「お互いを報告しなければならない恋愛」が呪わしくなってきたのは、『肉体の悪魔』の「僕」。僕自身は、詩や悲劇を好んで読む女は大っきらいだ。いや、きらいじゃないけれども「カノジョ」には絶対したくない。≪第七巻≫

『マダム・エドワルダ』
   それにしても、文章を書くことは、なんて難しい作業なんだろう。句読点のつけ方にさえ気を配る。いや、それぐらいは当たり前のことなのかもしれない。「てにをは」や、ここは漢字で書くよりひらがなの方が読みやすいかな、なんてことも気になる。そういうふうな、一つ一つの文字の表記もそうだけど、長い文章であれ短い文章であれ、とにかく読み手を飽きさせないという工夫が必要である。それは文章の構成の問題である。
   中島らもは、エッセイを書くときには二つのおもしろいネタを用意して、そのうち一つをエッセイの一番最初に持ってくるのだと、自分の方法を書いている。それは漫才でいう「つかみ」の方法を模倣しているらしい。うん、それはマトを得てるな。また、できるだけひらがなを多く用いるように心がけているらしい。
   でも、初めはおもしろくても、途中から息切れしてきて、だんだんとつまらないものになっていくという不安もある。そういうのはどうやって克服すればいいんだろうと思う。五行に一度のペースでおもしろいことを盛り込めばいいのかもしれないけど、それは大変な作業で、それに、いつまでも同じ質・量の「面白み」だと、それもまた飽きられる可能性が十分にある。だから、文はいつも進化し続けなければならない。読み手の期待を、いい意味で「裏切る」ような文章を書いていかなければならない。やっぱりそれは大変な作業だ。

   『マダム・エドワルダ』は、やけっぱちになっている男が、夜に通りで裸になって、自慰をする場面から始まる。そのまま男は娼婦の館に行き、マダム・エドワルダに出会う。彼女は自分の陰部のことを「ぼろきれ」などと言い、男はそれを見せつけられて「蛸のようだ」と思う。嘘をつかない単純な生物であるエドワルダは、男には「かみさま」に見えた。エドワルダは裸体の上に外套を身につけただけで、二人は外へ出て行く。突然駆け出したり、隠れたり、逃げたり、殴りかかってきたりするエドワルダ。「おれ」は「糞くらえ」などといいつつも、そのまま道の上でエドワルダと重なり合う。
   しばらく道端に裸で寝転がっていたが、タクシーを拾って、エドワルダは車内で裸になり、運転手と交わる。「おれ」は車内橙をつけて、エドワルダを観察する。不快な眠りから目覚めた「おれ」に残ったものは、「待ち遠しい死への期待」・・・。

   たぶん、『マダム・エドワルダ』について、あらすじが云々などと言うことは無意味である。ここにあるものはエロティシズムである、と言ってしまえばミもフタもないけど、あらすじとか、この話自体はどうでもいいものなんである。滝のように轟音を立てて飛沫を上げて読者に訴えかけてくる、この作品のテーマ以外は、無意味な代物だ。
   そして、その文体。「フォルム」である。前にも書いたが、僕は評論家ではないので好きか嫌いかぐらいしか言えないけど、こういう文章は好きである。(ちなみに原文で読めるはずもなく、僕が読んだのは、生田耕作氏の訳によるものである。)
   「ある街角で、苦悩が、不潔な酔い痴れるような苦悩が、おれの顔をゆがませた」
   この文章から、本編がはじまるのである。これを読んだとき、読み手は「何が起こるんだろう」とドキドキしながらページをめくっていくことができる。また、この作品で何度か出てくる言葉、「痙攣」なんかも、とても気に入る言葉となった。
   
   「シュール・レアリズム」という言葉が、なんとなくかっこよく感じられて、わけもわからないまま憧れを感じていた。僕が思うに、シュール・レアリズムとはつまり、「無意味性」なんである。「なんで?」とわけもわからないもの、それがシュール・レアリズムなんである。雨が降ってきたから、傘じゃなく、「毛がに」を差そう、というのがシュールなんである・・・たぶん。
   その思想の根本にあるものは、「がんばったって、いつかはそれも壊れるし、どうせ僕らは死ぬんだし、がんばったって、意味ないじゃん」という現実逃避であろう。テレビのスイッチを入れれば画面が写るという現実、冷蔵庫の一番下には野菜を置くという現実、筆箱には鉛筆が入っているという現実、そういうものから脱却したいと願うこと、それがすなわち「シュール・レアリズム」なんだと思う。テレビの画面から、バリバリブラウン管をつぶしながら象が鳴きながら出てきたり、筆箱の中には鼻毛がいっぱい詰まってて、その先っちょにインクをつけてモノ書いてもいいんである。
   それは現実逃避であるけど、けっして「投げやり」になってるんじゃない。彼らはナイーブで繊細でありすぎるがゆえに、または人に言えないような過去の経験を持つがゆえに、うまく現実世界とコミュニケーションすることができないのだ。臆病になっているのだ。現実と目を合わして会話することができないんである。
   彼ら「シュール・レアリスト」は、ちょっぴりお茶目なやつらなんである。   2002年01月31日 16時55分23秒

『田園交響楽』
   「いろいろな本を読んでから、この本を読め」と言われた。だれに?おじさんに。つまり、母親の弟の「教授」に。おじさんはほんとに教授なんである。某大学の文学部の。
   んで、言われるがままに、いろいろな本を読んでから、読んだ。でも、わからなかった。なんで「いろいろな本を読んでから」じゃないと、この本を読んじゃあいけなかったのか。なんでそんなことを言ったのか。
   もしかすると、僕がまだまだいろいろな本を読み足りないのかもしれない。うん、それは当ってると思う。僕はもっともっと読書しなきゃならない。そうでないと、『午後の曳航』は云々などといえない。いや、好きか嫌いか面白いか面白くないかぐらい言ってもいいな。でも、僕は学者なんて嫌いだから、頭でっかちになりたくないからな。「永遠の野次馬」でいたい。
   とりあえず、『田園交響楽』はおもしろかった。でも、教授(僕は小さいころから、「教授」とおじさんのことを呼んでいる。決して坂本龍一のことではない)がなんでそんなことを言ったのかはわからなかった。今もわからない。何を意図していたんだろう。

   ちゃんと育てられなかった少女の話。身寄りのない、目の見えないのその女の子を、牧師が拾って家で育てていく話。牧師には妻もいれば子供もいる。最初は家中が煙たがるが、そのうちみんなが心を開いてみんなで育てていく。少女は成長して一人の女になっていき、やがて、牧師は知らずうちに彼女―ジェルトリート―に恋していることに気付く。ジェルトリートも牧師に、自分の恋心を伝える。
   ジェルトリートは、手術で目の治療を受けて、成功する。ジェルトリートは目を開ける・・・。ジェルトリートが思い描いていた、今まで自分を育ててくれた牧師の顔は、実はその息子のジャックの顔だった。想像していた牧師の顔は、ジャックが持っていたのだ!
   ジェルトリートは絶望して、川に身を投げる・・・。

   ジッドはキリスト教を主題にしてこれを書いた。主題というか、モチーフというか背景というか。
   ぼくがこの本を読んだのは何年か前のことで、今これを書いているのも単行本をペラペラめくりながら書いている。登場人物の名前など、全然覚えていなかったから。
   でも、今こうやってもう一度眺めていると、もう一度読もうかな、という気になってきた。もしかしたら、昔わからなかったことが、今になってやっと見えてくるかもしれないからだ。
   そういうことはたびたび起こる。その逆もよく起こる。「子供のころみた時はあんなにおもしろかったのに、今見ると、なんてくだらないんだろう」と思うことが。いつの間にやらドラえもんを見なくなった。NHK教育テレビも見なくなった。昔はあんなにテレビにかぶりついてみていたのに。「ノンタン」の絵本もたくさん持っていた。

   僕がおもしろいと思うのは、(おもしろいというか、興味をそそられる、ということ)今回の新潟の拉致監禁事件のことだ。不謹慎だと怒られることを覚悟して書いている。
   なにがって、閉じ込められていた少女に、犯人に対して恋心は芽生えなかったか、ということである。少女は、9歳のときに連れ去られて約十年の間、犯人の部屋から解放されなかった。いや、一度だけ出た。この監禁生活の間に一度だけ、シャワーを浴びている。それだけだ。それ以外は、部屋のベッドから降りることさえ許されなかったという。
   この女性は犯人に対してただただ恐怖と嫌悪しか感じていないという。うん、それはわかる。怖かっただろうな、嫌だっただろうな、そう思う。ぼんやりと同情はできる。
   でも、ただの好奇心として、そう思うのだ。この多感な時期に、狭い部屋がその女性にとって「全世界」であったわけで、その狭い空間の中で自分の近くにいる犯人の男性に対して、何かしら特別な感情は生まれなかったんだろうか。
   どういう仕打ちを受けていたのかは知らない。想像もできない。犯人はそれこそ鬼か悪魔のように振舞って、被害者の女性にそんな心の余地をつくる間も与えなかったかもしれない。何も知らない野次馬のたわごとかもしれないけど、9年間もそこにおって、なんか逃げる手はあったやろ、と思ってしまうのだ。
   その犯人がずっと部屋におるわけでもなかったやろうし、もし仮におったとしてもほんまに逃げたかったら大声出したり部屋の窓を叩き割って逃げたりできるやろ、と思ってしまうのだ。
   口では大きなこと言うくせに、いざとなったらすくんでしまうタイプの人間もいる。僕もその種類に属する。今は時代も変わってきてるけど、満員電車で痴漢されても何も言わないでじっと我慢して時が過ぎるのを待つ女の子だっている。
   その子も、誰かが発見してくれるまでじっと待っていたのかもしれない。おそらく、それは9年の時間だろうが、一駅分の時間だろうが、時間の長さは関係ないことだと思う。我慢するかしないかの、どちらかだけ。もしくは、我慢できるか、できないか。
   こんなこと言うとまた叱られそうだけど、痴漢されて我慢してる人もまんざらじゃないんじゃないの?と思うのだ。ストレートに言うと、けっこう気持いいんじゃないの?と僕は思っているのだ。イヤなら、イヤって言えよ!なんで言えないのかなあ。気持ちええんちゃうの?
   監禁されてた少女も、心のどっかに「気持ちええ」とこあったんちゃうんかなあ。そりゃあ最初は怖かっただろうけど、何年かして、部屋に「愛着」みたいなのができてきたんちゃうかなあ。そう考えないと、やっぱ、9年間もずーっと部屋にいたってのは、にわかに信じがたい。
   これらすべて、僕の想像ね。戯言ね。


          2002年01月23日 02時49分22秒

『午後の曳航』
   この第七巻で、読書感想文を書いていく気はないんだけどなあ。でも今日も、三島由紀夫の『午後の曳航』について書く。
   
   「おやすみ」と言って、母親の房子が登の部屋のカギを閉める場面から、この小説ははじまる。13歳の登は「首領」らと遊ぶために夜にこっそり部屋を抜け出したのが母親にばれて、そんなことをさせないために、房子がこの部屋にカギを取り付けたのだ。
   登の部屋の隣は母親の寝室で、偶然発見した覗き穴からそこを窺い知ることができる。父親とは死別している。
   ある日、房子が二等航海士の塚崎竜二を家に連れてきて、寝る。登は船好きで、竜二とも一度だけ会ったことがある。二人の床入りを登が覗いているとき、海から汽笛が聞こえてくる。その汽笛は登と、登の外の世界とをつないで、「宇宙的な聯関」を登は味わう。
   船乗りであった竜二は登にとって「英雄」であった。しかし、この男は「陸」を選んで、さらに房子と結婚して、登の父親になろうとしている。その時点で、登は復讐をする。「首領」らの仲間とともに、竜二を殺す計画を立てる。
   竜二は、海の向こう側には「大義」があると信じていて、海の生活を捨てることを逡巡もするが、結局「女」を選んだのである。竜二は信じていた。栄光と死と女は三位一体であると。女を手に入れてみたものの、死と女は向こう側に逃げてしまったようであるが、それを竜二は後悔しない。
   登に催眠薬入りの紅茶を飲まされて、「飲んでから、ひどく苦かったような気がした。誰も知るように、栄光の味は苦い」。ここで小説の幕は閉じる。

   この小説は二つの視点で書かれている。一つは登から、もう一つは竜二から。登側の描写としては、「覗き穴」の視点であり、とにかく大人を毛嫌っている。そして、首領グループの活動や、「首領」の言動が書かれている。これに対して、竜二の方は、とにかく船乗りとしての生活について終始一貫している。貯金も相当あり、船乗りとしてある意味満足していた生活に、房子が現れて、自分の価値観がどう変化していくかを書いている。自分の、死に対する考えなど女には分かるわけがないと竜二は思っている。
   乱暴に言ってしまえば、その二つの視点は「子供と大人」の視点である。登は大人の前ではいつも「無邪気な子供」を演じている。「いい子」を演じている。その影で、首領とともに、子猫を材木で打ち殺したりしている。
   竜二も、秘密にしていることがあって、それは海の上での生活のことだ。雑駁な事柄は会話として提供することもあるが、船の上で培われた思想は決して誰にも打ち明けない。また、登のことを少々薄気味悪い存在とは感じつつも、その核心には触れられないし、無邪気な登をそのまま受け止めて、子供扱いをする。

   決して触れ合わないこの二人をつなぐものが、「汽笛」であり「船」であり「海」だったのだ。それを捨てた竜二を、登は恨む。登は英雄を失った。首領は言う。「父親とは世界の汚い蝿である」、「もう一度竜二が英雄になるためには、死ぬ必要がある」。竜二は死後に、残ったもう一つの要素である「栄光」を獲得したかは謎である。たしかに、栄光のために死んだが、その目的は達せられたかどうかは定かではない。竜二が求めた栄光は、自分自身のためのもので登のためではない。また、登はそんな竜二の思惑など知る由もない。ただただ英雄に仕立て上げたいがために、登は竜二を殺害するのだ。やはり、竜二と登はすれ違っている。
   この小説でも、大人と子供は和解することに失敗している。それは正解なんだけど。その和解は絶対に起こらない。起こってはならない。
   
   卒業論文でもこの小説を扱った。そこでは、登少年を三島由紀夫、竜二を天皇に置き換えて研究した。    2002年01月18日 14時41分23秒

この第七巻について
   ページ名には、ラディゲの『肉体の悪魔』の一文を引用した。僕がこの本をはじめて読んだのは、たしか大学一年のときだったと思う。すぐさま僕はこの本の虜になった。以後、何度も読み返した。この「僕」が、いわば卑屈で幼さの抜けきらないくせに、生意気な考え方をしたりするのが、どうも僕に似ていると思ったからだ。僕もそういう暗い人間である。
   この主人公の「僕」は18歳で、年上の若い人妻マルトと不倫をする。マルトの夫は軍人で、たまにしか家に帰ってこない。この夫婦は二階を間借りして住んでいるのだけれども、何度も「僕」を上に上げるから、階下の大家はあきらかに嫌がっている。
   マルトは妊娠する。それは夫との子供ではなく「僕」との間にできた子供だったのだけれども、何とかうまくごまかし通せる。もちろん軍人の夫は自分の妻が不倫をしていることには気付かない。マルトは衰弱して、産後に死ぬ。その赤ちゃんには「僕」の名前がつけられていて、マルトはその名を呼びながら、死ぬ。   「僕」は悲しみ、知らない世界へ一人で逝ったことに嫉妬するが、数ヵ月後に「僕」は満足する。マルトが自分の名を呼びながら死んだことと、自分の赤ちゃんがジャック―マルトの夫―によって合法的にちゃんと育てられていくことを知って。

   僕の家は、典型的な田舎の封建的家族で、とにかく親に逆らうことは許されなかった。それはどこの家でもそうだろうけど、僕の家は少し変だった。例えば、小学校4年生の時に、「がんばれキッカーズ」という普通のサッカーのマンガ本を買っていっただけでも、怒られて、捨てられた。中学一年の時に、友達の家でムースやジェルで髪形を買えてモヒカンにしたりして遊んでたのを、僕がそのまま家に帰ったら、それもまた夜に帰ってきた父親にすごい怒鳴られて、「今すぐシャワーで流してこい!」と言われた。そのとき僕はべつにモヒカンでもなく、ただ少し量が多めのジェルで前髪を立たせていただけなんだけど、それにどうせ風呂に入ってシャンプーすれば落ちるのに、なんでそんなこと言うんだろうと僕は思っていた。うちの両親はともに中学校の教師で、そういう「不良」が校舎にいれば怒るのもわからんでもないけど、その逆に、教師をやってるから子供の気持をわかってもいいじゃないかと思ったりもして、とにかく、今でも親が何を考えて
僕を教育したのかはわからない。そんな風にマンガ本を捨てられたりして、子供心にどれだけ傷がつくか想像しなかったんだろうか。僕は、小さいころは親のマシーンでしかなかった。感情を持つことは許されなかった。
   そういう親を憎んでいるのかと言えば、そうでもない。感謝している。なぜなら、僕は親の前ではハイハイということを聞く少年だったけど、いや実際親が怖かったけど、僕は夢想することを覚えたからだ。親の顔色をうかがいながら振舞うことによって、僕は感受性の強い人間になった。また、自分がそういう風に不条理な教育を受けたから、大人になった今、子供の心がわかるようになった。僕の親は、「目に悪いから」ファミコンをあまりさせなかったし、「腰に悪いから」一文字ハンドルの自転車を買い渋った。僕は塾講師をしているが、絶対そんな「大人の一方的な優しさ」を使って子供を説教しない。実際教室でも、全然話を聞かずに机に突っ伏して寝ている生徒もいる。そういうやつは僕はしばらくそのままにさせとくが、いつまでたってもやってたら机を蹴り上げて、「眠いなら帰って寝ろ」とひとことだけ言う。しばらくは放っておくのは、少しぐらいは眠くても当たり前で、それに、いろんな意味で「面白い」授業なら、生徒は目を輝かせてこっちを見て僕の話を聞くからだ。
   で、たいがいはそこからシャキっと起きて授業に集中するけど、たまに、それでも寝続ける奴がいる。そういうやつには「お前が一人で成績落ちるのはどうでもいいけど、俺のめざわりやから帰れ。眠いなら帰って寝ろ。塾は寝に来るところじゃない」それでも僕に、下からガンを飛ばしてくる生徒がいるが、間違いなくそういうやつにはソッコウ帰らせる。相手をしてても時間の無駄だからだ。
   結果として、塾内でも子供のしつけをすることになるのだが、僕はそんなことしたくない。したくなくても上のように、怒らなきゃならないときもある。「時間の無駄」と書いたのは、教室には他にも生徒がいて、そいつらは俺の英語の授業を聞きに来てるのだ。一人の「不良」のために、あいつらの時間を奪うわけにはいかない。塾の外でタバコ吸おうが喧嘩しようが、僕にはどうでもいい。平凡な意見だけども、やるべきことをちゃんとやってればいいのだ。
   うちの親は、やるべきことをちゃんとやってても、「道を外れる」ことを嫌った。道を外れてもちゃんとしてりゃいいじゃないかと思いつつ、僕はだれにも邪魔されない夢想の世界で、思う存分「道を外れ」ていた。そういうところから、僕は「行為」の人間ではなく「観念」の人間になり、通俗的な「暗い」人間になっていった。

   僕は子供の味方でもないし、大人の味方でもない。もちろん敵でもない。ということは、味方でもあり、敵でもありえるということだ。子供の悪口ばかり言った気がするので、大人を罵ってみる。
   大人は規則正しく生活しようとして、それを乱す「不良分子」を排除しようとする。不良分子からすれば、規則とは「遊び心」に欠けるもので、何の面白みもない。面白くないから、自分なりのやり方で「規則」を守らなかったり押し曲げたりする。また、大人たちを嘲笑している。「規則にしたがって、何が面白いんだ、馬鹿じゃないの」と。そして、その嘲笑は的を得ている。つまり、大人たちは、その嘲笑を恐れているのだ。子供のころには反抗していたくせに、結局社会の歯車となっている自分を馬鹿にされるのを。そして、それと知りつつどうしようも変えようのない自分を。大人の罪は「知っている」ことである。その「知識」と、「知っている」ということ自体を隠そうとするのが子供には許せない。怖れていることをも隠す。姑息だ。卑怯だ。弱虫だ。馬鹿だ。「やるべきことをちゃんとやればよい」だなんて、そうしたところで、大人はさらに子供になにかを要求する。それは結局大人たちが捨てなければならなかった「夢」である。勝手なやつらだ。なぜお前の夢を俺に押し付けようとする。俺は自分で「絵を描きたい」んだ。教育なんて、馬鹿馬鹿しい。大人なんて、馬鹿馬鹿しい。「大人の特権」があるならば、「子供の特権」だって存在するんだ・・・・。

   おそらく、大人と子供は永遠に和解しないんだろう。大人と子供は永遠に他人である。恋人の心中が全く理解できないことと同じように、大人と子供は理解し合えない。
   大人が秘密を持つように、子供も隠れて秘密を作る。その秘密があます所なくお互いにディスクローズされることは、あってはならない。    2002年01月14日 02時06分07秒

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