

二都物語 運命を共にした東京と広島の四百年
はじめに
二都物語を始めるに当たって述べておきたいことがある。私の恩師中尾壮一先生は、中学で歴史・社会などを教えていただいたが,四十数年ぶりにお会いした時は,広島で郷土史会の会長をしておられた。私は先生が授業中に、すぐ何かといえば絵を描いていた事を思いだした。それは歴史絵とも言えるもので、確信に満ちた手さばきと、その豊富な史料価値の高い絵は、深く印象に残っている。今でもそれらの画業は、街中の史蹟説明(広島全日空ホテルのアプローチに建つ銘版=国泰寺跡地等)として、或いは歴史資料(広島城下図等)として史誌等に残されている。
そうした先生とは僅かな時間しか交流が無かったが、ある時を境にして、私と先生は別の道を辿っていた。それからまもなくして先生の亡くなられた事を知ったが、その時はもう誤解と悔恨の壁が残されただけであった。今でもそのことが残念でならない。
先生の口癖は、「歴史はロマンである」だった。私はある日それに対して「歴史は魑魅魍魎に満ちている」といった。又あるとき先生は言われた。「歴史は流れとして見なければ意味が無い」と。私は何も言わなかったが、心に深く刻まれたものがある。その時先生は毛利家の興亡を挙げ、やがてその流れが明治維新にまで辿り着くことを示唆されていたからである。
そのことを、私は今でも忘れていない。さてそれでは、ここで私は、一体何を述べようとしているのだろうか。
それは広島が、過去数度(正確には三回)に渡って、日本と世界の「歴史」の綻(ほころ)び(の現場)となったこと、もっと言えば「時代の綻び」としての、「時間の裂け目」を見た−体験した事に尽きるだろう。中でも原爆の体験は、広島の町と市民が明確な意図のないままではあっても、世界の縮図となり、世界の分裂と後退−更に言えば荒廃と灰塵に帰すことを止める者としてあった事を示している。もっと分りやすく言うなら、広島は人身御供−人柱として、或いは生贄として死に、蘇ったのだ。
その前二回の体験(関ヶ原の戦いと幕末維新)でも、広島の果たした役割は同質であり、日本国内だけの事とは言えその本質は変わらない。
原爆投下のほぼ七十年前、幕末の維新の頃、広島は大きく揺れ動きその立場の曖昧さ故に歴史の裂け目となった。同じ事が四百年前の関ヶ原の戦いの時起こっている。
その最初の毛利輝元のとった態度は、その曖昧さ故に徳川家康の政権を許したのであり、日本を二分する戦いは、輝元の自己犠牲という予期しない形で終わった。
それから二百八十年経った幕末、広島は同じ曖昧さで日本を二分する戦いに巻き込まれ、今度は善戦するが、やはり勝者とはなりえず後に退くのである。
最初の戦いでは舞台は明らかに広島ではない。しかしそれでも日本を二分する戦いを「広島」がした事に変りはない。次ぎの戦い(第一次、二次長州戦争)では広島が舞台となり、幕府軍の勢力が広島に結集し、薩長同盟を組む隣藩の長州勢と対峙した。そして最後の戦い(第二次世界大戦)では、「ひろしま」は、その軍都としての歴史と設備・体制故に世界の糾弾を浴びせ掛けられたのである。
このような状況の中で、広島と東京の隠された意図−都市の連星としての運命は回り始めた。その時私が、中尾壮一先生の言葉を思い出し、噛み締めていたことは間違いない。歴史は、その流れの中で捉えるべきだという言う中尾先生の話は、私に何等かのヒントを与え、事件のスパンの長さを図りかねている時、大いなる力を与えてくれたのである。