福井市 歴史の町、コシヒカリの故郷 TOPに戻る
福井はかって北の庄と言われていた。49万石を持った柴田勝家(1522?〜1583)の北ノ庄城は現在の柴田神社に本丸があった。信長亡き後の1583年4月24日午前4時、勝家は後輩に当たる秀吉の大軍に攻められ足羽山(あすわやま)から見下ろす秀吉の前で火薬庫に火をつけお市の方と共に自決した。信長の妹・お市の子である茶々、はつ、ごうの三姉妹は秀吉に保護を求めるため事前に城外に出されたが、長女茶々は母と共に死にたいと言って聞かなかったと伝えられる。その後、茶々は秀吉の側室淀君になったが1615年大阪夏の陣で豊臣秀頼と共に大阪城で自害して果て、次女はつは若狭の小浜藩主・京極高次(1563〜1609)の妻となり幸福な一生を送ったという。三女ごうは第2代将軍・徳川秀忠(1579〜1632)の妻となり家光の母となったが将軍・秀忠に対しても臆する所のない女性だったと言われる。女性史の中で異彩を放つ三姉妹である。
江戸時代には徳川家康と築山殿の間に生まれた結城秀康(1574〜1607)の居城が現在の県庁の所に置かれ当時67万石とされた。次の城主は忠直卿行状記(菊池寛著)に描かれた忠直であるが彼は乱行で豊後に配転された。 その後、32万石となり忠直の弟忠昌が嗣いだ時に北ノ庄という地名を福居と改め、更に福井と改名された。幕末の藩主はよく知られた松平慶永(よしなが、号は春嶽(しゅんがく)、1828〜1890)で幕末の混乱期には条約締結などで井伊直弼に異論を唱え閉門を命じられたが赦免され、明治政府の民部卿・大蔵卿にもなった。
住友家の祖先は平国香(たいらのくにか)の弟・良文(よしぶみ)に遡ることができる。柴田勝家の配下にあった住友政俊は北の庄落城の折り勝家と運命をともにしたが、その子の住友政行は江戸時代、北の庄城主・結城秀康に仕えた。1602年に政行が亡くなるとその夫人は2人の子を連れて京に上り長男・政明が薬、書籍などを商う富士屋を開業し、これが後の住友財閥の出発となった。1691年の別子銅山の発見で大発展を遂げ、その後幾たびも興亡の危機を乗り越え1895年住友銀行を創立、三井、三菱に並んだ。現代になり住友芳夫氏の夫人・武子氏は松平春嶽公の曾孫になる。今も進学や就職で福井と京都の往き来は多いが、何かと福井とは縁の深い住友家である。
参考文献 日本の名家100(中嶋繁雄著、河出文庫)
さて、約1500年前に遡ることにする。足羽山(あすわやま)の山頂付近に大和朝廷第26代継体天皇(?〜531年頃)の大きな石像(明治時代に建立)が建っている。応神天皇5代の孫と言われる継体天皇は、暴君とされる第25代武烈天皇が亡くなり大和政権の後継が途絶えた時に男大迹王(おおとのおおきみ)と称して越前より出て天皇の地位についた。地元の人にとっては、「沼地や洪水の多かった福井平野の治水に尽力して三国に水門を開いて平野に豊かな田畑を増やしてくれた良いお爺ちゃん」という感じであるが、古代日本の中で重要な役割を果たした人である。武烈天皇の姉で仁賢天皇の皇女の手白髪(たしらか)皇女を皇后として、継体という名が示すように大和朝廷の体制を引き継ぎ現天皇に繋がる確固たる天皇制を築いた大政治家であり、1500年前に実在した天皇であることを疑う人はいない。天皇家の系図を見ればその存在の大きさが分かる 。継体亡き後間もなく欽明天皇や推古天皇や聖徳太子が登場する。
![]() |
![]() |
|
| 足羽山の継体天皇像 | 足羽川の桜 桜の名所100選 |