(2001/9/2)
まぼろしの「広島焼」窯は存在した!?

「姫谷焼」、「渕埼焼」、「江波焼」など広島に於ける窯元で、今は幻となった焼き物も多い。その中で名前すらなく、その存在が全く知られていない「謎の窯」がある。しかもそれは歴史に名を残す著名な陶工の消息を伝えるものでもあった。
その陶工の名は「李勺光」と言う。彼の名前は、実は「萩焼」の陶祖として知られているが、広島との関わりは果たしてどのようなものだったのか?
歴史に関心のある人なら凡その察しは付くと思うが、彼もまた、秀吉の大陸侵攻策の際連れこられた、朝鮮人陶工の一人だったのである。その間の事情を、説明した文章があるので紹介する。

【秀吉は、朝鮮出兵に際し、毛利輝元に命じて、朝鮮の有名陶工を招来するように指示した。毛利輝元は戦役なかばに、利勺光をつれて、帰国、大阪表で、太閤に拝謁して、李勺光をさし出した。秀吉は大層それを喜び、李勺光を毛利あずけとした。輝元は利勺光を、その当時彼の所領、広島に連れ帰って住まわせ、窯を開く準備をさせた。李勺光は本国から弟の李敬夫婦をはじめ、一族郎党を呼び寄せた。】

ここまで詠んで複雑な思いに浸る人もいるだろう。何故なら当時の朝鮮人陶工は、あくまでも捕虜であり、彼らが「一族郎党」をその敵地に招来したとは到底考え難いからだ。その頃は未だ戦争の一方で「和議工作」が密かに進んでいたとは言え、朝鮮人の「日本憎し」の感情が増大し、住民パワーは最高潮に達し、各地で抵抗勢力が大同団結して、日本軍に対する巻き返しがはじまっていたからである。
この謎を解く鍵は、恐らく日本人のお人好しぶりと、「技術者」に対する異例の厚遇にあったと考えられる。この事は言うまでもなく、同時期に日本各地に誕生した、朝鮮人陶工による有名窯の散在するのを見ても分る。そのために朝鮮では、陶工技術が廃れたと言われるくらいだ。
それでは本当に李勺光は、広島に窯を開き、「広島焼」の試作品を完成したのだろうか?その続きを見ていくことにしよう。

【李勺光は一族と広島に窯を開く準備をしていたが、突然、秀吉の死にあった。毛利家は急ぎ朝鮮をひきあげて帰国したが秀吉死後の慌しい政情に落ち着かないまま関ヶ原の戦いとなった。毛利輝元は西方の大将格だったので、関ヶ原合戦に破れたあと、徳川家と和議を結ぶまで苦慮を重ねた。和議の努力も空しく、防長二州に領地を削減されたのである。毛利輝元が、萩へ入府したのは慶長九(一六○四)年のことである。彼は萩に城を築き、その城下の松本中之倉に、利勺光を住まわせて、窯を設けさせた。その松本窯が、のちにいう【萩焼】のはじまりとなる。】

どうもこうした記述を見る限りでは、少なくとも【広島焼】の完成はなさそうである。しかし試作を重ねたその中には、藩主に献上したものや勺光自身が気に入ったものもあったに違いないが、現在の萩焼きとはもって非なるものであろうし、少なくとも広島の土に適った作品であったものと思う。この推察の根拠は、彼らの広島滞在期間が、五年以上に及んだこともあるが、何よりも一族を呼び寄せるだけの結束力、「焼き物」にたいする思い入れと職人としての見識の高さが忘れられた事がないと言う事実がある。それは一日一日が研鑚の日々であり、意欲に満ちたその年月の集積は、何よりも人間の創造性を結実させるに足るものではないだろうか?!

引用は「陶と剣  野口赫宙著  講談社」より


 
   



                              
                           

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