





2004年6月3日 いい天気! カメラを持って三崎町へ。
 天気に誘われカメラを持って三崎町へ。本当は「三崎製錬所跡」を訪ねるつもりで行ったのですが、途中「おっ」の光景。土壁が見える。解体?いや、リフォームのよう・・・ということで、断って作業を見させていただきました。途中から来たおじさんの話によれば、もとは農協の倉庫を購入したとのこと。道路沿いにある大きな建物で、屋根がかなり傷み、全体に垂れていたらしい。見ると、垂木も含め屋根は全部新しいものに。作業をなさっている大工さんに木材のことを尋ねました。丸太の柱2本は"杉"で、他は"地松"だろうとのこと。今は"米松"と足許の資材を示してくださった。聞けば、伊予市からの仕事で、二名津に泊まっているという。明日から2日間は、長浜の方で蔵の改修に行くとおっしゃっていました。
 阿弥陀池をぐるっと半周して、車を止めたものの、軽トラックが五台。ひょっとしたら農家の方が消毒の最中かもしれないと思い、製錬所跡はまた別の機会にと引き返しました。
 もとは大佐田小学校。ここに「オリコの里〜佐田岬裂織り保存会〜」の看板。部屋に明かり。で、車を停めて挨拶をすると、女性の方が一人、裂織を織っていました。伺うと、4人ずつ二つの班に分かれ、隔週で集まるのだという。壁には実際の「オリコ(地区によってはツヅレ)」が何点か掛けてあり、反対側の壁やケースには新しくつくった裂織の製品が展示してありました。他に写真や新聞の切り抜きなども。肝心の織り機の方は新旧あわせて6台。縦糸を通すのが大変とのこと。だから、機械ごとに異なる糸を通しているんだとか。また、布の裂き方で柄がちがったりするので工夫のし甲斐があるとも・・・。実際に織っているところも写させてもらいました。
 さっきの倉庫の隣りのおうち。よく見ると、恵比寿や大黒の飾り瓦。さっそく何枚か撮っていると、後ろから「何か御用ですか?」の声。失礼を詫びながらおうちのことを尋ねると、本家はこの地区の"親方"だったとのこと。こちらは分家で"新宅"と呼んでいました。と教えていただいた。築90年はしているだろうとも。"親方"の役割にも、この分家の言い方にも興味があるものの、また別の機会に・・・。
 今日は天気がいいせいか、空も山もそして海も本当にきれいでした。そしてお話を聞かせてくださった人たちのありがたさを感じながら帰って来ました。(案内人)
04年6月25日(金)夕方の番組で「おりこの里」が放映されたはず・・・私は見られなかった。残念!!(記:04年6月25日)


2004年5月22日 保内町喜木津で
 久し振りに歩きました。しかも、設計士さんと一緒です。
 漁港に車を停めて歩きます。来た方向の高台に古そうなお家。そして、倉庫にしては背の高い建物。設計士さんは「たばこの葉の乾燥庫です。」と即答。私は、えっ、まだそんなものがあるの? と近くに行くと、おばあちゃん2人が道に座っておしゃべりしています。その方たちに伺うと、「そうだ。」とのこと。建物自体は戦後のものらしいのですが、もう使わなくなって40年は経つなぁともおっしゃる!一人の方は藁で編んだかごを持っています。名前をたずねると「ほご」と教えてくださった。何でも入れられるから重宝しているとのこと。ほかにも、クワを2本持ち、草取り用を2種類入れています。
 たばこの葉の栽培のことや乾燥のこと、他の作物−ソバの栽培や豆や雑穀(ひえ、あわ、とうきびなど)の話も伺いました。とにかく、親切にお話してくださいます。そして、一人の方がせっかくだからと乾燥庫を見せてくださることに。といっても、現在は仕切りを入れて物置に改造。外しているとはいえ、もとあったパイプもまだその中にありました。のちには重油などを焚くようになったが、もとはやはり薪だったとのこと。いつか機会をつくって再びきちんとたばこの葉の栽培、乾燥のお話をうかがってみたい。
 家の中にも招いてくださった。大正の建物で、大工さんのお名前も教えていただいた。あとのお話でわかったことなのですが、昭和36年から40年間家族で広島に行っていたとのこと。だからなのでしょう、そう変わっていません。土間は三和土(たたき)。一段だけ横板を踏んで部屋にあがります。そして、座敷。床の間との向かいに平書院。その外側は便所に通じる廊下。ガラスの使用枚数が異なるくらいで、だいたいの間取りは実家の家(三崎町名取−昭和の建物)とほとんど同じ。ただ、大きく違うのは台所の位置。茶の間の横は通路くらいの幅で、台所は奥。もともとはその通路の横には大釜用のかまどがあったり(現在はお風呂場に)、臼が置いてあったりと作業のための場所に通じているようでもあることと関係するのかもしれません・・・。設計士さんはすばやく図面に書いていきます。
 そして、部屋の箱階段をつかって二階へ。座敷の吊り天井部分の上には行けませんが、部屋、茶の間などの上部分は養蚕もやっていたから・・・というだけあって動けるだけの高さになっています。感心したのは使っている部材がすっきりきれいなこと。一本曲がった木もうまく梁に使っている。というより、設計士さんのおっしゃるには「曲がっているから、ここに使っている」とのこと。また、土壁も雑ではない程度にきちんと仕上げています。一つひとつにていねいさが感じられるのです。
「お茶でもどうですか?」と誘われて座ってお話をうかがうと、その方のお父さん(明治28年生まれ)はアメリカに行っていた人なのだという。「この近所には何人かいるんですよ。」とも。そういえば、隣りの磯崎地区にも「渡米橋」と名付けられた橋があります。 これはこれで、また機会をつくってくわしくお話を聞かねば・・・の心境に。
 いやはや、たまたま歩いて出会った方にすっかり甘えてしまいました。地区の様子はまた別の機会に歩く必要がありそうです。(案内人)
補足:二度に渡って打瀬船で太平洋を横断した吉田亀三郎(川之石出身)は「明治35年(30歳) 労働移住〜40年帰国 40年日米紳士協定締結」 「明治45(大正元)年 密航→送還、大正2年 密航→入国」*参考:小島敦夫「密航漁夫 吉田亀三郎の生涯」(集英社だったかな?)〜略年表〜


2004年5月17日 岡崎直司さんからメールでいただきました。
 この写真は、8日の夜、熊本にて。 「日本の石橋を守る会」の総会が終わって、懇親会の後の出来事。
宿で、日本の石橋を守る会のある会員の方が、支保工(しほこう)と呼ばれるアーチ型の構造模型を持参していました。しかも、ペットボトルに小石まで入れて持ってきていた。それで二時間ほど丹念にその小石を積み上げて、ナント アーチ石橋のミニチュアをたちまちの内に造ってしまった。私たちが二次会をやってる間のこと。マニアックな会の面白さは、こういう展開になることだナー。
 今回の初参加ではっきりしましたが、何を隠そうワタシは四国で唯一の「日本の石橋を守る会」会員でした。会員になってもう十年以上になりますが、やっとスケジュールが合い、総会に出席できました。
 愛媛の、西条市で保存された禎瑞地区の水路橋「掛け樋」など、県内の石橋事情について発表しました。(「舞たうん」Vol80.2004.4月号参照)
 石橋と言えば、特にアーチ石橋は九州が本場。なぜなら、臼杵の石仏を見ても分かるように、九州は凝灰岩という柔らかい石が多く産出するので、アーチ石橋の石材に有利な立地条件があります。阿蘇山を中心に、雲仙や桜島など火山地帯のために、全土をこの種の火山灰による石が覆っているのが九州ということになります。
 従って、四国にはあまりアーチ石橋はありません。徳島で第一次世界大戦時のドイツ人捕虜が造ったドイツ橋や別子銅山など数例という貴重さです。中でも全国的に稀な存在として、例の迫持ち式アーチ石橋があります。保内町鼓尾の赤ひげ橋や瀬戸町の要橋です。いずれも規模は小さいものの、地域特性である青石(緑泥片岩・三波川変成帯)の性質に即した構造としてのアーチ石橋。そうした全国レベルでの価値付けを知りたくて参加している次第です。
 そういう価値認識が正確に地元でなされて、一刻も早く国の登録有形に「赤ひげ橋」が申請手続きされるようになることを願っています。


2004年5月14日 水本孝志さん「さんきら通心」5月号より
目に青葉、耳に野鳥のラブソング♪
あなたの家の庭や持ち山の片隅にバードバスを!!
 今年も5月10日から「愛鳥週間」が始まった。鳥インフルエンザの脅威から、野鳥を敬遠する人が増えているという。"野鳥は柑橘王国:愛媛の天敵"と憎み、駆除に狂奔する人もいる。さらには、私たちの新エネルギーと利便性追求の結果として乱立する巨大風車や各種鉄塔群が、渡り鳥の国際的ルートにギロチン・バリアの如く立ち塞がる。・‥まるで年がら年中の、『哀鳥習慣』ではないだろうか?
 それにもめげず、ヤブサメ・オオルリ・キビタキ・サンコウチョウ・ツグミ・サシバ等々、東南アジア方面から子育ての為に渡って来た夏鳥たちの初認情報が、各地からゾクゾク寄せられている。その健気さが愛しい!その逞しさが眩しい!!その素晴らしい親子の情に学びたい。
 ペット鳥を飼うなら、野鳥を助けたい。食パンを与えるより、果実を結ぶ雑木を育てたい。巣箱を架けるより、洞穴のある巨木を守りたい。そして何よりも大切な《水場》を設けたい! 特に八西地区は、パイプラインによる南予用水の導入で、蛇口を回すことが出来ない野鳥にとって確実に飲めて、安全に水浴びできる場所がほとんど無いのが現状です。(「さんきら通心」Vol.65より)


2004年4月20日 えっ、えど期の建物・・・
 20日 岡崎さんに誘われて琴平地区の菊池邸の内部調査へ。といっても、ここのところずっと空家になっており、せいぜい車庫代わりに使っていたお家。そこがとうとう壊されるとのことで、急な行動。
 たしかに屋根は落ち、雨漏りのために天井はおろか床板もかなり落ちています。それでも、なんとか階段をあがり、二階へ。そして用意していただいていた脚立をつかって棟木や梁に。岡崎さんいわく、「しっかりしているなあ、木は生きてるよぉ、たいしたもんだぁ。構造材はビクともしとらん。」そして、お目当てのひとつ棟札探し。それは逆光の中、見つけることができました。表は工匠の名前など、そして道具をお借りしてなんとか外して読んだその年代は・・・・「嘉永五年」・・・ということは1852年。ちょうど黒船来航の前の年。計算すれば今から152年前・・・。私はそんな木にまたがったわけです。
こうして家の内部というより構造体を見ると、その木組みになんともいえない美しさを感じます。それはきれいきたないではなく、木そのものの魅力とそんな木を組むバランスの妙、そしてそれらを生かす技、技術が直接見られるからなのでしょう。
 勝手ながら、仲間がいて、解体までに時間的余裕があれば、ひとつひとつ手作業で余分なものをどけていって、こうした柱や棟木や梁や桁だけにした姿を公開できれば・・・と思いました。江戸期の技術・・・それはそう変わらないまま現代につながっているのです。それを知るだけでも手間隙かけて事(こと)をするだけの値打ちはありそうです。今回は間に合いませんでしたが、いつか解体前の構造体見学会みたいなことできないでしょうか。
 今まで、ドレメ(旧白石洋館)の向い側の古いお家・・・そんな見方しかできませんでした。それが実は江戸期の建物だった。とても驚きです。そして家の魅力は外からだけではないということも知りました。もう少しそのお家のこと知りたくなってきました。(案内人) 

2004年4月14日 久し振りに自転車で走った。
 2日喜木方面へ。国道とは1本それた道路を通ります。
 気になっているのは大平・神越を結ぶ八西トンネルの建設工事。 どこまで進んでいるのやら・・・と思っていたら、ショッピングセンター近くではもう高架の工事中。(写真)
 さらに喜木方面へ進んでいくと、緑の山の斜面に青いシートや剥き出しの地表面。農道の整備かな
 そして、感心したのがこれ。きれいに護岸整備された石積みの上に畑から出た(?)地元の石を積んでいます。できれば作業中も見たかった。
 5日川之石方面へ。さすがにサクラが満開。昨日は「さくら祭り」でにぎわったらしい。まずは、金刀比羅神社への石段のさくら。こんぴら橋からは遠くてすこしわかりにくいが・・・。 桜の花の下、宮内川に浮かべた小船でなにか作業をなさっているのも、のんびり春にふさわしい。
 琴平のとおりでは公共下水道の工事中
 続いて、夜の散歩のときに簡易焼却炉だと思った川之石橋の親柱。ずんぐりむっくりで愛嬌がある。そして喜木川沿いに進むと、もと東洋紡績の講堂(現在は八幡浜紙業の倉庫)。ここにも、見事にさくら。一度だけ中へ入れてもらったが、大正期の雰囲気が残っている、いい雰囲気の建物です。
 13日。わりと大型のダンプに出会うものだから、思い出したのが「公共下水道浄化センター」の建設工事。雨井へ行くつもりで家を出たのを変更して楠町へ。ここって、もとは「選鉱場」関係の社宅(?)などが建っていた所。(案内してくださった方は「労務」と呼んでいたと話をしてくださった) 一度聞いただけで、きちんと調べたり聞き取りをしないうちに現物はなくなってしまった。小さな祠も海岸寄りに移転し、一升瓶がお供えしてあった。こんなふうに大きな変化にともなって小さな変化もある。できるだけどちらにも目を向けていたいのだが・・・。(案内人)
*浄化センター・・・広報によると3月18日に安全祈願祭が行われたとのこと。
*下水道の工事中→04年4月17日 琴平の通りを通ると、もうきれいにアスファルトで舗装していました。

2004年4月1日 メロディラインで・・・
 いつもの木曜日。まちあるき・・・と行きたいところですが、今日は残念、時間がありませんでした。そこで、とりあえずメロディラインでのことを3つ。
 @ヤシャブシ(カバノキ科)?くらいに思って見過ごしていたものの、どうも時期が違うし、やや細くて長そうなので、念のためにと車を止めて、デジカメで撮影
 Aここ2ヶ月ほど、積み上げては減り、また増えていて・・・が何度か繰り返されていた材木置場。今日、大型トラックに積んでいるところに出会いましたので、少し話をうかがいました。「放っておくわけにもいかんので、安いけんど、切って出しよる。」「この手の木はせいぜいチップよな。南側の木は風にやられたり、潮にやられていけんのよ。北側はいいのよ、まっすぐ育つけんな。」 前々から、気になっていた大木の名前を尋ねると、「さあなぁ、クスノキかタブノキやろか、よ〜は分からんけんど。」「今は、木ぃ切るいうたら、土木の人らが道路つけるがに、切るくらいやけんなぁ。」「ここらも、昔はバベの木やクヌギの木、よ〜け八幡浜に持って行きよったぁで。ニブいうて、オイコにあてて降ろして渡海船でな。いまみたいに道路はないけんな。」「サクラは育つが早いけんな。ただ、百年くらいしかもたん。枯れていく。」うまくまとめることができないうえに、違っているかもしれません。それに、ニブについてもっとしっかり聞きたかったのですが、作業中ということもあり、なかなか詳しい話までは・・・。でも、ほんとに貴重なお話でした。
 実は、母も今咲いているヤマザクラを見て、「今は薪取りにヤマに入らんけんなぁ。」と言います。今日の帰りには「見ぃーや言うたら、運転しよる人に悪ぃけんど、きれいなと。私ら、ヤマに入りよったころは、小そうて隠れとったがやろか、大きになって、よいよきれいななぁ。」と山々に咲いている山桜を見ては感嘆の声とともに話してくれます。
 B最後は、変わったものを。もとは亀ヶ池の説明板だったはず。説明板は割れて剥がれるかしたのでしょう。残った枠を利用してこのように・・・。見事なアイデアです。(案内人)
追加:@デジカメで撮影→4月16日に確かめると、葉も大きくなりどうやらクヌギらしい。今の時期はほんとに柔らかいさわやかなミドリ色です。


2004年4月1日 冊子「三崎の文化財」
 愛媛新聞を見、直接、三崎町役場に行って来ました。尋ねると、「二階の生涯学習課」とのこと。
 「あとがき」の"内容を精選し、更に本町に多数存在する「近代化遺産」など新しい視点から編集"とあるように「旧逓信省水底線陸揚室」「旧正野谷桟橋・第2砲台跡」「旧三崎精錬所」「裂織り」など、最新の調査に基づいて作られています。以前から評価されている「有形文化財−建造物、石像美術、考古資料」(庄屋の門、五輪塔、子持勾玉など)「記念物−天然記念物、史跡、名勝」(アコウ樹、高神様、阿弥陀池など)「民俗文化財−無形民俗文化財」(牛鬼など)も、カラー写真とともに詳しい解説がついています。次は、各集落にある石仏などについてもぜひまとめてほしい。(案内人)
参考:愛媛新聞04年3月31日「文化財フルカラー紹介 裂織など8点追加 三崎町教委が小冊子3訂版」〜千部を作成。町内の学校や周辺自治体などに配布〜


2004年3月27日 25日瀬戸町塩成西上地区を歩きました。
 久し振りに歩きました。実は前回は瀬戸町佐市に行ったのですが、誰とも会えなかったので、写真を2,3枚撮って帰ってきました。
 そして、今日。ここへは二度目です。近くに要橋という石橋があり、そこへ来た際に石段をあがり、入った集落がここでした。その入り方がとても印象に残っているところなのです。というのは、この半島の集落は海岸そばにあるにしろ、山の中腹にあるにしろ、たいてい道路から見えるところに広がっているのですが、ここだけは、短いながらも石段を登り、やや下ったところにあるのです。それは、なにかしら隠れ里ふうに思えたのです。ましてや、その石段のふもとにお地蔵さんが何体か並んでいたりするのですから・・・。
 少し前書きが長くなってしまいました。とにかく集落に入るのは二度目。それでも驚きの連続です。まず、登ったら登ったで墓石と石仏に出会い、目を転じると、おそらく貯水タンクなのでしょうが、大きなものが目に入りました。近くに寄って立てかけてある石塔の一体を読んでみると、「一金五十円 敷地寄附 初老 得能数右エ門」と書いてあります。右側にもう一体あるのですが、残念ながら私には読めませんでした。
 さらに歩いて行くと、墓地の入り口付近と思われるところに見事なまでに小さな薄い石を積み重ねた祠の中にいる石仏(写真)に出会いました。高いところにあるだけにちゃんと踏み台用に別に石を用意しています。さらに驚いたことに、供えられている水がきれいなのです。どなたか毎日きちんとお世話をする方がいらっしゃるのでしょうか? とにかく、あちこちにある石仏にきちんときれいな水がお供えしてあるのです。もちろん、そばには水の入ったペットボトルがありはするのですが。
 少し降りて出会ったのが、大草履。というには、小ぶりですが・・・。なんとか読んでみると、「天下泰平 五穀豊穣 巌祈」までは読めました。ただ、地面にさしている分、あと何文字かありそうです。その近くの廃屋も気になるものの、残念ながらフイルムが終わっています。そして、もっと悔しい思いをしたのが、なんとなんと鉄?のパイプでこしらえたオイコに出会ったこと。デジカメは持っていないしフィルムの予備はなし・・・。トホホです。溶接で縄を通したり、かけたりする小さな輪や突起をつけています。形そのものは木製のオイコと同じです。背中が当たる部分にはビニールロープではありますが、巻いてあります。
 見ていると、持ち主のおばあさんが畑から上がって来られ、「今からナンキンの苗植えに行くが。」と言いながら、2つ折りにした肥料袋に4つほどポットをのせ、要領よくオイコにあてました。いつくらいに作ったのか、誰が作ったのか尋ねたのですが、「耳がとおいけん。」と、きちんとした回答はもらえませんでした。おとしを尋ねると、大正10年生まれとのこと。そして、その方に集落名を教えていただいたのです。
 さらに降りると、道路が見え、そうなると、道路そばの神社は、あれ!?前に狛犬を撮ったような・・・ということになりました。恥ずかしい話ですが、入り方が違うものだから一致しなかったというおまけつき。それにしても、そう広くはない地区に石仏が多いこと、そしてきちんと毎日お水を供えていること。先ほどのおばあさんに尋ねると、特別には人はいない。畑へ行くときにお供えしたりする とのこと。また、小さな石を無数に積んだ石垣。土の細い道。上も下もよく手入れされた畑。歩くにはほんとにやさしいやさしいところでした。(案内人)

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