第2部
(1973、インドとスイスでの会話から‐James Brodsky の編集)
私はだれも解放しません。あなたは自身を解放しなければならず、また、そうすることは不可能です。私が言わねばならないことは、そうはしてくれないでしょう。私は‘holy
business(神聖産業)’の人間たちが、その全体を包み隠し、見えなくしたことや神秘化したことをかたづけて、この状態を述べることのみに興味があるのです。あなたが、自身の想像力以外には存在しない状態を捜し求め、膨大な時間とエネルギーの浪費しないよう納得させることはできるかもしれません。
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あなたは、このことをけっして理解できない。というのは、あなたは、自身の過去の経験に基づいて、これを経験することだけができるからです。自然状態には因果がないacausal。これは、経験領域の外側です。それはただ起こるのです。疎通がないことはNo communicationあり得、必要すらない。あなたにとって真実であるただひとつのことは、あなたが機能しているということなのです。あなたが機能しているということを私が言い表すのは、くだらない行為です。あなたがこの全ての比較を止める時、あなたの自然状態があるということなのです。そして、あなたは誰の話にも耳を傾けなくなるでしょう。
私の教えなどなく、けしてそうはしません。“教え”はそのための言葉ではないのです。教えとは、あなたの生き方に変容を起こすために適用される方法、システム、テクニック、新しい考え方を含んでいます。私が言っていることは、教えることが可能な領域の外側にあるのです。それは、単純に私が機能していることの説明にすぎないのです。それは、ちょうど、人の自然状態の表現であるのです。―― これは、思考の謀略をまる剥がしにされれば、あなたも機能しているということなのです。
その自然状態は自己覚醒 神的覚醒した人間の状態ではなく、達成したり、到達するものではなく、存在への意志でもなく、それはそこにあるのです。――それは生きている状態なのです。この状態は、ちょうど生命の機能的活動なのです。‘生命’ということで、私は抽象的な何かを意味しているのではありません。それは、思考の干渉がなく、自然に機能する感覚という生命なのです。思考は、感覚の作用affairsに力づくで分け入ってくる侵入者なのです。思考は得る目的があります。思考は感覚から何かを得ようと感覚の活動を導きdirects、自身に連続を与えようと、感覚を使うのです。あなたの自然状態は無常の喜び、至福、恍惚感というような宗教的状態となんら関係がないのです。それらは経験の領域のうちにある。幾世紀にもわたって、宗教性を求める人を導いてきた人々は、ことによると、そのような宗教的状態を経験したのです。そして、あなたもできるのです。それらは、思考が誘発した存在の状態なのです。そして、それらはやってくるものであり、そして去っていくのです。クリシュナ意識であれ、ブッダ意識であれ、キリスト意識であれ、あなたにあるものであれwhat have you、誤った方向でのトリップなのです。それらは、時間の領域にある全てです。時間を超えることは、どのような人間によっても、けして経験されることはできない。把握されることはできない。まして、表現されることなどない。あの踏み固められた轍は、あなたを何処にも連れて行くことはしないでしょう。さらなる向こうのオアシスなどない。あなたは蜃気楼に行き詰まるのです。
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この状態はあなたの存在という身体の状況です。精神的変質のようなものではありません。ある日落っこちて次の日に出てこれるマインドの状態ではないのです。あなたが今あるように、思考が身体のあらゆる細胞の機能に浸透し、干渉する程度を想像することはできない。自然状態に入ることは、あらゆる細胞、あらゆる腺、あらゆる神経を爆破することでしょう。ある種の錬金術が起こるのです。しかしこの状態はLSDのような化学的薬物の経験とはなんのかかわりもありません。それらは、経験です。これではない。
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エンライトメントのようなものは存在するのでしょうか?私にとって、存在することとは、純粋に身体プロセスなのです。それについて、神秘的なことも霊的なこともありません。目を閉じれば、光がまぶたを通ります。まぶたを覆っても、内側にまだ光があります。額に目立たないですが、そこを通って、何かが突き抜ける穴のようなものがあるようです。インドでは、光は金色。ヨーロッパでは青。首の後ろを貫通する光のようなものがあります。まるで、頭蓋骨の前後にある場所の間を通って走っている穴があるかのようです。この光以外、内側には何もありません。それらのポイントを覆うなら、完全な、全くの暗闇があります。この光は、とにかく、何もしませんし、機能するために身体を助けるわけでもありません。ただそこにあるのです。
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この状態は知らない状態です。a state of not knowing; あなたは、自分が何を見ているか全くわからない。私は壁の時計を見るかもしれない。30分。――以前として時間がわからない。私は、それが時計だとは知らない。内側にある全てのものは、驚きなんです。「私が見ているこれは何?」この問いが実に言葉でそんなふうに出るということではなく、私の存在の全てがただ大きなクエスチョンマークなのです。驚き、不思議の状態です。というのは、私は見ているものをただ知らないからです。それについての知識とは、――私が学んだ全て―― 要求がある場合を除いて、背後に抱かれている。‘つかまない状態’にあるのです。あなたがもし時間を尋ねるなら、私は「3時15分」などと言うでしょう―矢のようにすばやく―そして、驚きを知らない状態に戻るのです。
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あなたは、あなたの内にいつもある途方も無い平安などけして理解できません。それが自然状態なのです。マインドのやすらかな状態を作り出そうとすることは、実際、あなたの中に障害を作り出していることです。あなたは平安を語り、マインドの状態を作り出し、自分がとても平穏であると自分にいうことはできます。――しかし、それは平安ではなく、侵犯です。そのように平安の実践には無益があり、沈黙の実践には理由がありません。真の沈黙は爆発的です。霊的探求者が考えるようなマインドの死という状態ではありません。「ああ、私は平安とともにある!沈黙がある。途方もない沈黙が!沈黙を経験している。」――全くそんな意味ではありません。それは、その性質において火山のようです。始終、ボコボコしています。――エネルギー、命―そのクォリティなのです。私がどのようにわかるかあなたは尋ねたいかもしれない。わかりません。生命は自身に気づく。私がそのままにするならば――それは意識そのものです。
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私が‘感じること’について話す場合、あなたがしていることと同じものを意味してはいません。実際、感じることとは、身体的反応であり、胸腺の一撃です。胸腺は内分泌腺の1つで、肋骨の下に位置します。医師達は幼少期から思春期まで活動的でそれから不活発になると語ります。自然状態に入れば、この腺は再活性化します。そこで、センセーションが感じられます。‘良い’とか‘悪い’とか翻訳できない。それらはただ一撃であるのです。あなたのそとで、動きがあるなら――揺れる時計の振り子、視界を横切る鳥――その動きも胸腺で感じられます。あなたの存在全体は、動き、あの音で震えること。分離はありません。このことは、あなたが鳥や何かと一体であるということを意味しているのではありません。「私はあの飛ぶ鳥だ。」そこに‘あなた’いず、どのような対象もありません。元になるのは、あのセンセーションなのだということをあなたは知りません。それがセンセーションであることを知りさえしないのです。
‘愛着’は(これは、この言葉の私的解釈であありません。)、あなたが全てに愛されることを意味し、何かに向かって、あなたから流れ出るなんらかの情緒ではありません。自然状態は偉大な感受性の状態です。しかし、これは感覚という身体的感受性であり、他者に対する慈愛や優しさのようなものではありません。自分にとって、‘他者’がないという意味においてのみ慈愛があるんです。
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あなたが‘私’とかその‘マインド’とかその‘自己’という実体があなたの中にありますか?あなたが聞くこと。同時に見ること。あなたが味わうこと。同時に嗅ぐことなどなどをコーディネイトするコーディネーターはいるんでしょうか?または、単一の感覚から-例えば、両眼からのインパルスの流入などから―生じる多様なセンセーションを繋ぎ合わせる何かはあるのでしょうか?実際に、2つのセンセーションの間にはいつもギャップがあります。コーディネーターは、そのギャップの橋渡しをします:彼は、自身を継続の幻影として打ち立てるのです。
自然状態では異なる感覚からのメッセージをコーディネイトする実体はありません。外側から要求があるとき、それは感覚の1つ、あるいは、2つ、あるいは全てをコーディネイトさせますが、コーディネーターはいません。しかし、コーディネーションの一時的状態があります。継続はありません。要求に出会わなければ、感覚の機能がコーディネイトされない、連結されない、接合されないだけなのです。これはいつものことです。1度、継続がばらばらに吹き飛んだならば――