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ネットで検索してみたところ、大体の紹介とか書評はグレゴー ルの不安や実存に焦点をあてている。しかし、物語の終盤では グレゴールの独白部分は次第に少なくなってくるし、最後に彼 が死んでしまった後も、しばらくは家族の間の談話によって物 語は進む。色眼鏡をかけずに読むなら、この小説は家族小説な のだ−−それもとても現代的な。 一家の大黒柱が病気や老齢・障害などによって働けなくなった 時、一体家族はどうするのか。ザムザ家の対応はまさに現実的 なもので、家族全員が新しく働くことによって、大黒柱を失っ たことに対する経済的な対応をする。そこにはふがいない大黒 柱に対する軽蔑も、憎悪もない。ちょっと迷惑ではあるけれど 、おとなしく部屋に引っ込んでさえいてくれれば、それなりの 愛情をもって面倒をみてあげる−−そうした家族の愛と、その 愛に対するグレゴールの純朴な信頼がある。 しかしこの物語の結末は、とてもアイロニカルなものに終わる 。愛し愛される温かな家庭。こうした家族がこのような困った 状況に陥った時、誰も意識はしていないし空想することすらな いけれども、実は密かに含意された完全円満な解決が唯一つあ る−−グレゴールの静かな、ひそやかな死。 家族の愛に包まれながら、家族の幸福を思いつつ、グレゴール は静かに死んでいく。温かな家庭にもたらされる、最も皆にと って幸福な、最上の解決。しかし現実道徳的には極めて受け入 れがたく、残酷な解決。これをストレートに提出しているとこ ろに、カフカ一流の鋭い事実認識と、痛烈なアイロニーがある 。 愛し愛される家族のためには、グレゴールは死ななければなら ない。しかしこのような幸福な家庭での彼の死が、物語の観客 にとって単なる物語的な情感をもたらす悲劇として提出されて もならない(なぜならこれは厳然たる事実なのだから)。だか らこそグレゴールは巨大な毒虫にならなければならなかった。 人間的な悲劇の主体にもなれず、かといって単に叩き潰される べき人間の敵・怪物でもない、不器用で役立たずな、不気味で あるけれどもときに哀れみを誘う、そうした毒虫にならなけれ ばならなかった。 悲劇の形をとらせない、悲劇。巨大な毒虫の甲羅の下に注意深 く覆い隠された、痛切なアイロニー。「変身」には、新聞やド ラマの格好の種になるような、分かりやすい、極端な感情的対 立もなければ、誇張された悲劇の単純な残酷さや酷薄さもない 。あるのは極めて純朴な愛情と、それを弄ぶかのような、不可 解な割り切れない現実だけ。ここに「変身」を読むときの不思 議な読後感と、どことないやるせなさがあるのだろう。
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「走れメロス」は人間賛歌である。友愛と誠実の素晴らしさ、 という形で、国語の教科書にも載せられている。しかし、この 小説は、太宰治の小説である。彼は決して友愛と真実に生きた 人ではなかった。それを求めながらも、或いは求めるそぶりを しながらも、永久にそれに近づくことの出来ない一人の道化と して、彼は生き、そして死んだ。「走れメロス」には、そうし た太宰の作り出す、いくつかの謎と、そこからぼんやりと浮か び上がる彼独特の感性がある。 「メロスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐の王を除かねばなら ぬと決意した。」そしてメロスは王を殺すために王城に行く。 メロスは捕縛され、王に尋問される。王を殺そうとしたことは それだけで既に死罪に値するような罪である。当然のごとく、 メロスは殺されるだろう。しかし、メロスには婚礼を控えた妹 がいる。メロスは死ぬにしてもそれを見てから死にたい。メロ スは友人セリヌンティウスを人質として、3日間の猶予をもら う。 ここには二つの予定された死刑がある。メロスは必ず殺される 。メロスが猶予期間内に戻ってこなければ、セリヌンティウス が殺される。王がしたかったのは、一体なんなのであろうか。 可能性の一つには、王を殺そうとしたメロスの処罰がある。可 能性のもう一つは、「人は、これだから信じられぬ」(即ち偽 善)ということを、メロスが戻ってこないことによって確証す ることである。王の望んだことは、一体どちらなのだろうか。 前者について王は、「口では、どんな清らかな事でも言える・ ・・おまえだって、いまに、磔になってから、泣いてわびたっ て聞かぬぞ」といっている。これは、磔の目的が、メロスの処 罰と偽善の確証の双方にあることを示している。ところが、メ ロスに猶予を与えた後で、王は言う。「ちょっと遅れてくるが いい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」王はメロス の処罰を放棄した。結局、王が最も望んだことは、メロスと世 の人々の偽善を確証することであった(「世の中の、正直者と かいうやつばらにうんと見せつけてやりたいものさ」)。メロ スやセリヌンティウスの処罰はそのための手段に過ぎない。 王は疑いの人である。人を殺してでも、その偽善を確証するこ とを欲している。どれだけ清らかなことをいう人物も、磔にさ れさえすればその偽善を露わにする。王はそう信じている。と ころが結局、王はメロスもセリヌンティウスも磔にしなかった 。王は偽善を確証するための手段を発動しなかった。ここに一 つの謎がある。王はメロスとセリヌンティウスの友愛と誠実に 負けたのだろうか。しかし、いくらそれに負かされそうになっ たとて、磔という最後の手段を使いさえすれば、その偽善を暴 露することが出来たはずだ。なぜ王は磔まで進まなかったのか 。自分の信念を枉げて、簡単にメロスとセリヌンティウスの前 に膝を屈してしまったのか。 メロスはセリヌンティウスに言う。「私を殴れ・・・私は、途 中で一度、悪い夢を見た。君がもし私を殴ってくれなかったら 、私は君と抱擁する資格さえないのだ。」セリヌンティウスは 言う。「メロス、私を殴れ。・・・私は・・・生まれて、初め て君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁で きない。」友愛と真実が勝利するためには、メロスが一度もセ リヌンティウスを裏切らず、セリヌンティウスが一度もメロス を疑わないことが必要である。彼らは互いに心の中で裏切った 。彼らは負けた。王の猜疑は真実だった。メロスは口先だけの 偽善を吐いたのだし、セリヌンティウスも友人を疑ったのであ る。彼らは殴りあった。しかし、殴りあうことで、その偽善が 帳消しにされるとでも言うのだろうか。 王は一体何故磔を止めたのか。それは、友愛と真実の勝利のた めではありえない。メロスとセリヌンティウスは裏切りあい、 例え殴りあったとしてもその事実は消えることがない。また、 メロスが間に合ったからとて、彼を磔にして命乞いさせ、偽善 を暴露するという可能性はあくまで残されている。友愛と真実 は敗れ去ったし、それどころか更なる敗北を被る恐れさえある 。王が磔を止めたのは、他の理由によるものだった。王はあら ゆる権力を握っているのだから、王を止めることができるのは 、王自身の望みに他ならない。王は既に十分に目的を達したの だ−−メロスやセリヌンティウスの磔という手段を用いずとも 、王は人々の偽善を確証するという目的を十分に達成すること ができたのである。 メロスとセリヌンティウスは、公衆の面前で互いの偽善を認め 合った。その上彼らは、音高くその頬を殴りあった。古代のギ リシア・ローマ世界では、殴ることは物事を深く記憶にとどめ るために行ったことだという。彼らは殴りあうことによって、 互いの偽善を深く記憶に刻み付けた。メロスもセリヌンティウ スも偽善者だった。それは公衆の面前で認め合われ、深く記憶 される事柄となった。王の希望は達せられた。王は人々の偽善 を確信し、それを世にあまねく認めさせることが出来たのであ る。 それにもかかわらず、この小説における敗者は王である。王は 敗れた。王はメロスとセリヌンティウスの下に下った。「お前 らの望みはかなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。 」王は一体何に敗れたのだろうか。メロスとセリヌンティウス の望みとは、一体なんだったのだろうか。メロスの望みは、妹 の婚礼を見てから処刑されることだった。王は何か勘違いを犯 しているのではなかろうか。 そうではない。メロスは我知らず、もう一つの望みを持ってい たのだった。一人の少女に緋のマントを捧げられ、セリヌンテ ィウスに教えられて、メロスははじめて気づく。「メロス、君 は、まっぱだかじゃないか。」メロスは公衆の面前で裸体を晒 した。メロスは人々の間で普段隠されている、偽善や疑いを正 面から認めてそのままに皆に晒した。王が望んでいたのは、あ くまで口では清らかなことを言い張る人々に、その心の中の偽 善を外に出したがらない人々に、様々な手段によって口を割ら せて、正面からその偽善を認めさせることだった。メロスは王 に強要されずとも、自ら進んでその偽善を認めた。王に磔にさ れるまでもなく、自ら進んで裸体になった。メロスの隠された 望みは、人々皆に裸体になることを教えることだった。 メロスの裸体は、王を破った。王はメロスの下に下り、その仲 間になった。王は潔癖さを求めて全てを疑うことよりも、偽善 であるという人間の自然な状態を認めたのである。偽善を偽善 として蔑み、世の中から消し去ろうとすることよりも、そうあ らざるを得ない互いの状態をまっすぐに認め、また認めあうこ とによって、人々は通じ合うことができる。王が望みを遂げた にも関わらず、メロスもまた一つの勝利を収めたのは、こうし たことを物語っているように思われる。 しかしこの小説はこれだけで終わっている訳ではない。太宰の 感性は、現実を軽蔑することとも、単に現状追認ばかりになる こととも、そのいずれとも違っていた。太宰は小説の最後に書 き付ける。「勇者は、ひどく赤面した。」と。現実を受け入れ ながら、そのありかたに抑えきれない羞恥心を抱く、そうした あり方に、太宰はひとつの英雄的な生き方を見たのではなかろ うか。太宰は一人の道化だった。しかしその影に、こうした抑 えきれぬ羞恥の心が、人知れず英雄的な努力を続けていたこと を忘れてはならないだろう。
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