(2001/9/20)
もう一つの仇討

広島に因縁の深い仇討ちをもう一つ。と言っても舞台は毛利時代の萩城下で、「まぼろしの広島窯」の続きということになる。
それでは何故広島かというと,それは私の祖先が深くかかわっているのではないかと言う私の推理の上に成り立っている。これには少し説明が必要であるが,詳しいことは後日に譲るとして、簡単に述べておけば、この文中に出てくる「渡辺某」が私の祖先に関係している。私の推理が当たっているとしたら,渡辺某の累系は,後の赤穂事件の中の登場人物であるから事は重大と言わなければならない。従ってこの話は、未だ確定も完結もしていないことを予めお断りしておく。

【李勺光は、秀吉お抱えの陶工のはずであったが、そのような事情から、毛利家御用窯の支配をする事になったのである。松本窯を開設した後、李勺光は、領内に点在していた古い窯の復興を命ぜられた。李勺光が復興した古窯の一つが深川窯である。李勺光は自らも陶器を焼いたが、主に弟子の養成に力を尽くした。李勺光は、松本中之倉に窯を開設した時、その裏山の鼓ヶ嶽、またの名、唐人山を薪山として拝領し、食禄五人扶持、切銭二百五十匁を賜り、御細工人という職名で藩に召抱えられた。氏を山村と賜り、名を作之允とした。
二代目、山村新兵衛(松庵)は、古萩に家屋敷を拝領した。高弟に山埼平左衛門、蔵崎五郎右衛門の二人がおり、それを付け人とした。「焼物所総都合〆」の職を与えられて相当のはぶりだったものと考えられる。と、この松庵が刃傷沙汰を起こして問題となった。
城下の法華寺で、藩士、渡辺四郎左衛門と囲碁を楽しんでいた松庵(山村新兵衛)は、碁の争いが喧嘩となり、渡辺四郎左衛門を切り殺した。寛永十八年のことである。渡辺の子、吉之丞とその弟の増庵は、父の仇を討ち、松庵を殺した。この不始末の咎をうけて、山村家は地位を失った。】

野口赫宙 著 「陶と剣」 講談社

                               (2001/9/18)
二十八年目の仇討ち

【伊勢亀山城(三重県亀山市)から退出するため、藩士赤堀水之助が三の丸の坂道に差し掛かった時である.突然二人の男が名乗りをあげ、切りかかった.水之助はたちまち七ヶ所に傷を受け、倒れた所をとどめを刺された。討ったのは元小諸(長野県)藩士石井正春の遺児、源蔵と半蔵兄弟。浪人だった頃の水之助に父を殺され、兄三之丞も返り討ちにあったための、二十八年目のあだ討だった。元禄十四年(一七○一年)五月九日のことである。(「亀山地方郷土史」)
赤穂浪士の参考に 事件は「元禄曽我」ともてはやされ、翌年には大阪で浄瑠璃となった.以降何度も浄瑠璃、歌舞伎の題材となり、この一連の作品は「亀山のあだ討ち物」と総称された。同十五年、赤穂浪士が吉良義央を討った時、石井兄弟の例を参考にしたとの説もあるという。亀山市教委佐野益子嘱託の話だ。この石井兄弟が実は広島と縁が深いのである。
 「亀山地方郷土史」によると、正春が殺された時、源蔵は五歳、半蔵は二歳、親類の広島藩士宅へ預けられ、剣道を学びつつ時機を待ったという。この話と符合する゛証拠"が広島市にある。同市佐伯区五日市二丁目、光禅寺の「石井兄弟誓いの松」という、根回り三・六メートルの巨木だ。由来は同寺でも分らなくなっていたが、大正七年刊の「佐伯郡史」に載っていた。同寺の十二世住職霊応の兄が剣の達人で兄弟に指南し,別れる時記念に植えたというのだ。
 「敵討」(明治四十二年)という本に収められた江戸時代の主なあだ討は,この「元禄曽我」も含め百件以上。うち五件が中国地方で起きた。元禄五年、出雲(島根県)仁多郡では、農民が農民を父の敵として十七年後に殺している。同誌に載ったもの以外にもあだ討は相当あったらしく,広島藩の地誌「芸藩通志」には延宝六年(一六七五年),三次藩士が宮島(広島市佐伯郡)で農民の兄弟三人に討たれたとある。

島城四百年 中国新聞社編より



風俗・交流


      ひろしまおもしろがたり


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『基本資料』
広島市史・新修広島市史、