耳成山



名勝「耳成山」の山腹
 近鉄大阪線八木駅から伊勢・名古屋方面への普通電車に乗るとひとつ目が「耳成」駅である。「耳成山」は二つの駅の中間地点にある。山の南側の池は美しく整備され、休日には釣り人や家族づれで賑わう身近な憩いの場でもある。
 「耳成山」は畝傍山、天の香具山とともに大和三山のひとつとして知られ、万葉集にも登場する名高い山であるが、戦時中その山腹に十数本のトンネルが掘削されたことが「奈良・発掘する会」の調査によって判明した。
 「名勝」であろうと古墳の石室であろうが、当時の軍部は利用できるところはどこでも利用したということであろう。

証言
 奈良県橿原市の畝傍夜間中学に学ぶ在日朝鮮人一世から、大阪府八尾市の大正飛行場拡張工事について聞き取りをしていた時、「耳成山にもトンネルがあるんですよ」と思いがけない話が飛びだしたのである。
 証言を要約すると、
@1945年春工事に入り3〜4ヶ月間工事した。(開始時期は5月か6月)
A飯場は池のところに3〜4軒あった。
B人夫はすべて朝鮮人。手堀りだった。
C海軍の施設だと思う。(トンネルのそばの畝傍高校に海軍がいた)
D地下倉庫ではないか。
E物を入れる前に戦争が終わり、人夫たちは本国に帰ったと思う。
 以上のことから、耳成山のトンネルは位置的に近い畝傍高校を接収した海軍関係の地下倉庫か、経理学校生との避難用防空壕で、工事には朝鮮人が充てられた。また、朝鮮人のための飯場が設けられていたことや、解放後全員帰国したことから、日本に生活の根拠を持たない「強制連行された」朝鮮人ではないかとの推測ができる。

「耳成山防空壕」の記述がある文献
 数回の予備調査を経た後の1996年4月16日、証言者を伴い現地調査を行った結果、13本のトンネルあとを確認した。また、証言を裏付ける文献が、「奈良・発掘する会」によって、発見された。
「畝高70年史」には
「校舎を海軍経理学校に貸与、昭和二十年二月五日頃から県より畝中校舎を海軍に用立てる案の話があり、種々交渉話し合いの結果職員会議にもはかり三月十一日より三月十五日にかけて引っ越しを行ったのである。」と記されている。

また『橿原・昭和二十年 ?海軍経理學校豫科生徒の記録?』の中の「山田日誌」には、 
「五月三十一日(木)…耳成山ノ防空壕ニ関シテ帝室林野局ノ承認ヲ得
タ旨連絡スル。設計図ノ寫ヲ送付スルココトス。」 「八月十日(金)耳成山防空壕ハ土質堅キ為急速ニハ間ニ合ハザル由…」

 「小笠原手記」には、
 「八月六日(月)皇土決戦時ニ於ケル生徒野処置二関スル具体策
   (四)空襲激化ニ対スル對策
    (3)耳成山防空壕ニ関スル現状
      耳成山防空壕促進ニ関シテハ施設部ノ尻ヲ叩キ凡ユル協力ニ努メラレ度。

と記されている。

 2種の資料には朝鮮人労働者についての記述はないが「施設部」(海軍施設部)が工事を担当していたことや証言から、工事にあたったのは朝鮮人であったといってもよいのではないか。