<新緑の笠置山>   1970/05/05   

 
 *** 山は祝日でも静かだった ***
 
 蛭川村行きのバスは混んでいた。祭日なので覚悟はしていたものの、ズック靴に色とりどりの帽
子と水筒をぶら下げて、はしゃいでる一群の小学生たちも登るつもりなのかなと思うと少しがっか
りしたが、子供の賑やかなのは悪くないとも思ったりする。
 ところが彼らの目的地は恵那峡だった。登山口の棚田に降りたのは先輩のtさんと私だけだった。
今日は珍しく同伴者の付き添いがあるので心強い。
 しかし子供たちが居ないと薄暗い空に心細くなりだす。人間は身勝手なものだ。山頂は霧がかか
り見えない。山麓一帯に拓かれた別荘地に、また自分の塒を追われるような寂しさを覚えながらも、
新緑のみずみずしさに心を奪われる。里はどんどん変わってゆくが山の眺めは昔のままだ。ここか
ら見ると笠置山よりもすぐ東の980mピークのほうが高く見える。
 自動車道のどん詰まり、見覚えのある急斜面を登りやっと山道らしい小径に出るとほっと一息つ
く。森林帯の向こうに蛭川村の家並みと田畑が点在し、更にその向こうには蛭川村から岩山への尾
根が摺鉢状に村をとり巻いている。そして尾根の中央左寄り越に一段と高く、曇り勝ちのぼんやり
した光の中でもはっきり山陰の濃度差を示し遠距離に位置していることを教えている山、これはき
っと二ッ森であろう。

 *** 背広にネクタイで ***

 スケッチを終えると、ここからは楽しい山道の散策だ。先頭をとことこ歩くtさんは流石しっか
りした足取りでまた速い。
 標高800mあたりの祠のあるところは森林が伐採された味気ない禿山になっており、祠だけが
尾根の頂上にぽつんと不似合いな姿で取り残されていた。消えかかった道の中で、嘗て利用した水
場を探すのにちょっと手間取った。愛用の固形燃料で紅茶を沸かし、tさんと赤飯おにぎりを賞味
する。
 一時間あまりも休んだろうか。いつものせかせかした山行に比べきょうは背広にネクタイのまこ
とに優雅な、これでも山行である。どこにでも見られる平凡なハイキング姿 のtさんの前で、私
は得意げでさえある。ものの本で、ネクタイこそ締めてないが、ちょっと大きめの背広を着た先哲
の古い登山姿の写真を見たことがあり、私は限りない情緒を感じていた。ただ派手なばかりの昨今
の登山服に比べ古びた背広の何とも言えぬ落ち着き。一度は真似ををしてみたかった。
 *** 山頂の展望はなかった ***

 森林帯を抜けると峠の見える明るい山腹のトラバースだ。ところどころに巨岩が風景にアクセン
トをつける。980mピークとの間にある910mの峠は両側の尾根がよく見通せるひら地で尾根
の両側は森林に被われている。最後の200mを登る。姫栗からの登山道が合流しているので、い
くつかの指導標が立ててある。なかでも石に刻まれた古い道しるべが私の興味を引いた。信仰登山
の歴史を感じさせてくれる。
 荷物の軽くなったtさんは少しもペースを落とすことなく山頂に駆け上った。私の遅いのを気に
もせず。私はいつもの癖でまず三角点の等級を確認する。二等だった。展望の良さからすれば当然
のことか。
 生憎、霧のため恵那峡や木曽の山々はその姿を見せてくれなかった。山頂の社としてはなかなか
立派な笠置神社の賽銭箱に五円玉を投げて手を合わす。tさんは十円玉を投げた。やられたか。神
社の裏側を散策する。あちこちにに点在する巨岩の間に落ち葉が積もり新芽をつけた樹々とよく調
和する。特にこぶしの真白い花は美しい。

 *** 懐かしい社務所 ***

 社と同じく、これまた立派な社務所で一休み。この無人の社務所は嘗て二度も泊ったことがある。
一度目はある年大晦日を静かに酒とともにと思って来たが、惨々道に迷い単独行の難しさを味わっ
たとき。着いてみると元旦をここで迎えようと地元らしい参拝者で混みあっていた。二度目は静か
な山中で勉強するため本を持ち込んだが、これと言った成果もなく下山する結果になってしまった。
 さて下山しよう。感心にもtさんが用意してきたゴミ袋を持って姫栗へ下る。樹によって濃淡の
違う緑が美しい模様をつくっている。
 石切り場に出てやっと人気を感じる。再び巾広い道だ。森林帯を抜けるとぱっと広がる姫栗は立
体的な風景だ。またスケッチブックを取り出す。今度はtさんも右にならった。
 山肌を縫うじぐざぐ道と家並みは、人気のない山道を歩いたあとの私には懐かしく暖かいものを
感じさせる。村の中を交錯する小道を気ままに歩いて木曽川沿いのバス停に出た。心配していた雨
にも降られず久しぶりの笠置山に静かな山行を楽しんだことに満足しきってバスの人となった。                 

					         1970/05/09  記す
  						      2012/03/18 補筆

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