上田城



















天正11年ころ真田昌幸が築城した。
天正13年、徳川家康と決裂。その軍勢を迎え撃つことになった。
徳川勢8千に対して、真田勢わずか3千。2〜3倍もの兵数の差があるにもかかわらず、
見事に撃退した。昌幸の武名は天下に鳴り響いたのである。
慶長5年、またも徳川勢と戦うことになる。家康は石田三成との戦いに向け、
二手に分かれて進撃した。家康は東海道を経由したのに対して、秀忠率いる別働隊は
中山道を西上した。そして秀忠軍は「行き掛けの駄賃」とばかりに、上田城に攻め寄せた。
しかし、再び徳川勢は、真田勢の守る上田城に苦汁を飲まされ、結局攻撃を中止している。
そのため秀忠軍は関ヶ原での決戦に間に合わず、家康から激怒されてしまうのである。