*** 回想の峠に立つ ***
大河原峠、遠く淡い思い出。風景は平凡だが十年ぶりに訪れた私は、名古屋を立つとき予想もし
なかった郷愁にとりつかれてしまった。長い時間をおいて再び訪れた懐かしさばかりでは無さそう
だ。十年前にこの峠に立った時の私と今度同じ場所に見出した私に、ある決定的な断層を感じる。
日頃は努めて先を見ながら歩いている私だが、ふとしたきっかけで忍び寄る過去への郷愁。私は夕
闇迫る峠に辿りつくと小屋のおかみさんが出してくれたお茶を放っておいて、先ずあの時霧雨の中、
奥深く吸い込まれたら、もう帰って来られそうにない怖ささえを感じた鹿曲川の谷を確かめたのだ
った。
*** 無知は恐ろしい ***
学生時代のこと。わたしは学校から日立へ見学に行く途中、一人中央線経由で早めに出発し、山
について全く知識を持ち合わせていなかった当時、学生服のままで蓼科山に登る計画をごく普通の
旅と考えていた。私の持ち物は洗面具、カメラ、少量の菓子類などの入ったカバンとレインコート
だけだった。
曇り空は途中から梅雨時独特の霧雨になった。不慣れな私はうっかり将軍平への近道を見逃し、
大河原峠に出てしまった。私はパンをかじり、おかず代わりに食塩を口の中に入れたが、勢い余っ
て入り過ぎてしまい、水を持っていなかった私は随分苦しんだ記憶がある。もたついたため日帰り
出来ず山頂の小屋に一泊することになった。客は東京から来たアベック一組だけだった。私は翌日、
白樺湖経由で茅野に戻り、途中中央線国立駅で当時国立音大にいた先輩にちょっと会う機会があった
が双方時間に追われていたので私はすぐ日立に向かったのだった。
*** 残暑の無い山小屋に入る ***
さて現実に戻って。今日、昼ごろ中央線の車窓から木曽駒あたりをはっきり見た。そればかりで
はない。午後四時ころだと言うのに親湯へ向かうバスからは、八ヶ岳連峰がはっきりと眺められた。
残暑きびしい夏の空で一日中こんなに天気のよいのは珍しいことだ。瀧源橋でバスを降り緩いじぐ
ざくの登りにかかる。もう大して暑さを感じない。奥まで延びたアスファルトの道路や旅館群から
やっと逃れ自然の懐に入るとほっとした安堵感に浸る。十年まえの面影を見つけようと、目を皿の
ようにして歩くも、最初のうちは見覚えが無い景色ばかりで当惑したが、コメ栂帯に入りやっと当
時を思い出ししみじみとした気持ちになる。
じぐざくを終わり谷沿いに登る途中一箇所水の流れを見つけ、ここで駅弁をひろげる。
また歩き出すと広い草原に出た。背の低い栂が点在し紫色のウサギ菊に似た花が美しい。緩い散
策道だ。夕暮れ近い涼しい道の尽きるところ、そこが大河原峠だった。私好みのぼろぼろの小屋に
入る。出されたお茶と菓子、うまかった。東京から来たという大学生と雑談にふけり、9時過ぎに
寝る。布団の中の暖かい一夜。
*** 静寂そして静寂 ***
強風で目が覚める。寒そうだ。食事を済ませ、まだ客が寝静まっている小屋をあとにする。ここ
まではもうバスが通っている。随分変わったものだ。
緩い草原の双子山。双子池への下りは熊笹の中。池は静かで美しかった。ごみもなく水は澄んで
いた。小屋も雰囲気に合った造りだ。煙突から立ち上がる煙が人の存在を感じさせる以外、しーん
として動きがない。
大岳に登る。自然にできたとはとても思えない。造物主は隣に這松が生えることを計算して岩を
そこへ置かれたのではと思わせる、すばらしい岩と這松、姫小松、ガンコウラン、コケモモ、シャ
クナゲの均整のとれた姿。雲の平以上だ。霧の中ながら私はこの広大な自然の庭園を十分楽しむこ
とができた。横岳、三ッ岳のあたりまでこの風景が続いた。
雨池山に入ると、もうどこにも見られる熊笹、イバラ、栂だ。縞枯山、茶臼中山の山頂近くに僅
かの這松を見るのみ。大岳の登りからぽつりぽつりと降りだした雨は横岳あたりから本降りとなり
三ッ岳、茶臼の間でちょっと弱くなったが、麦草峠を過ぎる頃からまた強くなってきた。
ハイヤーで見物に来ていた観光客を尻目に私は丸山へと急ぐ。せっかく来たので高見石の上に立
ってみるも、視界無し。森林帯の中山峠はもし道標が無かったら峠かどうか分からなかっただろう。
黒百合ヒュッテには三人のパーティ一組しか居なかった。主人は暇つぶしに背負子をつくっていた。
旅館並みの個室で静かな一夜を過ごす。
*** 這松と岩稜も楽しんで ***
朝、また霧。とにかく食事の支度。同宿の客もあとからぽつぽつ起きてくる。逆方向に縦走する
彼らと別れて外に出ると霧の向こうにかすかな空の青色を確認できたので、しょげている彼らに知
らせてやろうとまた玄関の戸を開ける。彼らは喜んで外に出てきた。西風強し。ここからはまた這
松と岩稜の中だ。この辺に来るとさすがに登山者も多いようで踏跡もあちこちについており、霧の
中では正しいルートを確かめるのに神経を使う。晴れそうでなかなか消えない霧。東天狗から西天
狗への下りも分岐点の道標のみが頼りだった。
西天狗への稜線は風も弱く、道も緩やかでほっとする一瞬だ。二等三角点の西天狗でちょっと休
む。根石岳を過ぎ箕冠山につくとまた高木帯となる。樹の間より晴れあがっている東側の谷を見る。
美しい緑だ。夏沢峠はひなびた二つの山小屋の間に道がついていた。
硫黄岳への登りになると登山者をぽつぽつ見かけるようになる。道幅も広い。硫黄岳山頂。今度
は三角点を確認。山頂から5分東に下ったところにあった。
峰の松目への道。傾斜の緩いところは草が生い茂り踏跡の不明瞭なところもあったが、無事登頂。
栂に囲まれた小広い敷石を置いたような円形の平地。滝波山の山頂を思い出す。シャクナゲも生え
ており、今日の最大の収穫だ。
美濃戸からバスに乗る頃は雲も山頂近くを残して殆ど消えていた。車窓から、きょう歩いてきた
稜線を何度も確かめる。バスの登山客は私と三人パーティ一組。9月になると随分静かになるものだ。
やっと主稜線を歩き終えた八ヶ岳連峰。満ち足りた下山だった。
1969/09/07 記す
2012/03/12 補筆
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