城下町・町と人
                              (2001/9/25)
広島の町づくり(その@)

広島城下には様々な人々の生活、様々な職業・店構えが始まり、生活の息吹を色濃くしていった。この時代の特色は、吉田から呼び寄せた者もいるが、その殆どは他国からの新たな参入と流入であった。町名の謂れもこの頃に始まり、技術集団や商人の名、寺町や物流の拠点も置かれた。その中からここでは広島市史の述べる店舗や職業の始まりを覗いて見よう。

町人頭と目代役

市民の中から、「徳望」あるものが選ばれ、初代の町人頭となり後代では「町大年寄」(福島氏の時よりとある)と呼ばれた。最初の町人頭は「平田屋惣右衛門」と言う人で、後に宅地と「平田屋町」の町名が与えられた。
【平田屋惣右衛門は、初め出雲国に住す。輝元その土工に練達せるを聞き、召して築城開市の経営に與らしむ】

それでは一般の市民の間には、どのように店構えがはじまり、配置されたのだろうか。
醸造業】天正年中、長谷川右京、和泉国境港より来たり、堺町に住し、醸造を業とす
     
     広島開府のとき、武田氏の遺臣芥河屋助右衛門佐東郡古市村より来たり、宅地を賜り
     て堺町に住し醸造を業とす
     
     近江国万代弥三郎、この国に来たり、初め高田郡横田村に居る、広島開府の後、二子
     と共に来たり、宅地を賜り橋本町に住す、

     天正年中、佐東郡銀山城主武田氏の一族金屋五郎左衛門、猫屋町に住し、醸造を業と
     す

     播磨国赤松氏の一族菊屋三郎右衛門、慶長二年三原より今の大手町に来たり、醸造を
     業とし屋号を三原屋と称す

油商】 広島開府の時、周防郡濃郡野上市の人吉右衛門、来たりて油屋町に住し、油を造りて
     家業とす、屋号を油屋と云う、後野上屋と称す、毛利、福島二氏の時共に其用に供す
     浅野氏時代藩用の油所となす

紙商】 天正十九年、伊予屋九郎右衛門伊予国より来たり紙屋町に住し紙商を業とす

醤油商】天正十七年、油屋與三右衛門、高田郡より吉田より来たり、堺町に住し、醤油を商う

味噌醤油商】
     
大塚助左衛門備中国より来たり中島本町に住し、家号を備中屋と称し、味噌醤油
      を売りて家業とす

     美作国津山の浪人岡本修理が子萬三郎、安芸国海田市に来たり樽屋に寄食し、後播磨
     屋町に来たり住す、味噌醤油を売りて業とす、屋号を樽屋と称す

薬舗】 開府の後、万代弥三郎の二男四郎右衛門、父と共に高田郡横田村より来たり橋本町
     の北側の家に住し、横田屋と称し、薬舗を商う

     天正年中、雁金屋嘉右衛門、高田郡より来たり、今の大手町1丁目に住し、薬種を商う

     天正年中、金川屋九郎右衛門、備前国金川村より来たり、播磨屋町に住し、薬種を商う

八百屋商
     慶長年中、岡田彦九郎猶正、丹波国より来たり、立町に住し、八百屋商を業とす

鐵商】 慶長元年、大田屋孫一、山県郡大塚村より来たり、塚本町に住し、鐵商を家業とす

鐵細工】天正十七年正月、高田郡多治比村住人錠屋(三代目)権右衛門、来たりて鍛冶屋町
     に住し、鉄細工を業とす


印判彫刻業
     慶長三年、出雲国浪人三刀屋石見、京都より来たり、中島本町に住し、印判彫刻を
     業とす

塗師細工
     文禄二年五月、安芸武田氏の一族武田九郎信朝、佐東郡より来たり、塩屋町に住し、
     九郎右衛門と改名し、塗師細工の業を始む

研刀師】天正年中、紀伊国人湯川市左衛門郷治研屋町に来たり、刀剣を磨くを家業となす

革細工】毛利氏時代広島城下絵図に革屋町の名見ゆ、知新集に曰、昔革細工するもの数多
     居住せる故名づくるならん、承応の絵図ににも革屋何某という屋号多く見ゆと、

木工石匠
     文禄年中、大工・石工等備後国尾道より来たり、尾道町に居住し、諸所の建築工事
     を業とせしこと、岩国屋與三右衛門奮記に見ゆ

畳屋】 今の西地方町内に多く住居せり、知新集に『畳屋町は当地町割の時、畳師おくここ
      に集いける云云』と見ゆ

萱葺工】永禄年中、屋根屋庄兵衛、伊予国より来たり、箱島に住す、人呼んで「山の庄兵衛」
     という、二代目四郎兵衛耕作及茅葺を業とす

瓦工】 天正年中、岩尾善右衛門、山城国山科より瓦工高橋利左衛門を随え、毛利氏瓦師棟
     梁櫻井庄左衛門、松本東左衛門をたより、本市に来る、今の塚本町の内において、
     瓦窯地を賜わり、且合力銀毎年銀五十枚を給し、瓦御用聞きを命ぜらる、慶長五年毛利
     氏移封の時、瓦師棟梁櫻井庄左衛門、松本東左衛門は随従して長渡に移りしが、善右
     衛門は此地に止まりて、家業を続けたり、後元和年間瓦窯を今の河原蝶に移す、毛利
     氏時代の瓦工は、この善右衛門の他に、新蔵、惣四郎、新六、平次の四人あり

鍛工】 広島開府前、高田郡吉田の人池田某、今の稲荷町の地に住居し、小屋掛けして鍛冶を
     業とせしが、開市の時、表五間口、向き合わせに宅地を賜り鍛冶を業とす

     天正年中、八文字屋忠兵衛高田郡吉田より来たり、鍛治屋町に住し、鍛治を業とす

     天正十九年、法道寺屋三郎右衛門、高田郡吉田より来たり、鍛治屋町に住し、鍛治を業
     とす

     天正年中、美濃屋嘉右衛門、毛利氏に随従して来たり、鍛治屋町に宅地を賜りて住
     居し、鍛治を業とす

     文禄年中、中村忠左衛門、佐東郡祇園より来たり、塚本町に住し、鍛治を業とす、
     後延寶二年三代目庄六、新鍛治屋町に移る

医師】 神保新右衛門、初め小早川氏に仕え、二十三貫を賜わりしが、其子保五郎浪人して
     医となり、名を道巴と改め、山口町に住す、晩年宗巴と改名す

山伏】 福壽院天翁、往古より今の石見屋町に住し、慶長元年七月四日没し、二世宗賢継ぎ、
     萬冶二年二月二十一日没す



                         




      ひろしまおもしろがたり


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『基本資料』
広島市史・新修広島市史、