Vol .1

ラーメンマンの髭ほどの長さの毛が絡まった鼻糞を、しばらく左手で弄んだ後ミチルは言った。
「そうかもしれない・・・」 
もう3時間余りもミチルは黙ったままだっただったので、ノリオは少し不意を突かれたが、
すぐにミチルに尋ね直した。
「本当にやっちゃったんですか・・・?」
ミチルはノリオの方にちらりと目をやったが、またすぐに鼻糞の方を向き直し、それをいじり始めた。
「確かにあんたは太ってるけど、あんなに漫画が大好きだったじゃないですか。
ねえ、「かもしれない」ってどういう意味ですか?本当にミチル君がやったんですか?」
またミチルは黙ってしまった。

放送時間も終わり試験電波だけを発しているテレビは付けっぱなしのままだった。
搦めつくような沈黙から、ノリオはなんとか逃れたかったのだ。

深い沈黙の中で気の狂いそうなほど長く感じられた時間(実際には2時間程度であったのだろう)が過ぎ、
冬の遅い日の光が部屋の窓から差し込む頃、ミチルは突然立ち上がった(ミチルの愚息も立ち上がった)。
「もう日の出だ、行かなきゃ」
そう言って、ミチルはそそくさと部屋を後にした。
「こ・こんな時までリッチドールですか。いいかげんにしてくださいよ」
声にならないノリオの怒りだけが、部屋に残った。


Vol .2

「リッチドール」へ向かう途中、ミチルはなんとなく自分のことを考えていた。

ミチルは住宅設備機器を取り扱う営業マンだ。いや営業マンだった。
石橋を恋人に先に渡らせてから渡るというくらいの保身第一主義者で、勤続27年。
勤める会社が取り扱う多くの住宅設備機器のなかでも、システムキッチンばかりを取り扱ってきた。

なにしろシステムキッチンが、システム化される以前、つまり単なるキッチンであるころから
キッチンと共に歩んできたわけだから、それはもうキッチンのプロフェッショナルなのだ。

昼食は365日「ファーストキッチン」。マクドナルドを食べる若者をみるたびに
「この非国民め、犯すぞコラ」と聞こえないようぼっそりつぶやく。
月に一度は「アジアンキッチン」での家族団らんも欠かさない。
まだ小さな娘が「辛ーい」と嫌がると、決まってミチルはこう言う。
「キッチンなんだから我慢して食べなさい」それから、ほんの少し不機嫌になる。

もちろんキッチンへのこだわりは食のみに留まらない。座右の書は、吉本ばなな著「キッチン」。
さらに週末になると家を離れてひとり、秘密基地ならぬ「秘密キッチン」で裸エプロンの
愛人と過ごすというほどの徹底ぶりだ。

にも関わらず、3ヶ月前ミチルの上司が口にしたのは、「キッチンだけの人間はいらない」
という突然の解雇通告だった。



Vol .3

6時を回ったころ、ミチルは阪急東通りへと差し掛かった。
早朝の東通りは実に閑寂としている。しかし昨晩が土曜日だったこともあって、
通りの空気は、にわかに喧騒の臭いを残している。
辺りには幾らか人の姿も見えるが、その誰もが足早に歩き、彼らは2つのパターンに大別できる。
西に、つまり駅に向かって歩くおつとめ帰りのおねえさんか、
その反対、通りの奥に向かうミチルのような風俗目当てのさえない男たちだ。

店々のシャッターが降りた東通りは、うんざりするほど延々と壊滅的な風景が続く。
とはいっても、風俗での濃厚プレーのことしか頭にないミチルにとっては
風景などはどうでもいいことだ。

妄想を膨らますうちに東通りを抜けきって、ミチルはリッチドールへとたどり着いた。
いつものように勇み足で階段を降りる(リッチは地下1階にあるらしい、筆者は未経験)や否や
ミチルは威勢よく一声を発した。
「朝立ちコース、自由席でお願い!」
こんなにも溌剌としたミチルはここ(風俗店)でしかお目にかかることができない。
それはミチル自身もよく理解している。
「もし普段の俺を知るものがこの場に居合わせたならば、レトルトのミートボールのように
目を丸くするに違いないな」
ミチルはふと、そんなことを考えてニタッと微笑った。ミートボールはミチルの大好物だ。
しかし受付に立つ男の返答は、夢のハイテンションのミツルにとって予想だにせぬものだった。
「ゴメンなさい!旦那で21人目なんですよ」
「え!?・・・・」

男の言葉に、ミチルの目はミートボールのように丸くなった。

                                          (つづく・・・の?)


コラムニストの部屋へ TOPへ