(2001/9/26)
隠元の広島通過・・・
中国の黄檗(おうばく)僧・隠元は、招かれて来日したが約三年間は長崎に留めおかれていた。承応元年(1652)になって、将軍家綱から呼び出しがあり、長崎を後に江戸に向かった。
このとき案内したのが、広島に住む禅林寺三世の僧、虚櫺(きょれい)である。
【是年、袋町禅宗禅林寺三世の僧虚櫺、将軍家綱の命に依り、明の僧隠元を備前国長崎に迎う、虚櫺は俗姓了廊、長州阿佐郡の人なり、年壮にして明国に渡り、黄檗山に学び、帰朝の後当寺に住す、是年将軍家綱、明より黄檗の僧隠元を招致するに方り、虚櫺と隠元と相識れるが故に、特に虚櫺をして之を長崎に迎え、其真偽を察せしむ、虚櫺乃ち隠元と共に携えて江戸に赴き、将軍に見ゆ、】
【後ち寛文十二年藩士寺西織部信之、京都本山妙心寺に通玄院を創建し、虚櫺を請うて開山とし、天和二年叉広島尾長山の別墅石泉亭内に通玄堂を起こし、復た虚櫺を以って開山となす、】広島市史
この時寺西は、隠元の書を得て、【通玄山】の文字を刻んだその自然石を残している。それが今も己斐フジタウン内にある。
(2001/9/2)
毛利輝元 吉田を出る
それまで高田郡吉田の山深い里(山城)を拠点としていた毛利輝元は、天正十七年(1598)二月二十日、吉田を出て広島に向かった。かねて秀吉からも諭されていたし、自分でもそう考え納得した上での城がえであった。その頃山陽・山陰九ヶ国(安芸、備後、備中、周防、長門、石見、出雲、伯老、隠岐)を領し、百二十万石の大大名になっていた。その自分がいつまでも山城でもあるまい。増えた所領の管理と家臣の居心地を満足させる必要もあった。 それにはやはり開けた場所−交通の要所と平野に移る必要があった。
翌二十一日にはもう、二名の供と共に、三ヶ所の小山に登って築城地を検分している。
【是より己斐豊後守、福島大和守の両人を随え、安南郡矢賀村明星院山、牛田村新山、己斐村松山に登り、地形を相し、築城地を安南・佐東両郡の間なる五箇村(別名五箇荘)にト定す】
【四月十五日、輝元、其臣二宮太郎右衛門を築城奉行と為して、薫役せしめ、乃ち是日を以て「鍬初の式」を行う】 広島市史
歴史・行事

ひろしまおもしろがたり

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『基本資料』
広島市史・新修広島市史、
