勝山市 平泉寺(へいせんじ) TOPに戻る
正式には平泉寺白山神社という神社であり我が国の白山神社の総本山である。麻生津(浅水、あそうず)に生まれた泰澄(たいちょう)大師(682?〜767年?)は信仰の山として仰がれるようになった白山(2702m)を開き、717年に白山の表参道として平泉寺を建立した。白山は深田久弥の「日本百名山」の一つ。
かって、強力な僧兵を持ち源平合戦や南北朝争乱,更に一向一揆や朝倉と織田の戦いなど様々な争いに介入して領地を広め,中世のある時期には寺領
9 万石、僧兵8000人に達したと言われる。平泉寺は
1574 年 (天正 2年) にそれまで支配してきた一向一揆衆に襲撃されほぼ全山が灰塵に帰した。この時、一向一揆衆が自分達の城塞のあった村岡山(むらこやま)を「勝つ山」、従って勝山と改めた。境内にそびえる大木の多くはそれ以後のもので樹齢3,400年程度が多いという。石畳の参道は「日本の道100選」である。かって、山伏姿に身をやつして奥州に逃れる義経や弁慶一行も立ち寄った平泉寺であるが、藤原氏が栄えた奥州平泉との結びつきもあったのではないかという説がある。
「街道をゆく」で司馬遼太郎が「京都の苔寺の苔など、この境内にひろがる苔の規模と質から見れば笑止なほど」と賞賛したのがこの平泉寺(へいせんじ)の美しく分厚い苔である。
平泉(ひらいずみ)家は現代になっても逸材を輩出している。平泉渉・前科学技術庁長官もその一人であるが、平泉澄(きよし)博士(1895〜1984年)は熱烈な皇国史観の主唱者であり戦時中の社会に大きな影響力をもった。太平洋戦争降伏阻止をもくろみ皇居を占拠しようとするクーデタ計画
(宮城事件) を企てた陸軍将校達もその影響を強く受けた人たちだった。門柱には両氏の表札が掲げられていた。
参考文献 世界大百科事典(平凡社)、街道をゆく(司馬遼太郎、朝日新聞社)
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| 石畳の参道 | 苔におおわれる境内 |
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| お盆で参拝者も多かった | 平泉家正門 |