軽米らしさ探偵団通信
第1号 2001.8.2発行 軽米らしさ探偵団
軽米らしさ探偵団が誕生しました
ごあいさつ
会長(探偵団長) 内澤 多賀志mm
小さな町で暮らす者は都会と違い粒子が大きい。ひとり一人が埋没していません。自分の事業、商売について考える事と町の在り方を考えることがダイレクトに結びつきます。
だから面倒くさいと思わずに、またどうせとかどうにもならないとあきらめてしまわないで、町はこうあるべきだとかこうしたいとか、軽米がこんな風になればいいとか、声高に者を言うことが大切です。まず、家族中に、隣人に、町内会に集落の仲間に、行政に考えを話しましょう。
そしていっしょに軽米らしさを発見し、発言し、発信して行きましょう。
「軽米らしさ」ってなに?
河川改修のための会議で、「軽米らしさ」はなにかということが話題になりました。
近頃は、風車とチューリップが有名ですが、これだけではないはずです。もっと身近に昔からあるもので、軽米の町の人が気づいていないものがないでしょうか。
よそからの人がみると他の町とちがった何かがみえているようです。
みなさんは、「軽米らしさ」といえば何を思いうかべますか?
とりあえずレンガに注目
軽米は、歴史のある町で古い木造建築や蔵などが今でも多くみられます。また、井戸や湧き水も多くありました。
そこで私達「軽米らしさ探偵団」はとりあえず、レンガの建物に注目して活動をはじめることにしました。
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ミニレンガ博物館予定地 |
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(旧大黒醤油工場ボイラー室跡) |
わが探偵団は、6月に行われたカシオペア連邦地域づくりサポーターズ(二戸地方振興局等が協力)の助成事業の公開審査で30万円を獲得しました。
これをもとに、ミニレンガ博物館開設、ライトアップ、レンガ焼き体験などの事業を計画しています。
今なぜ
レンガなのか?
日本のレンガ建造物は明治から大正にかけて造られたものがほとんどです。
ところが、軽米のレンガの建物は、戦後、昭和年代から年代にかけて造られました。それも軽米の土を軽米で焼いて造ったレンガを使って建てられました。
5月に来町した専門家は、「これだけのものがここ(軽米)にあることが、にわかには信じがたい。」という感想を述べています。
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日本赤煉瓦建築番付より |
レンガ建造物の研究者の団体である赤煉瓦ネットワークが発表した、日本赤煉瓦建築番付には、『前頭 軽米の煉瓦住宅群』として取り上げられています。
このように軽米のレンガ建造物は、全国的にもめずらしく貴重なものなのです。あと数年で50年を迎え、登録文化財に該当することになります。
現在、山内、軽米、小軽米、高家地区などの地区で20棟ほどのレンガの建物が確認されています。
河川改修工事で町が大きく変わろうとしている今こそ、レンガに注目したいと思います。
レンガについて、みなさんからの情報提供をおまちしています。
8月13日〜16日まで旧大黒醤油工場ボイラー室のライトアップをおこないます。午後7時〜10時 (雨天中止)
『軽米赤れんが探訪』その1 君成田酒店倉庫(荒町)
探偵団員 君成田 旭 _

以前から、町の内外の人たちに言われます。
「素晴らしい倉庫ですねえ・・・」
すると父は、遠い思い出に浸るような目で赤茶色の倉庫を眺めて答るのです。
「いやはア、オヤジの残した宝だナス」
−私たちの町、軽米町の歴史と文化−
私の家の赤煉瓦倉庫は、父が中学生の頃に祖父が建てました。それまで山菜や栗の乾燥小屋として使っていた木造の倉庫を消失したのを機に、耐火性に優れた煉瓦で倉庫を建て直したのです。時は昭和36年頃です。同じ時期に、軽米町にはいくつも赤煉瓦の建物が建設されたのだそうです。
しかし現在、日本の
256のまちにある煉瓦の建造物は、ほとんど明治の一時代に造られたとのこと。軽米町の煉瓦建築群は異例中の異例で、その80年も後の第二次大戦以降に造られたのです。その事実が注目され、『これは全国的にも貴重な建築物群だ』との声があがったのは皮肉にも町外から、しかもつい最近になってなのです。
さて、軽米町の煉瓦の建物が建てられた頃の軽米の町並みはどんなだったのでしょう。木造の建物ばかりで、かやぶき屋根も多くあったはず。馬を連れ歩く人も多くいたと聞きます。道も狭く舗装されているところも少なかったでしょう。
そんな田園のそこここに、建てられた煉瓦の建物。軽米町の土を使い、軽米町の窯で軽米町の住人が焼いた煉瓦が、ひとつひとつ組まれていったのです。
「う〜ん。きれいなもんだなあ。よし!オラもひとつ、これで倉庫建でっか!」。祖父が言ったかも知れません。煉瓦の壁に刻まれた文字や、消されずに残ったチョークの痕をなぞりながら祖父の面影を想像します。見上げる太い梁の上には、栗や蕨や薇などを乾燥させるたくさんの網が使われること無く埃を被っています。当時は多くの人に手伝ってもらい、最盛期には所狭しと積まれていたといいます。雇っていたのはもちろん軽米の人々。笑いや掛け声がこの煉瓦に響き、汗や時には涙が染み込んだのでしょう。
大町には酒蔵だった赤煉瓦。元屋町には醤油工場の煉瓦。円子には小学校など、現存する18棟の赤煉瓦の建物たち。かつてはそのすべてに煌々と火が灯り、緑も深い軽米に活気に満ちた仕込み歌や子ども達の歌声をこだまさせた場所だったのです。
父の口癖が胸に甦ります −
いやはア、オヤジの残した宝だナス −
おそらく、父にとったら赤煉瓦たちは、思い出のつまった宝石箱のようなのでしょう。軽米町にとっては一時代を映した鏡。つまり歴史の1ページであり、文化遺産と言えるのではないでしょうか。
今、水害後の河川改修工事で、現存する赤煉瓦のうちの1つが消えようとしています。修理が必要なものもあります。
21世紀。軽米町は急速に生まれ変わろうとしています。折しも時代はIT革命が叫ばれ、めまぐるしく私たちの生活や志向も変わろうとしています。
変えるべきところは変えよ、守るべきものは大切に守れ。来たるべき新時代に際し、赤煉瓦を大切にせよとの町外からの指摘は、その言外に、私たちにとって本当に大切なものを見失うなというアドバイスが込められているように思えてならないのです。
いや、もしかしたら、一向に顧みることをしない町民に対して、赤煉瓦を思う人々の霊が町外の人たちに言わしめたものかもしれませんね。
昔から言うではないか、温故知新だよと。
