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2004年9月4日(土) 台風16号の爪あと
8月30日 午後から吹いた吹いた。雨も久し振りにじゃんじゃん降った。2、3度短い停電があり、午後3時過ぎにいよいよ本格的な停電に。結局7時すぎまで停電は続いた。
翌日火曜日の川之石での、木曜日の三崎町と瀬戸町での様子をここに載せておきます。保内町の琴平、本町あたりは浸かったかもしれない。写真は桟橋附近のごみの山 といったところ。翌日家の前に土嚢が並んでいたり、石灰をまいていたりした。三崎町のものは、どこかの事務所(?)の屋根が飛んできてのことらしい。瀬戸町のものは、旧国道での小さな崩落部分。もっと規模が大きかったら・・・と思ってしまう。(案内人)
2004年9月3日(金) 水本孝志さんが「さんきら通心」8月号を届けてくださいました
身近な「無名低山に登ろう!」
「世界の片隅で哀を叫ぶ」地球オ仲間たちのSOS
今、「港町抄録」の小見出しで八幡浜新聞に連載されている、「八幡浜文化を拾う」が面白い。作者は八幡浜きっての博学者にして、正に文化人だった故・尾上悟楼庵氏。氏が1972年頃に記したと云う、名文の数々に圧倒される。
特に、八幡浜の"無名山"にまつわる話には心が躍る。氏いわく、「名も無き山だとか、名も無き草だとかいうのは間違いで、名も知らぬ山とか草というべきである!」
つまり、すべての山や草には、れっきとした名がある。それを知らぬは人間の勉強不足であり、知ろうとしないのは人間の驕りと傲慢であることを、後世の私たちに訴えている。
書店を覗くと、趣味のコーナーには、「日本100名山」とかのアルペンガイド本が、これまた有名な高山植物の花々の写真集と共に所狭しと並んでいる。そして多くの人々がザワザワと押し掛ける。その結果、野生生物の聖地は踏み荒らされ、"人ゴミの山"が次々と誕生する。
富士山や立山や大山や石鎚山に登った人は多いが、鞍掛山や浄心山など、八幡浜の身近な山々へへは、登ったことはおろか、位置や山名さえ判らない人ばかりである。
身近な仲間や宝物に気づかぬまま、市町村合併したところで「大丈夫かいな〜?」と唸ってしまう。小さな山(個性)が、大きな山(俗物)に呑み込まれぬよう、"辺人輝人"のプライドを忘れず、「世界の片隅で哀を叫ぶ」地球の仲間たちのSOSをシッカリ伝えていきたいもの! (さんきら通心Vol.68 04年8月号より)
2004年8月22日(日) 伊方町二見地区を歩く
2004年8月20日(金) 保内町川之石・雨井地区の民家がひとつ消えた
19日 久し振りに自転車で川之石めぐり・・・そして瓦を落としたお家に出会いました。尋ねると、
明日壊すとのこと。
20日 午前中、ボランティアガイドの件でたまたまいらしていた設計士のTさんと一緒に中を見させてもらいました。まず、門をくぐります。この門も雨井の門で、「短や門」と名付けたりしています・・・。はいると右手に蔵の入り口。土壁のりっぱな蔵で、扉も土戸です。中に入り、二階にあがると、いらなくなった道具類が山のように積まれています。そのまま資料室に持ち込めば、それだけでそれなりの展示ができそう。それに、蔵自体もそう傷んではなさそうです。続いてあるのは、炊事場。蔵と母屋をつなぐ位置にあります。中庭形式のこれらの構成が雨井の民家の特徴 というのは、春に教えていただきました。いよいよ母屋の中。広い玄関の土間、3畳の取次ぎの間、そして本格的な座敷。その奥が茶室兼小さな座敷、仏間。さらにその奥が日常生活の間で、おそらく寝室だったろうとのこと。Tさんはつぎつぎと図面に書き込んでいきます。そこの箱階段をあがっての二階。広い! 梁が太い!−写真1−屋根裏:天秤梁− 座敷の天井のところには他の部屋より高くしてあり、屋根裏に現れたその部分には土−写真2−座敷の天井:屋根裏部分−をしっかり使っています。(こう書かれても分かりませんね。)−写真3−屋根裏:梁を継ぐ− ところどころ傷んでいるものの全体としてはほんとにそう傷んではいないのです。たぶん、床下はそれなりにやられているのかもしれませんが・・・。ただ、Tさんがおっしゃるには、その部分をやりかえることでいくらでも使えるとのこと。それに、これだけの部材を集めて同じように建てようとしたら、億に近い費用がいるんじゃない?とも。−写真4−一階:電気の配線−
今回の建物は、180年くらい前のものかも?との見立て。そのこともそうなのですが、なんといっても雨井の特徴をもったお家が消えたことのほうがショック! 門の珍しさ、数少ない白壁の家、道路端 ということで何度か見ているはずなのです。所有者はよそにいる。人に貸していた時期もあるけれども、基本的には空家。傷んだ。近所の人に迷惑をかける。将来的にも帰らないだろう。修復するには・・・。で、解体 です。今のままでは、同じようなことが続くだけ。では、どうすればよい? 地域の事情がわかるくらいに調べること・・・? そんな動きをしていく中で、具体的な目標を持った集まりができる?(案内人)
追加:21日(土)午前11時過ぎ 行ってみると、もう建物は壊れてしまっていました。午後からは大量の木材やら土やらの運搬でしょうか? 23日(月) 午後3時ごろ行ってみると、もうあらかた片付いていました。ショベルカーで切り石などの片付けをしていました。17日に瓦をおろしたとのことですから、17、20,21、23日くらいで更地になったということでしょうか?(案内人)
2004年8月5日(木)
三崎からの帰り、国道を降りてちょっとだけ瀬戸町「塩成」と伊方町「亀ヶ池」そばを走ってきました。塩成についてはその海岸を確かめることと、亀ヶ池については水本さんの投稿や「広報いかた」の記事を読んで・・・のことではあるのです。
塩成もやはり「波消しブロック」をしているんですね。これで、瀬戸町の宇和海側「大久」「川之浜」「塩成」とも、その砂浜を守るため(?)なんでしょうか? 「波消しブロック」が沖合いに重ねられていることになります。
「亀ヶ池」のほうは、その周囲のほとんどは護岸整備されているのでしょうか? 持っていたデジカメで1枚だけ撮影しました。(案内人)
参考:伊方町亀ヶ池・・・ 三崎町阿弥陀池・・・
2004年8月3日(火) 瀬戸町田部へ行ってみました。
予定外ではあるのですが、3日(火)に瀬戸町田部の海岸へもう一度行ってきました。以前、岡崎さんに連れて行ってもらった際に見た「赤い岩場」がずっと気になっていたのです。あそこが神崎なのか田部なのか、たぶん田部だろうと思うものの・・・と地名を確かめることと、もう一度きちんとようすを見ることが目的です。
波止のところで、ちょうど地元の方に出会ったのでお話をあれこれ伺いました。釣り客のマナーのことや川の護岸工事のことや親の世話のことなど、話はいっぱい。話をうかがっている最中にも、沖の波止には3,4名の釣り人。
さて「赤い岩場」。左へ進みます。道路のところでも、上はおそらく黒色片岩。それに接して下が珪質片岩が現れています。道路のコンクリート舗装で消えて、改めて海岸で姿を現している・・・といったところでしょうか。印象ではこの辺一帯が赤い岩場というふうに思っていたのですが、意外とそうでもなかったのが、やはり私の記憶の情けなさ! それでも、「緑色片岩」「黒色片岩」が目立つこの半島にあってこれだけの珪質片岩を見ることができるのは驚きです。先ほどの方が「子どものときは、あそこの岩から飛び込んで泳いでいました。」と教えてくれましたが、ほんとにそれにふさわしい形・大きさです。岩石の片理性なのでしょうか、ちょうどきれいに平らになっているのです。ですから、安全・安心。
他に知っているのは、保内の渕ヶ谷を上っていたところの川底や伊方町の九町の入り口もたぶんそう。印象としては瀬戸内側にわりと見られる?と思っているのですが・・・。この半島を構成している岩石の分布やその量的な割合なども気になり始めました。 (案内人 書き込みは5日)
2004年8月2日(月) 伊方町で風力発電関係の工事が始まっている
気にしながらも撮影する機会になかなか恵まれませんでした。実際に工事に気がついたのは7月の初め。
侵入道路?と思いはするものの、
二ヶ所木が切られ、
斜面が削られ整地されつつあります。ところで、今回こうやって撮影したあと、見つけたのがこれ。初めて見ました。他にもあるのかどうか気になりはするものの以後、探してはいません。(案内人 写真撮影は7月15日)
参考:広報いかた6月号の表紙には「平成16年末完成予定 二見地区、メロディライン沿いの山頂付近に風車2基が、今年中に完成予定。」と合成写真が載っています。
2004年8月2日(月) 人口のこと
昭和40年の愛媛新聞の連載記事「三崎半島」(全73回)。その記事の中の人口を拾ってみました。保内町「13141人」 伊方町「10230人」 瀬戸町「6586人」 三崎町「10717人」 計40674人。そして、最近の人口を各広報で拾ってみると保内町「10955人」(5月末) 伊方町「6582人」(5月末) 瀬戸町「2609人」(6月末) 三崎町「4047人」(6月末) 計24193人。それぞれの減少率を現人口÷昭和40年(?)で計算してみると、保内町17% 伊方町36% 瀬戸町60% 三崎町62% 4町で40% ということに。瀬戸町より三崎町の方がわずかとはいえ減少率が大きいことにちょっと意外な感じがします。また、以前は伊方町より三崎町の方が人口が多かったことにも驚きました。こういった人口減はもちろん気にはなるのですが、それ以上に気になるのが現在の人口構成とその将来。例えば、たまたま役場でもらった資料(平成15年1月末現在)での わがふるさと名取の人口構成 0〜5歳10 /6〜14歳18 /15〜19歳20 /20〜39歳25 /40〜64歳89 /65〜69歳28 /70〜74歳33 /75歳以上89 計312(男145女167)とのこと。想像すると、徐々にではなく、ある時期どっと人口が減ってしまう気がします。もう一つ、ついでに20歳までの人数÷人口も資料で分かる範囲で書いておきます。(旧・神松名地区)F18% J1% M5% N15% K4% H20%(小数以下四捨五入) 人口自体が一番すくないHで割合が高いのは
何世帯か若い後継者がいると想像できそう・・・。やはり地場産業に真剣に取り組むのが一番か!? と地場産業に従事していないわたしが書いてもいっこうに説得力はありませんね。(案内人)
2004年7月30日(金) 水本孝志さんが「さんきら通心」を届けてくださいました。
命をはぐくむ3S暮らし
Slow&Small&Simple Life !
■先月の「さんきら夜間塾」は冬数の参加で大いに盛り上がりました。しかも地元のみならず、松山市や広見町や肱川町からも、遠路はるばるのご来場者も得て、本当に嬉しい限りです。■今から6年前、わずか数人で発足した当夜間塾では、押し掛けたマスコミの方が多く、青恥かいた頃を想えば、正に雲泥の差!《持続する魂》が大いなる力を生むことを実感します。■でも、エネルギー問題、無秩序放流問題、帰化生物問題、温暖化問題等々、自然環境を圧迫する出来事が山積しており、自然界の声無きSOSも、日ごとに大きくなっています。環境保会活動に向け、より沢山の救いの手が必要です。現塾生の個性や技や専門知識を結集しながら研鑚を重ね、大好きな地球の仲間たちとの共生を、日々の暮らしの中で実践したいものですね。■花が好きな人は、「何故花は咲くのか?」を考えつつ、その植物全体を好きになって下さい。そして葉を食ペる毛虫は、やがて羽化して、花の受粉を助けることを知って下さい。野鳥の会会員諸氏は、鳥の餌となる昆虫も愛し植物の種子を育てて下さい。撮影自慢の方は、美しさだけでなく、危うい現状にもカメラを向けて下さい。アウトドア派は骨太のナチュラリストを目指し、ナチュラリストなら本物のエコロジストへと歩を進めて下さい。■金銭を巡る私たち人間の、あらゆる経済活動は地球を傷つけます。スロー&スモール&シンプルライフを心掛けましょう!!
(「さんきら通心」Vol.66 04年6月号より)
亀ヶ池と九町芦原を救おう!
伊方町の二見・亀ヶ池と九町・芦原湿地を生かす方式
■かの道後温泉も凌ぐ40℃以上の鉱泉が発掘された伊方町二見の亀ケ池。
豊富な資金が投入され、一大温泉パークが急ピッチで建設されつつある。希少な、コパノウシノシッペイやクマノギクを育んだ土手は消滅し、放流されたブラックパスの天国になった。■一方、渡り途中のアマサギやノピタキの大群が羽を休め、ツリスガラやオオパンが越冬し、マルタンヤンマやウスイロコノマチョウ等の昆虫が繁殖する九町の芦原湿地は現在、水を抜かれ漬されつつある。当湿地には、コシロネやハンゲショウ等、RED記載の貴重な水生植物群が生育していると共に、まだ水が溜まっている泥土には、ジーンパンク(遺伝子銀行)として、多くの水生植物の種子や水生動物の幼虫や卵が眠っている。
■温泉郷:亀ケ池の片隅に建設されるというビオトープ造りには、生態系破壊と遺伝子汚染を招く、“見てくれ園芸種”の植栽を避け、伊方ならではの在来種である、これらの植物を移植すると同時に、泥土も命あふれる造池素材として是非大切に使用して頂きたいもの。■その、引っ越し移植⇒管理作業には、リアリズムあふれる掛け替えの無い環境教育の一貫として、九町小と二見小の児童諸君がガッチリと手を握り合い、ピオトープ造りの主役となり、これをPTAや青年団、婦人会や老人会等の地域住民が力強くパックアップして行くという、息の長いリレー式キャンペーン型のエコアクションになれば最高です!!
(「さんきら通心」Vol.67 04年7月号より)
2004年7月22日(木) 三崎町井野浦を歩く
今日は、井野浦です。ここんとこ、高浦・大佐田、佐田と歩きましたので、残りは井野浦!ということです。この4つの集落は、本三崎に入らずに国道を八幡神社下で左にまがって進むと順に「高浦」「佐田」「大佐田」「井野浦」とあります。それぞれがそれぞれの湾に漁港をもち、さして広くない
平地に家々が集まっています。ですから、対岸によその集落が見えたりします。
この井野浦が4つのなかでもいちばん奥行きがないかもしれません。また、人工の砂浜「ムーンビーチ」や潟湖の「阿弥陀池」を有したりしていますから、割と海岸線は長いとも言えます。
まずは、神社。ここもやはり「天満神社」。瓦にあるのは梅の紋? 拝殿の戸が開いたものですから、失礼して入りました。入ってすぐに、天井画がとてもきれいなことに驚きました。年号を書いたものを見ると、昭和31年とあるのもありますから、全体が新しいということなのでしょう。七福神、歌舞伎役者、そして動物や花々・・・お馴染みのものや珍しいものやが計50枚(3.5枚欠)。寄進した方のお名前や年齢も書かれています。たぶん今ならまだいきさつなどお話を伺うことができるかもしれない・・・などと思いながら、首が痛いのを我慢しながらしばらく見ていました。
続いて、地蔵さん探し。家々の間の通りを歩きましたが、高浦や佐田や大佐田のように、ある一角に何体かまとめて・・・みたいなところにはぶつかりませんでした。代わりに出合ったのがお庵らしいところ。石の祠の中で涎掛けを何枚も重ねたお地蔵さんが二体。「天保三」と読めますから1832年。そのとなりに六地蔵。さらに、この中では一番大きく、このお庵を見つけるきっかけになったのが、これ。「三十八番 □□山」と読めますから「千手観音」なのでしょうか? 赤っぽい花崗岩(?)に大らかに彫られています。
そして、その隣の地蔵さんの台座にははっきりと「亀地蔵」右側面には「安政二(1855年)」左側面に「當浦若連中」と書かれています。といっても、姿はふつうのお地蔵さん。小さな頭にやや下向きですから、なんとなく憂いを帯びたような表情にも見えます。
38番とあるから・・・とは思ったものの、他を探すのは辞めて前回お声をかけていただいた方の所へ。その方に尋ねると、「阿弥陀池の近くに阿弥陀様がいらっしゃるはず」と教えてくださいました。集落からは少し離れているものの歩いて行くことにしました。途中出会ったおばあちゃんにもう一度尋ねると、詳しく教えてくださいましたので、迷うことなく阿弥陀様へ。どうやら最近きちんと整備したようで、立派な解説板まで設置されていました。池周辺に東屋などを設置したのと同じ時期なのでしょうか?なんとなく地元の人たちの場所のように思いましたから、こうした観光客(?)用の解説板は不似合いのような・・・。もう一度、池に出てそのまま周囲を歩いてみました。どうやらさっきからのエンジン音は池の水をポンプで吸いあげているようです。ポンプ小屋と思われる小屋も並んでいたり・・・。これだけ雨が降らないと池の水は実にありがたいものだろうなぁと思います。一周してみようと思って歩き始めたのですが、意外と時間がかかりそうなのと空模様が怪しくなってきたこともあって、途中で引き返しました。池の近くを飛ぶコシアキトンボ、畑の柑橘の葉近くを舞うモンキアゲハ・・・姿をみせるそれらに目をやりながら歩きました。いつもは、海岸線に沿った道路を走りぬけるだけの井野浦も、こうして歩いてみると、すぐに山が迫っているところだから集落としての平地は狭いけれど、なにかしら雰囲気のある集落だな・・・と思い始めました。。(案内人)
こちらにも他の写真を見ることができます。
Yahoo!フォト→マイ・フォト
2004年7月15日(木) 三崎町佐田を歩く
2004年7月8日(木) 三崎・八幡神社を訪ねる
2004年7月7日(水) 琴平・本町を通って郵便局へ
暑いなか、自転車で郵便局へ。気持ち半分は町の様子を見に・・・というところです。気になった所を順に。@菊池邸あと 水路工事は終了していました。確かにわずかに道路が広がった形に・・・。工事とは反対側の水路をデジカメで。この青石の石積みを見るだけでも値打ちがありそうに思うのですが・・・A一笑堂。お店は国道沿いに出たので、ずっとやっていないのですが、どうやら正面のやりかえでしょうか?。脚立が置いてあったりしました。B美名瀬橋近くの旧東洋紡赤レンガ倉庫。壁面を覆うかのように這っていたキヅタがすっかり刈り取られていました。ひょっとして7月17日からのライトアップ用にでしょうか。あの緑もなかなか魅力があったと思うのですが・・・。(案内人)
2004年7月5日(月) 「ジ・アース」を借りてきました
すごい雑誌だなあ。と驚くばかりです。これを購入していた方にも驚きます。また、快く貸してくださったことも大感謝です。残念ながら全冊というわけにはいかず、11号〜38号。途中32だけ抜けています。
とにかく、編集者と執筆者のエネルギーがすごい!! 11号で平成2年9月、38号で平成7年3月。というのも、年6回の奇数月の発行。それでも、これだけの質的内容を維持していくのは並大抵のことではないと想像できます。2年ほど前に八幡浜市民図書館にありませんか?と尋ねたことがあり、残念の結果でした。今回ある方から一週間という約束で貸していただきましたので、精一杯読みたいと思います。(案内人)
2004年7月1日(木) 三崎町正野・高浦・大佐田を歩きました
木曜日はメロディラインの日。という事情があるのです。今日は、たっぷり三崎町を歩こう!のつもりです。
まずは、串の鯨塚の確認。佐田岬漁港の入り口の公園に車を止めると、うん?何のにおい?と見ると、公園にテングサがほしてありました。その近くに説明板はあったはずなのに・・・と尋ねたら「風で飛んでしもとい!」とのこと。とりあえず、大きな青石の碑だけ撮影。つづいて近所を歩きました。防風・防潮の石積みをぐるっと見たり、お地蔵さんはないかしらと上への細い道を歩いたり・・・。
続いて、すぐ隣りなのに部落名が異なる正野の野坂の石積み。前に来たときは補修中でした。仕方がないのでしょうが、積み方の違いからその部分はすぐにわかります。そして、すぐ横の「野坂神社」。おもしろかったのは、月桂樹でしょうか?石積みの高さまですらっとほそく伸び、石積みの高さから幹が太く、枝分かれもしています。また、漁師の神社らしく、拝殿の中には船の模型が奉納されていました。さらに、少し奥の集落へと足を伸ばして、立てかけた石やら土壁の駄屋(納屋?)やら、あれこれ眺めながら歩きました。そして、出会ったのがプラスチック(ポリ?)のかろいかご(発音としては、「かりかご」だったかな?)。それらしいものの転用なのか、ちゃんとしたそれなのか分かりませんが、少し前に名取でも見かけたので、そのときほどは驚きませんでした。今回はちゃんと撮影。
ちょっと早めの昼食は「漁師物語り」で。平日?やや早め?のせいか、私のほかは一人だけ。寿司とイセエビの味噌汁(840円)を、前に広がる海を見ながら食べました。
午後は、場所を変えて三崎方面にもどり、井野浦方面へ。この辺りは、湾ごとに高浦、佐田、大佐田、井野浦と続いています。まずは高浦へ。集落の中を少し歩くと、素朴な蔵に出会いました。平がわらを張り、しっくいでとめたなまこ壁(?) 。そして、「天満神社」。本殿をぐるっと囲んである玉垣がコンクリートによる洗い出し仕上げ。これが昭和10年でしょうか。というのも、保内の宮内にもそのころのものと思われる「宮内診療所」−洗い出しによる洋風建築の建物がありました。そして、この高浦でもお地蔵さんと出会いました。残念ながら、砂岩なのでしょうか、顔の部分がおちていたり、左側が欠けていたり・・・と傷みが大きいのが残念。それでも、ガム(紙?)テープが残っていたりしますから、補修を試みていたようではあるのですが・・・。それらのお地蔵さんたちの前には大きな青石の一枚板に「大乗妙典塔」と彫ったものが立てられています。高浦はかつて銅山でにぎわったと聞いているので、その証を・・・。尋ねて坑口だけ教えてもらいました。その前に鉱石をレールで運び、下に落とすような設備もありました。
続いて大佐田へ。今日の目的2つ目がここ。前に出会った「鯨を抱いている?」の地蔵さんについて、できれば地元の人に伺えないか?と思ったのです。それでも、先に集落の中をあちこちうろうろ・・・。路地から「すごい石積み!」と近づいてみると、ここも「天満神社」でした。ところで、「天神様のお通りじゃ」との関係も気になってきました。ここの脇障子は昇り龍! さて、肝心のお地蔵さんたちです。今回は、写真よりも文字を記録・・・と懸命に読みました。でも、やはり素人の悲しさ・・・読みきれないのです。右の「子安観音」の台座は花崗岩らしくやや文字が浅く、不鮮明。左の大きな「地蔵菩薩」は「世話人久徳丸鉄蔵」とまで読めます。このお地蔵さん、ほんとうに大きいです。気になる真ん中の・・・。「文化六 海上□□三界万霊」と読めます。□部分が、一文字なのか二文字なのかも判然としません。ひょっとしたら「亡霊」?と思うものの、「万霊」の「霊」とは少しちがっています。前に見たときは、鯨の顔ではないし、やはり「子安観音」?と思ったのですが、これは両手で体の正面で抱いています。その姿からも、なかなか「子安」?とは思えないのです。まして、今日のように「海上〜」と書かれてあったりすると、なおのこと・・・。そうしていると、バイクに乗ったおじさんが、「なにしよんなさら?」と話しかけてくださいました。その方はとても歴史が大好きなようであれこれ教えてくださいます。その方も、左の「地蔵菩薩」のことは、「昭和19年の水害のとき、土砂崩れをこの背中でぴたっと止めた。」とは話してくださるのですが、気になる真ん中の石仏については・・・。地元の人にとって、あってあたりまえですから、特別「なんだ?」とは思わないのでしょうね。自分だって、自分ちのすぐ上のお地蔵さんが「子安観音」で子どもを抱いているとは、ほんと一昨年初めて知りましたから・・・。疑問は解決できないままその場をあとにして、もうしばらくうろうろします。してみるもんです。屋根の葺き替えだという民家に出会いました。また、それをもっとよく見ようと上がったところが墓地。この墓地も、一見の価値あり! というのも不謹慎なのでしょうが、見慣れたそれと、まるでちがうのです。おそらく境がなく、とにかく一面に墓石や石塔が並んでいるからなのでしょうね。どうやら、ミニ四国の88番札所でもありそうでしたが・・・。
ふぅ〜、長いようで短い5時間ほどでした。(案内人)
参考:前に写真を撮っていますので、それからここに転記しておきます。「鯨塚の由来/明治の初め頃、この近くの浜辺に一頭の大鯨が打ち上げられました。当時、鯨を「大魚様」と呼んでいた地元の人々はこの鯨の骨を大小二基の塔に葬り手厚く供養したと伝えられています。/三崎町教育委員会
なお、三崎町誌(昭和60年発行)の年表に「昭和57年1月8日 串漁港に小型クジラ揚がる」と写真とともに掲載されています。
写真はこちらへどうぞYahoo!フォト→マイ・フォト