われ記す ゆえにわれあり
「めしをくう」という言葉は、次の通り大まかに三つの意味で使用されている。
1. 直接的に食事等をすることを意味する場合
「おい、そろそろめしでもくいにいかないか」
「そうですね、めしでもくいましょうか」
このように、オフィス街の正午あたりに飛び交う会話であるが、男性サラリーマンの、特に上司あたりから部下へ声をかけることが多いこの種の「めしをくう」という表現は、「食事をする」という直接的な意味で使われている。
2. 生活をする、生きていく等を意味する場合
「俺はこの会社でめしをくってきた」
「嫌なことがあっても、めしをくっていくためにはしかたがないさ」
このように、オフィス街の午後6:00以降に、男性サラリーマン、特に上司あたりから部下への説教の際に、または自慢話のときに使われることが多いこの種の「めしをくう」という表現は、「おれは生きてきたんだ」「生きていくためには長いものにまかれることも必要だ」という意味で使われることも、しばしばある。
この意味で使われる場合のシチュエーションとしては、六本木や青山よりも、新橋や神田のほうが、意味が格段に伝わりやすくなるような気がする。
3.生活の面倒をみてやっている等を意味する場合
「なんだおまえ、めしをくわしてやってるんだから言うことを聞け」
「こいつらにめしをくわしてやらなければなあ」
このように、前記「2」の変形でもあるが、オフィス街を離れて帰宅した際の午後10:00ころの男性サラリーマン家庭の、特に亭主から妻へ、または父親から娘・息子への説教の際に使われることが多いこの種の「めしをくわせる」という表現は、「おまえらの面倒はおれがみてるんだからな、言いなりになれよな」「おれはケータイだのパソコンだのよくわからないがこれだけははっきりさせておきたいぞ、育ててやったんだからな、ありがたいと思えよ」という意味で使われることも、たまにある。
自信を失いかけた企業戦士(であった)男性サラリーマンが、自己の存在を訴えたいときに、またはそれを確認したいときに使われるようだ。
私の脳内辞書では、「めし」とは「白いごはん」のことを指しており、「くう(食う・喰う)」とは「犬や猫などの飼育動物が餌を食べること、または野生動物が獲物を捕らえて食べること」を意味しているため、「めしをくう」とは「動物が餌を食べる」ことを指している。
従って、「めしをくいに行こう」と聞いて、おすし屋さんとか高級料理店などに行く場合には、私の脳内では「犬がすし屋のカウンターに座って握りをむしゃむしゃとくっている姿」または「ハイエナが高級料理店に入って料理を片っ端から食っ散らかす姿」がイメージされている。
また、「めしをくわしてやっている」と聞くと、その言葉を使った人間の目の前で、動物用の餌のお皿にみんなが群がって餌を食べているような姿」がイメージされている。
「めしをくう」と日常使用している人々は、このようにイメージされた世界がまったくないままに使用していると思われる。
「めしをくう」だの「めしをくってきた」だの「めしくわせる」等、これらの表現は「めし」という意味と「くう」という意味に当て込まれた本来の意味、つまり「食事」及び「食す行為」についての人間としての神聖さを欠いた下劣でかつ下品でかつ横暴で無神経な用語の使用であり、本来の意味を伝えようとした場合の用法としては絶対的に誤りであることとして結論したい。
2002.3.17
「ねえ、お茶しにいかない」
「そうだね、お茶しにいこうか」
よく使われる言葉だ。
スターバックスや喫茶店などでコーヒーを飲みにいく時に、こうやって声をかけ合う。
お茶する、などの言葉を使う場合の「○○する」という部分に相当する単語としては、例えば「体操する」「ドライブする」「野球する」など、動きを伴う言葉を当てはめなければなるまい。
「お茶」とは静的な、単なる飲み物かまたはその原料を指している。
「お茶を飲む」「お茶を入れる」「お茶を立てる」「お茶を摘む」などのように、お茶そのものを媒体または素材にして、その動的用語(動詞)との組み合わせによって初めて成立するものである。
体操とは身体を一定の規則通りに動かすことであり、ドライブとは車を運転することであり、野球とは一定のルールの下でバットとボールを使うスポーツのことを指している。
「身体する」「車する」「バットする」とは言わない。
「お茶する」といわれて、お茶摘みに誘われたと思う人は一人もいないと思うが、この用法は文法学的に誤りである。
私の信頼する翻訳ソフトに「お茶する」と入れてみた。
すると「Tea is carried out.」と訳された。
直訳すると「茶が実行されます」ということになる。
同時通訳者くらいになると、日本で使用されている「俗語」を勉強していると思われるため、このような訳はしないと思う。
ちなみに「私はお茶する」の場合は「I do tea.」、私は茶を行います(する)という訳となった。
「お茶する」といってスターバックスや喫茶店などでコーヒーを飲む。
しかし、コーヒーは「豆」だ。茶葉からの飲み物ではない。
通常「お茶」といえば緑茶のことである。
伊藤園からのヒット商品「おーい、お茶」の中身は「緑茶」であって、ウーロン茶でもなければ紅茶でもない。
たまに中身が紅茶だったりしたら消費者が混乱するであろう。
ここで断っておきたいが、緑茶・紅茶・ウーロン茶の原材料は、同じ「茶葉」であることは重々承知のことであるが、やはり日本で「お茶」といえば「緑茶」をイメージするものではないかと思う。
従って、お茶するの「お茶」は原料の「葉」及び加工飲料である「緑茶」を指しているものであるから、もしあなたがコーヒーを飲みに行く目的のみであれば、正確には「お豆する?」と言わなければならない。
また、声をかける時にまだコーヒーか紅茶かミルクかを決めかねている場合には、「お豆かまたはお茶かあるいは牛する?」と言わなければなるまい。
これらが恥ずかしいと思う場合には、単に「スターバックスに行く?」「ドトール行く?」などのお店名を言えばいいのではないか。
このように「お茶する」という言葉は、用法の誤りと対象物の誤認識という両面からしても、使用してはならない用語であると結論する。
私はコーヒーを飲みに行く時は必ず「喫茶店に行く」という。
しかし決して「茶」を飲んではいないことに、今、気がついた。
2002.3.3
ちょうど三回目の洗濯が終わろうとしているとき、次回の洗濯のための洗剤が無いことに気がついた。
その瞬間「ピンポーン」、はい「えーっと、朝日新聞とってくれませんかねぇ。ほら、こんなにサービスしちゃいますから」
洗剤を5個も積み上げた。
2年以上も会っていない高校時代の友人の夢を見た翌日、その友人からメールが届いた。
東京に遊びに来る予定がキャンセルになったとのことだ。
まだ幼稚園のころ、ある人形を見せられて「これはだーれだ」と尋ねられた。
まったく分からない。しかし、子供のくせに「ここで分からないといったら当たる確率はゼロだ。よし、知っているひらがなを組み合わせて言ってみよう、当たるかもしれないじゃないか・・」
「いっきゅ」
「なーんだ知ってたのか、一休さんのこと」
このように、偶然というものはよくあるものだ。
人と人との出会いも偶然というものがかなり左右しているのではないか。
例えば、生まれてから毎日一人の人と出会うとする。
一年365日だから、10年で3,650人、100年で36,500人だ。
この計算で、次のようなことが分かる。
日本の人口を1億人として計算し、100年で36,500人に出会うとすると、日本の総人口に対する「自己の出会い人数の割合」は、0.0365%となる。
実に少ないではないか。
そしてその「総出会い数」から、お互いに知っているという「知り合い人数」にまで絞られていくのである。
「知り合い人数」はどれだけいるか。
そして、その人との出会いを思い起こしてみるがいい。やはり「偶然」であることに気付くはずだ。
そう、全て「出会い」は偶然の上に成り立っているのだ。
そしてこの「偶然」の「出会い」の結果、意識・無意識の「取捨選択」を繰り返し、また半強制的な他力による選別も余儀なくされ、現在の自己を取り巻く人間関係が成立しているのだ。
お葬式の時、葬儀に参列する人数の「定数」というのがあるらしい。
お通夜、告別式に参列する予定人数ということであるらしいが、個人差はあるものの、およそ300人だそうだ。
急な時の印刷物やお清めなどの準備の目安に使われるとのことだ。
前の例で計算すると、偶然に出会う総人数36,500人から葬式に来てくれる(くらいに知り合いになる)300人を引くと、36,200人が「偶然出会っただけの人数」である。
実にもったいないではないか。
もしかしたら、その36,200人の人々とは、一度くらいしか出会わず、また死ぬまで二度と会うことがない人たちなのかもしれない。
そして、さらに驚いたことは「偶然にも一度も出会うことがない人」が99.96%もいるということだ。
一期一会 2002.3.2