このページは――@国内外の医学的成果・医学的知見の変遷
Aそれらを冷静に評価することなく迷走する厚生省(内務省)と国会の作為・不作為
B彼らの独断と惰性によって虐げられたハンセン病患者・元患者の苦闘の歴史
この三本の柱を中心にして、別掲「歴史年表」の10のサイトから材料を頂戴して
編集したものです。なお、@ABの史実の大半は熊本地裁一審判決の主文(弁護士古賀克重氏の
サイト「ハンセン国賠訴訟」のもの)より材料を頂き、又リンクでも活用させて貰っています

年表・日本のハンセン病(敬称略)                   目次へ
              

                                                                                                                                     


                       

  西暦年
 (和暦年)
月/      出      来        事     
奈良時代  日本書記(720年完成)に「癩」の言葉が有る
鎌倉時代  律宗の開祖叡尊(1201〜1290年)が西大寺を基点に癩患者の救済に努める
叡尊の弟子忍性(1217〜1303年)が奈良に日本最古の救癩施設「北山十八間戸」創設、
重症患者を毎朝夕背負って町まで往復した
時宗の開祖一遍(1239〜1289年)は諸国を行脚しつつ癩患者の救済に当たった
安土桃山時代  武将大谷吉継(1559〜1600年)は癩を患いながら猛将として活躍した
江戸時代  熊本の本妙寺、上野の草津、甲斐の身延、四国の金比羅などに患者部落ができた
1847年  この年 ダニエルセン(ハンセンの義父)が疫学調査の結果ハンセン病は遺伝病であると
提唱した
1867(明治元年)  11/9 大政奉還
1872(明治5年)  10月 ロシア皇太子の来日前日浮浪者300人を本郷加賀邸空長屋に収容、東京養育院の起源となる
1873(明治6年)   2月 ノルウェーの医学者アルマウェル・ハンセンがらい菌を発見、感染症と判明
(1874年細菌学者ナイセルにより確認され認知されるに至る)
1875(明治8年)   4月 後藤昌文が東京神田に起廃院を設立
1886(明治19年)  11月 草津に湯の沢部落ができる
1887(明治20年)   6月 湯の沢をらい患者湯治場として草津本町から分離
1888(明治21年) この年 堺の岡村平兵衛が家業の丁字油製造を応用して大風子油を精製、
我が国のらい治療に貢献する。これは再発率が高く根治薬ではなかった
1889(明治22年)   4月 ダミアン神父、モロカイ島で死去(享年49歳)
 5/16 フランス人神父テストウィードが日本初のハンセン病療養所「神山復生病院を設立(御殿場)
1894(明治27年)  7/25 日清戦争勃発
 10月 好善社が東京に目黒慰廃園を設立(監督大塚正心)
1895(明治28年)  4/17 日清戦争に勝利
 11月 イギリス人ハンナ・リデルが熊本に回春病院を設立
1897(明治30年) 10/11 第一回国際らい会議(ベルリン)開催光田健輔、土肥慶蔵出席。らい菌による伝染病であること、
その伝染力は極めて微弱であることが確認される
この年 らい患者に関する一斉調査(除く北海道)。23.660人(有病率は一万人当たり5.5人)
1898(明治31年)  10月 フランス人ジョン・マリー・コールが琵琶崎待労病院を熊本市に設立(院長メール・マリー・コロンバ)
 10月 警察本部に衛生課が設置される
1899(明治32年) この年 コレラ・ペストなどの急性伝染病対策以外にハンセン病が初めて国会の議題に上がり、
「取り締まり」が必要とされる
1900(明治33年)   3月 東京養育院内にらい患者のための回春病室を開設(院長渋沢栄一、主任光田健輔)
 12月 内務省(現厚生省)が第一回らい全国一斉調査。30.359人(有病率は一万人当たり5.5人)。
主に警察官によって行われ把握洩れも相当あるとされる
1902(明治35年)  2/28 帝国議会に「癩患者取締ニ関スル建議案」が提出され、立法措置の必要性が唱えられた。
会期切れのため廃案となる
この年 日英同盟調印
1904(明治37年)  2/10 日露戦争勃発
1905(明治38年) この年 伝染病予防法にハンセン病を含むべきだとする「伝染病予防法改正案」が議員立法として
上程される内務省の反対で廃案となる
  9/5 日露戦争に勝利(「大国意識」高まりをみせる。「民族浄化」「国辱論」の萌芽であり、隔離絶滅政策を招くことになる
1906(明治39年)  10月 山梨県身延山に綱脇龍妙により身延深敬病院が設立される
この年 議員立法で「らい予防法案」が提出されたが廃案となる
1907(明治40年)  2/12 第23回帝国議会で法律第11号「癩予防ニ関スル件(以後「らい予防法」)」が政府案として提出され可決されるこれは「国辱論」の影響を強く受けたものであり、同時に浮浪者の救済法の色彩を有していた
 3/18 「らい予防法」が公布される
 7/22 「道府県癩療養所設置区域」が公布される
この年 神山復生病院長のドルワール・ド・レゼー神父は「ハンセン病の感染力は微弱である」と述べる
この年 窪田静太郎内務省衛生局長は「伝染力は低い」と する
1909(明治42年)   2月 内務省訓令「在宅患者消毒規定」が公布される
  2/3 道府県連合立(公立)療養所が設立される
  4/1 「らい予防法」が施行される
  4/1 全国に5つの公立療養所を設立(全1100床)。
全生病院(東京・350名・後の多磨全生園)(9/28)・北部保養所(青森・100名・後の松丘保養園)・外島保養院(大阪・300名・室戸台風により壊滅、復興されず)・大島療養所(香川・170名・後の大島青松園)・九州療養所(熊本・180名・後の菊池恵楓園)。
実態は「患者作業」を強いる強制収容所であった。この使役により患者の病状が悪化することになる。
国策としてのハンセン病対策の出発点である
 12/2 第2回国際らい会議(ノルウェー・ベルゲン)が開催される第1回会議での決議内容(らい菌の感染力は微弱であること・相対的隔離方式)が確認される
1910(明治43年)  8/29 日韓併合宣言
1912(明治45年)  2/17 アルマウェル・ハンセンが死去
1914(大正3年)  7/28 第1次世界大戦勃発
1915(大正4年)   2月 光田健輔が内務省に「癩予防法に関する意見書」を提出
療養所拡充・全患者を島に隔離・管理者に懲戒検束権という絶対隔離である
  4月 全生病院で断種(ワゼクトミー)を条件に結婚を認める(院長光田健輔。これをきっかけに全国の療養所に広がる)
1916(大正5年)   2月 朝鮮全羅南道に小鹿島慈恵病院が設立される
 3/10 法律第21号(「らい予防法」改正案)が施行される療養所長の懲戒検束権が法制化される
  6月 「患者心得」が施設ごとに制定される
 12月 「患者懲戒・検束に関する規則」施行。監禁室が設置される
この年 九州療養所で「園内通用券」が発行される
1917(大正6年)  11月 イギリス人コンウォール・リーが草津・湯の沢に聖バルナバ医院設立
1919(大正8年) この年 全生病院でも「院内通用券」使用開始
この年 内務省が患者一斉調査、総数16.535人
1923(大正12年)  7/28 第3回国際らい会議(フランス・ストラスブール)開催この会議で「絶対隔離」に対する疑問が出始めた。
施設を用いた強制隔離は全く推薦されていない
  9/1 関東大震災
1925(大正14年)   6月 日本MTL(Mission To Lepers)設立後に「無らい県運動」に加わる
1926(大正15年)   5月 内務省(衛生局予防課長高野六郎)は「国民浄化のために」という論稿を発表。
「民族浄化」の観点から「絶対隔離」を説き、未収容者15.000人を全て療養所へ収容するのが最善であるとする
1928(昭和3年)    7月 九州療養所でタバコ、砂糖、麺類の販売。売店の始まり
 9/24 第1回日本癩学会が東京で開催される
1929(昭和4年) この年 愛知県で民間団体による「無らい県運動」が始まる岡山県、山口県に広まる。恐怖宣伝のスタートである
1930(昭和5年)   3月 日本最初の国立療養所、長島愛生園が発足(公立から国立へ)(園長光田健輔)
 10月 内務省は「らいの根絶策」を策定し、全員を終生隔離すべしとするこれが国民に恐怖心を植え付けた。
しかしここでもやはり、「癩菌の感染力は弱く」と記されている
 12月 台湾総督府立楽生園を台北に設立
この年 WHOらい委員会(バンコク)、第8回大日本医学総会(国連保健委員ビュルネ氏が講演、内務省が翻訳・紹介)
医学博士青木大勇の論文などにて「絶対隔離」否定論が明確化される
1931(昭和6年)   1月 「国立療養所患者懲戒検束規定」明文化・公布される
(これにより所長の一存で患者の人権が左右されるようになる)
 2/14 赤木朝治内務省衛生局長の貴族院答弁
「伝染力が微弱な菌であり」「癩菌に接触したからといって必ずしも発病するものではない」
  3月 貞明皇后の内帑金を基に癩予防協会設立(会長渋沢栄一)
  3/7 沖縄県立宮古保養院設立
  4/3 「癩予防ニ関スル件」を改正。「癩予防法」公布
従来放浪者に限られていたのが全患者を隔離の対象とすることになる
 6/25 「らい予防デー」・「らい予防週間」発足
これにより@「皇恩」の力説A伝染の恐怖心を煽って隔離強化を正当化B無らい県運動の推進を図る
この年 国際連盟らい委員会が「らい予防の原則」を作成@ハンセン病は治療可能だからA患者の社会復帰を前提とした
B外来治療を可能とする制度を確立せよとしC管理的・警察的な取り締まりの修正を求めた
1932(昭和7年)  1/10 第1回療養所協議会開催(高松市)
  2/3 ハンナ・リデル熊本の自宅で死去(享年77歳)
 5/15 5・15事件発生
11/16 国立療養所栗生楽生園設立(草津)
この年  第5回日本癩学会で九州療養所の河村正之の講演
「伝染の危険性の無い患者を療養所に留め置くのは無意味である」
1933(昭和8年)   2月 外島事件起こる(大阪・外島保養院)急進グループの高い意識・当局の思想弾圧・所長の尊い決断を見るべし
 10月 国立療養所宮古療養所設立される(後の宮古南静園)
1934(昭和9年)   4月 「三井報恩会」発足無らい県運動の財政基盤となる
 9/21 室戸台風により外島保養園が高潮に襲われ壊滅する
この年 京大の小笠原登助教授はらいの感染力は甚だ微弱である旨論じる
この年 北部保養院の中條資俊院長は「感染力は微弱であり絶対隔離は再考すべし」と論じる 
1935(昭和10年) 10/28 国立療養所星塚敬愛園設立される(鹿児島県鹿屋市)
この年 内務省は「らいの根絶策」(昭和5年)を受けて「根絶20年計画」を策定10年後に病床数を10.000床にし、
更にその後10年間でハンセン病を根絶するとしている
この年 1930年からの5年間で入所患者が5倍になる。無らい県運動の結果である
1936(昭和11年)  2/26 2・26事件発生
 8/11 長島愛生園で長島事件発生
定員オーバーによる生活環境の劣悪化に抗議し、作業放棄・ハンスト・園長等の辞任要求などを行った
この年 窪田静太郎(前出)は「伝染病には相違ないが伝染力は強烈なものではない」と論文中で述べる
この年 内務省は全国衛生部長と療養所長の合同会議を招集し「根絶20年計画」を公表
「無らい県運動」は官民一体となって組織化され、虱潰しの「患者狩り」を強力に推進する
1937(昭和12年)   4/5 結核予防法改正
  4月 京大医学部皮膚科に入院可能な研究室設立される(主任小笠原登)
  7/7 日中戦争勃発
 12/5 北条民雄死去。川端康成全生病院に弔問
1938(昭和13年)  1/11 厚生省発足
  4月 外島保養院が邑久光明園として再建される
  6月 第4回国際らい会議(カイロ)開催@感染力が極めて微弱と確認A強制隔離に疑問が呈される
 11/1 国立療養所国頭愛楽園設立(後の沖縄愛楽園)
12/24 栗生楽泉園内に「特別病室」(重監房)設置される
1939(昭和14年)  9/1 第2次世界大戦勃発
 9/16 国立療養所東北新生園設立される
 11月 満州国立同康院設立される
この年 東大伝染病研究所の日戸修一は成人における感染例の稀少さを論じた
この年 この年までに全国の療養所で断種手術を受けた患者は1.003人に及んだ
1940(昭和15年)  2/27 国民優生法成立。断種の対象を遺伝病に限定しハンセン病は除外されている
 7/9 午前5時熊本県本妙寺のらい部落に対し強制執行県警署員等計207名による。本妙寺は解散し157名が各療養所へ分散収容される
 9/27 日・独・伊三国同盟締結
この年 厚生省が各都道府県に「無らい県運動」の徹底を指示するさらに徹底的な「患者狩り」が行われる
この年 青松園では患者638名に対し、医師5名、看護婦11名そのため「患者看護」が強制され軽症者のみならず
重症者にも課せられた
この年 全患者の内78%の隔離が終了
1941(昭和16年)   2/3 回春病院が経営難から解散。入院患者(58名)は九州療養所へ
  4月 聖バルナバ医院が経営難から解散。患者(44名)は栗生楽泉園へ
 5/18 草津湯の沢部落が解散。患者(574名)は栗生楽泉園へ
  6/6 全生病院で山井道太の「洗濯場事件」発生当然の長靴要求で「重監房」送りとなる
  7/1 全国5個所の公立療養所が国立へ組織変更(松丘保養園、多磨全生園、邑久光明園、大島青松園、菊池恵楓園)
 12/8 太平洋戦争勃発
この年 鳥取、岡山、福岡、山口、宮城、富山、埼玉が無らい県となった
1942(昭和17年)   8/5 目黒慰廃園が解散。患者(55名)は多磨全生園へ
1943(昭和18年)   4/5 国立療養所奄美和光園が設立される
この年 アメリカ(カービル療養所のファジェットによる)でプロミンの有効性が医学誌に発表される(カービルの奇跡)
1944(昭和19年)   3/1 沖縄国頭愛楽園米軍に爆撃され主要な建物が壊滅される
5月〜 沖縄では日本軍が銃や銃剣の威嚇で強制収容開始(愛楽園、南静園へ多数収容)
1945(昭和20年)  3/10 東京大空襲
  4月 南静園では空爆と栄養失調で110人死亡、愛楽園は誤爆を受ける
 8/15 第2次世界大戦終戦
11/26 奄美・沖縄・宮古の3園が米軍政下におかれる
 12月 国立療養所駿河療養所設立される
1946(昭和21年)  2/28 沖縄では米軍指令により完全施設隔離政策が採られる
  4月 東大石館守三郎教授がプロミン合成に成功
 6/24 選挙法の改正により衆院補欠選挙で入所患者が初めて選挙権行使
 11/3 日本国憲法発布
この年 第2回汎アメリカらい会議(リオデジャネイロ)でプロミン・プロミゾール・ダイアゾンの有効性が高く評価される
1947(昭和22年)  1/10 厚生省が愛生園で患者10名にプロミン試用特効性が評価されるが、園幹部の中には疑問視する者有り
  2/7 各療養所にララ物資が贈られる
  4/1 6・3・3制の実施に伴い各療養所に中学校が設置される
  6/1 生活保護法の適用により患者に生活扶助が支給される
  5/3 日本国憲法施行
 8/15 栗生楽泉園で「特別病室事件」発生↓
 8/17 第1回患者大会開催。「特別病室」・強制労働・劣悪待遇・不正職員に関して追求↓
 8/29 厚生省が調査団派遣↓
 9/9 楽泉園入所者2名が多磨全生園と共闘大会開催↓
 9/15 楽泉園庶務課長等が厚生省に解雇される↓
 9/21  国会が調査団派遣↓
朝日新聞・NHKの報道により社会問題化する↓
10/11 古見園長休職等の処分↓
 11/6 以上の「特別病室事件」の実態報告衆院厚生委員会で東龍太郎医務局長が報告。なお「らい治療に大きな光明
(プロミン)が見いだされつつあり治療を目的とする収容を国策としたい」と。

この年から国会の議事録がここから検索出来ます(例:19471106・衆議院・厚生委員会・東龍太郎とインプット)
10/27 国家賠償法施行
 11月 第20回日本癩学会でプロミンの治療効果が報告される(愛生園、楽泉園、東大石館教授より)
この年 厚生省により第2次「無らい県運動」。未収用患者の根絶策が実行されている
1948(昭和23年)  6/10 長島愛生園で光田健輔園長の胸像除幕式
 7/13 優生保護法が公布される患者の断種・人工妊娠中絶は本人及び配偶者の同意が有れば可能であると合法化される
10/28 多磨全生園内に「プロミン獲得促進委員会」発足関係方面へ働きかけ全国へ波及する
11/27 国立療養所の在園者3.276名が衆議院に対し「らい予防法」の改廃を求める請願を行う
11/27 衆院厚生委員会で、プロミンとプロミゾールに関連して東医務局長の答弁
「もし十分な予算があれば全ての患者に対してこの進んだ治療を・・・」「療養所は治療をするところであると私共も考えて居ります」
 11月 第5回国際らい会議(キューバ)開催@らいが治癒可能であることの啓蒙の必要性が強調されるA経口薬ダブソン(DDB)やプロミンなどスルフォン剤の有効性が実際の試用により確認される
1949(昭和24年)   1/5 奄美和光園に米国カトリック教会よりプロミンが寄贈され7人に試用される
 2/24 厚生省がプロミン予算6.000万円を要求一旦大蔵省により1.000万円に減額されたが各療養所でハンスト等「プロミン獲得運動」が展開され結局要求通りに通過する
 5/19 この日の新聞取材による厚生省決定この年2.000床、翌年2.600床の増床と、潜在患者の発見(住民からの聞き込み・投書を含む)により、30年計画でらいを撲滅するとしている。昭和28年度までに5.500床の増床が実現、ほぼ全患者の収容が可能となる
 6/24 改正優生保護法が公布・施行される
  6月 厚生省で全国療養所長会議開催される「第2次無らい県運動」の実施、未収容者の収容徹底を決議。「軽快者の退所を提案した小川予防課長に対し光田健輔は「生兵法は大けがのもと、軽快者だとて出してはいけない。遺言しておく」と発言
1950(昭和25年)  1/10 奄美で軽快退所者7名が社会復帰
 1/16 栗生楽泉園で殺人事件発生
 2/15 衆院厚生委員会で光田健輔等が患者の取り締まりの強化を訴える
園の周囲に柵を巡らす、現行懲戒検束規定が新憲法下でも違反でない(3月17日)等
  8月 らい患者の全国調査登録患者12.628人、入所患者10.102人、未収容患者2.526人、収容率75.04%、有病率は1万人当たり
1.33人(50年前の5分の1)。にもかかわらず厚生省は各都道府県に患者の一掃を指示、報告を義務付ける
  9/1 熊本県の山村で一家心中事件57歳のらい患者の父を24歳の息子が射殺
 10/5 「全国国立らい療養所患者協議会(全患協)規約草案決定される
1951(昭和26年)  1/11 全患協(現全療協)が発足本部多磨全生園。旧法の改正に向けて気運が高まる
 1/29 山梨県で保健所による消毒が発端で一家9人心中事件発生
  3/1 NHK「私たちの言葉」で多磨全生園長の訴えが放送される
  4月 第24回日本らい学会でプロミン、プロミゾール、ダイアゾンの治療効果が正式に確認される
  8/1 熊本県で「藤本事件」が発生
 11/3 光田健輔文化勲章受章
 11/8 参院厚生委員会で光田健輔(愛生園)、林芳信(全生園)、宮崎松記(恵楓園)による三園長証言
患者の完全収容の徹底、懲戒検束権の強化を求める。入所者から大いに糾弾を受ける
この年 全国の軽快退所者35人
1952(昭和27年)   4/1 琉球政府発足
  4/1 屋我地療養所が沖縄愛楽園へ名称変更
 4/23 多磨全生園で「園内通用券廃止この際職員の不正(74万円不足)が露呈。不正糾明患者大会開催される
  5/4 待労院が琵琶崎待労病院へ名称変更
 5/24 全患協第1回支部長会議が施設側の妨害を排除して開催される@「らい」を「ハンゼン氏病」に改めるよう
政府に要望A「らい予防法」の改正試案(強制収容条項の削除、退園・一時帰省の促進等)を決議
 6/13 1931年に設立された「癩予防協会」が「藤楓協会」として発足
 9/10 多磨全生園内で自治会が三園長証言への抗議と「らい予防法」の改正促進を決議
10/10 全患協が「らい予防法改正促進委員会」を発足。らい予防法闘争の始まりである
11/13 衆議院議員長谷川保が「癩予防と治療に関する質問主意書」を提出(現行法は人権を無視した極めて
非民主的のものと15項目の質問)
11/19 結婚の条件だった優生手術が廃止される
11/21 長谷川議員の質問主意書に対し吉田茂首相が「現行法は憲法違反ではない」と答弁
 12/8 朝日新聞「今日の問題」欄で「ここにも人権を」とハンセン病を取り上げる
この年 WHO第1回らい専門委員会開催@スルフォン剤(特にダブソン(DDS)の優秀性の確認A「強制隔離は再考を要す」と決議
1953(昭和28年)  3/14 長谷川議員が全患協草案による「らい予防法案」の提出準備を進めた
これに驚いた厚生省は長谷川議員に圧力をかけ独自の「改正案」を作成提出する。しかし「バカヤロー」解散により廃案となる
 6/30 「らい予防法案」再び提出される
  7/1 全患協が国会へ陳情団を送り出す(当初48名規模)
7/3・4 衆院厚生委で審議、通過。全患協陳情団が抗議行動(国会前に座り込み、全国で作業スト。221名に及ぶ)
  7/6 参院厚生委で審議(プロミン等の治療薬の卓効は認められるが、山県勝見厚相は「勧奨に応じない場合は強制収容が必要」と)
 7/30 全患協国会前で再び座り込み(全生園の患者380名が正門を突破して園外デモを行い警官200名と対峙)
  8/6 「らい予防法」参院通過。9項目の付帯決議が付された
(待遇改善・福祉の充実などを求めるもので「近き将来本法の改正を期する」とされる)
 8/15 「らい予防法」制定・公布される
 8/29 「藤本事件」の藤本松夫に死刑判決下る
 9/16 厚生省より「らい予防法の施行について」通達(各療養所長、知事宛。@外出制限を許可制にする
A「患者療養心得」による私生活の規制B勧奨に応じない患者の強制入所措置と罰則等)
 10月 全患協は「全国国立ハンゼン氏病療養所患者協議会」に名称変更(厚生省は「癩」を「らい」に修正するのみ)
 10/3 第6回国際らい会議(マドリッド)開催されるスルフォン剤の効果は確定的とされる。
しかし日本では国立療養所でしか投与しないためこれが実際上は隔離収容を強制することとなる
10/30 厚生省が外出に関して通達(療養所間の親善団の派遣は職員付き添いでも療養上不適当と各療養所長に通達)
 11月 MTL国際らい会議(インド・ラクノー)開催される@特別ならい法令の廃止A速やかな社会復帰B外来治療の制度化を強調
 12/4 「竜田寮児童通学拒否事件」(黒髪事件)発生菊池恵楓宮崎松記園長は熊本地方法務局・中央児童福祉審議会に
「らい患者と親族関係にある者に対する教育上の差別的取り扱いの撤廃について」を申し入れる
12/11 熊本日々新聞「患者家族の通学問題について」に菊池恵楓園長が意見発表
この年 光明園で最後の園内通用券も姿を消す
この年 日本でも経口薬ダブソン(DDB)の研究発表が出る
1954(昭和29年)  1/27 竜田寮問題「共学は差し支えない」九州大学医学部皮膚科樋口教授 熊本地方法務局の照会に回答。
↓ 2/16 「通学拒否は適当でない」厚生省・法務省・文部省が宮崎園長と会議 統一見解発表
↓  3/1 「竜田寮児童の通学拒否」町民大会で決議され、市内でデモ
↓ 3/11 「通学許可の決定」熊本市教育委員会
↓ 3/18 「通学は妥当、反対運動は人権侵害の恐れあり」と熊本地方法務局
↓  4/6 恵楓園患者自治会とPTAの会談、決裂
↓  4/8 黒髪小学校入学式。竜田寮の4名の児童が行こうとしたが、PTAにより校内外にポスター (「らいびょうのこどもといっしょにべんきょうせぬようしばらくがっこうをやすみましょう」)が貼られ一般児童の登校を阻止する活動が行われる。
↓  4/9 熊本地方法務局がPTA会長に警告
↓ 4/13 「児童の登校を一時見合わせよ」熊本市議会より恵楓園側に要請、園側は拒否
↓ 4/20 「通学拒否は不当である」熊本大学医学部学生自治会が声明を発表
↓ 5/10 この問題を苦にして佐賀県下の患者家族が服毒自殺
↓ 5/18 「通学支持」のハンストを恵楓園家族会が実施
↓ 8/21 「通学を9月以降許可しない」熊本市教育委員会が決定、園長が激しく抗議
↓ 9/27 通学問題の報告会に反対派が乱入、傷害事件に(熊本市内浄照寺)
 10/7 通学賛成派・反対派を国会へ参考人招致するに至る
  4/1 「患者看護」を廃止し病棟看護は職員のみでと厚生省が指示
この年 WHOが「近代癩法規の展望」を発表、隔離政策の正当性・有効性を大いに疑問視する
この年 日本皮膚科全書発行 「癩の伝染力は他の伝染病より遙かに弱く、重症者と長らく同居しながら感染しなかった例は多い」
「プロミンは大風子油が遠く及ばないほどの卓効を示す」
1955(昭和30年)  2/22 竜田寮問題が事実上解決 熊本商科大学長が里親となって児童を引き取り、通学させることになる
  7/1 国立らい研究所(現国立多摩研究所)設立 (らい予防法闘争の際の「付帯決議」の一つ)
 9/16 長島愛生園に邑久高校新良田分室が開校(一学年30名) (これも「付帯決議」の精神の実現である。
しかし通学は所謂「お召し列車」によった(1963年まで))
この年 スルフォン剤投与の効果によって国立療養所でのらい菌陰性者が約76%に急増(1948年は約26%)
この年 国立療養所の収容者数11.057名(90.86%) 無らい県運動による強制収容と増床の成果である
1956(昭和31年)   4/9 厚生省は療養所内の高校入学式に他寮の患者が参加する場合の外出禁止制限(予防法15条による)を通達
 4/16 ローマ会議開催される (「らい患者救済及び社会復帰国際会議」―マルタ騎士修道会主催・51カ国250名参加)
「らいの伝染性が低いこと及び治療しうる病気であること」したがって「全ての特別法を撤廃するべし」と決議(ローマ宣言)
  5/1 水俣病発見される
 6/24 らい予防週間にあたりNHKは「らいの今昔」を放送
  7/1 経済白書「もはや戦後ではない」
この年 厚生省は「暫定退所決定準則」を定める しかし@極めて厳格(長期間の経過観察・頻回の菌検査等)であって
退所機会を適正に保障するものではなく、しかもA当初入所者に極秘とされている
この年 「内科書・中巻」発行される 「本病の伝染は余り恐るるに足らない。患者と永く共棲することが必要条件であり貧窮・不潔
その他の非衛生生活がその誘因となる」「プロミンは格段の優秀性を具え」「明らかに著明な軽快を示す」と記す
1957(昭和32年)  2/27 退所した高校生が、生きる術なく希望を失って自殺する事件が発生
 5/17 衆院社労委で「付帯決議」の「退所者に対する更生福祉制度の整備、更生資金の支給」
を追求され、予算化に努力する旨政務次官が答弁する
  6/1 長島愛生園に入所者用外部電話開通
  6月 元全生園婦長三上チヨ、ナイチンゲール賞受賞
11/23 優生手術を受けずに結婚出来るようになる
この年 大島青松園で24畳の大部屋を12畳2部屋に分ける
1958(昭和33年)  1/20 サリドマイドが日本で発売される
  4/1 厚生省、軽快退所者世帯更生資金(生業資金・退所支度金等)貸付を開始する
額が僅少で決して実質的なものではない
 8/23 奄美和光園に山下清画伯来る、個展開催
 10月 長島愛生園で園独自の軽快退所基準を作成
11/12 第7回国際らい会議(東京)開催される @早期発見・早期治療・外来治療の周知
A強制隔離を定めている法律の廃止 を決議
 12/2 「「らい予防法」はいらない」とマーシャルが発言 (国際らい会議に出席した琉球政府公衆衛生部長が琉球新報で)
この年 患者総数推定15.000名、収容者10.834名、未収容者1.098名、未登録者約3.100名
1959(昭和34年)   3月 長島愛生園で新基準による退所者が出る
  9月 全患協が「全国国立ハンセン氏病療養所患者協議会」(「ゼ」→「セ」)へ名称変更
 11/1 国民年金制度発足
この年 WHO第2回らい専門委員会開催(ジュネーブ) @治療は一般病院の外来治療でA特別法は廃止すべし と強調
1960(昭和35年)   1/8 多磨全生園で女性患者殺人・死体遺棄事件発生 @読売新聞は「野放しのライ患者」と掲載(1月11日)、
全患協が抗議する
A厚生省国立療養所課長は「外出制限を厳重にする」と紙上で発言
  3/5 国民年金支給開始。障害福祉年金入所者の34%、老齢福祉年金1.4%
12/15 長島愛生園で患者・職員1.000人が「医者よこせ」総決起大会開催
この年 大島青松園で「患者看護」が廃止された 以後全国で職員への看護切替促進運動が活発化する
この年 沖縄読谷高校で元患者の合格取り消しがある
1961(昭和36年)   2月 国鉄鹿児島本線で浮浪者をハンセン病患者と間違えて強制下車させる 恵楓園自治会が抗議
  3月 各園で自動車運転免許講習開始
 4/25 愛生園で医者不足対策として岡山大からのパートによる診療開始
  6月 「国立らい研究所」を「国立多摩研究所」と改称
 8/26 琉球政府「ハンセン氏病予防法」を公布 退所規定、在宅治療規定を明文化
  9月 神山復生病院婦長井深八重、ナイチンゲール賞受賞
1962(昭和37年)   1/3 琉球政府がハンセン病回復者を病院・保健所に職員採用すると発表
  2/1 全患協ニュースが医師不足から来る低医療を数字で示す「ハンセン氏病療養所医療従事者白書」
 3/13 東北新生園で「社会復帰研修」東北農場の鍬入れ式
 3/18 NHKで「日本の顔―閉ざされた島(愛生園取材番組)」放映
 4/23 「藤本事件」三回目の再審請求(偏見と予断に満ちた事件である)
 6/15 全患協ニュース「藤本事件特集号」発行↓
 9/13 三回目の再審請求が却下される↓
 9/14 「藤本事件」の藤本松夫午後1時17分死刑執行される (福岡拘置所) 
 9/16 全患協抗議声明文発表、厚生省へ抗議(9/22)各園で抗議集会が開かれる
11/10 衆院法務委員会で坂本議員が中垣法務大臣を追求(内容はここから検索出来ます。1947年の欄参照
12/10 全患協「らい予防法研究会」を発足
12/10 琉球政府はハンセン病患者家族に生活保護法を適用
1963(昭和38年)
1964(昭和39年)
1965(昭和40年)
1966(昭和41年)
1967(昭和42年)
1968(昭和43年)
1969(昭和44年)
1970(昭和45年)
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2000(平成12年)
2001(平成13年)
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