筑後に有る肥後の飛び地 1
大牟田市に有る、荒尾市の飛び地。
「石川保著、条理の地名と荒尾の飛び地」を参考に作成しました。
飛び地)有る県市町村の土地で有りながら、よその市町村に有る土地の事。全国で、奈良県に有る、和歌山県の飛び地(北山村と熊野川町)や青森県弘前市の岩木川沿い(岩木町、相馬村)に有る、約16.9平方キロメートルの飛び地等に比べるとと大牟田市に有る、荒尾市の飛び地(3ヶ所)の面積は非常に小さい。
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萩尾橋手前中ほど左の民家(荒尾市下井手,前方の萩尾橋は大牟田市) の下辺りに、堰が有ったと思われる。 この堰は、下流に水が流れなくなるといけないので石造りは 禁止されていて、田植え前になると村中惣出で、先ず木や竹 で杭を作り、それを川の中に立て、それに柴や草を積んで堰 を作った。水漏れを前提とした堰でした。水が入らない時期 になると、堰を解体して、杭などは来年の為に保管していた。 又溝なども毎年掃除がされていた。 |
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今も残る水路、 道路右の家並 みは大牟田市 (筑後)です。 |
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荒尾市(肥後) 倉掛に有る水路。 |
下図、現存する溝の略図、上(北側)大牟田市。 |
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飛び地が出来た理由は。大牟田市の諏訪川(肥後の域内を通るときは関川)下流域の筑後(船津、藤田村)では水不足に悩まされていたので、肥後、下井手深瀬川(関川)に井堰を設け、船津、藤田村に水を分流した、その井堰と溝の代償として、飛び地三箇所が来た。井堰分(一町)溝分(五反)他に船津村よりは井手(堰)茶二つが有った。
いつ頃から飛び地は出来たか。1673年(寛文十三年)三池藩は肥後藩と覚書を取り交わし、用水紛争の解決を図った事が、細川家永青文庫文書に有る。城後氏によると、戦国の頃小代氏が深瀬井手を領有していた頃より始ると言われている。その頃、船津村はまだ無く、藤田村は有ったと思われる。(城後尚年著、境界扮装と用水紛争。石川保著、条理の地名と荒尾の飛び地より)
小代氏)蒙古襲来(文永の役、1274年)に参戦後、肥後野原荘(荒尾市)には入り、以後加藤清正肥後入国までの約300年荒尾地方を支配した豪族。
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