自己紹介をグレード・アップ,私自身をもっと曝け出そうというコンセプトで設けたコーナーです。
 プライベートや人生観の告白,評論,学術的レポート,自己主張やオピニオン公開など,徒然なるままに書き散らしてみます。
 常にどのテーマも未完成,気が向いた時に加筆・修正,自由気侭に進めていきます。

 興味や関心がある事について自由に綴ってみようと思います。
 まずは大好きな吹奏楽から。
 突然ですが,最近マイネル・ウェストン2265が欲しくて欲しくて仕方ありません。
 そう,知る人ぞ知るC管チューバの名器です。
 高価な楽器なのでなかなか踏ん切りがつきません。
 どこかの吹奏楽団に所属しているわけでもなく,最近は聴く事だけに専念しています。
 鑑賞ばかりだと無性に吹きたくなってくるのですが。
 東京佼成ウインドオーケストラのファンなので,CDは何枚も持っていますし,生演奏を聴きに出掛けたりもします。
 オリジナル,アレンジ問わず,いろいろな吹奏楽曲を聴いています。
 全日本吹奏楽コンクールの課題曲も毎年欠かさずチェックしています。
 コンクール金賞受賞を目標に課題曲と自由曲を吹いていた学生時代が懐かしいです。
 課題曲といえば,自分自身ある程度齢を重ねているため,数多くの課題曲が頭に入っています。
 一番お気に入りの課題曲,それは保科洋氏の名曲「風紋」です。
 当時としては珍しく,演奏時間が5分前後もかかる長編課題曲でした。
 印象派音楽を感じさせる作品で,演奏の最中いろいろな情景をイメージしていた事を思い出します。
 十数年後課題曲版では省かれた部分があった事を知り原典版を耳にする事になった,ある種いわく付きの作品でもあります。
 管弦楽に比べると吹奏楽はその多くを知られていないような気がします。
 吹奏楽は管弦楽より歴史は浅い訳ですが,合奏理論の発展や優れた作品の登場により現在のスタイルが形成されてきました。
 僅か,ここ半世紀の内にです。
 フレデリック・フェネル氏や伊藤康英氏など数多くの音楽家の尽力により現代吹奏楽の概念が確立されました。
 金管楽器と打楽器から構成されるブラスバンドとは大きく異なるのですが,最近は随分この事が認識されるようになりました。
 私は吹奏楽の響きをこよなく愛しています。
 サクソルン属に分類される楽器サクソフォーンとユーフォニアムが加わり,まろやかな中音域のサウンドがブレンドされます。
 管弦楽とは異なる音色(おんしょく)がとても魅力的です。
 今の吹奏楽文化が定着し,ウインド・オーケストラがシンフォニック・オーケストラと同等の地位を築き上げる事を願っています。
 管弦楽曲も好きですが,現代音楽や管楽器(特にブラス・セクション)が活躍する作品に耳を傾けてしまいます。
 ウィーン・フィルやベルリン・フィル,シカゴ響やボストン響,心地よい響きを提供してくれます。
 日本は世界の中でも吹奏楽の愛好家が多くその活動が非常に盛んな国であると言えます。
 特に,ここ四半世紀の内にアマチュア演奏家の技術水準が格段に向上してきました。
 日本における吹奏楽人口がこれだけ多く演奏技術の水準がここまで向上してきた要因はどこにあるのでしょうか。
 音楽家や演奏家の努力もさる事ながら,やはり学校教育における音楽活動,吹奏楽の推奨が大きいでしょう。
 現在,ほとんどの公立中学校,公立高等学校には,部活動(課外活動)の位置付けで吹奏楽部が設けられています。
 さらに,ほぼ例外なくそれらの学校(大人であれば,市民バンドや大学・職場の吹奏楽団)は全日本吹奏楽連盟に加入します。
 そして,連盟が主催する幾つかのコンクールに出場し賞を競うのです。
 そうです,音楽活動であるにも拘らず,それを通して賞を競い順位を競い合うのです。
 地区大会,地方大会,全国大会と勝ち進んでいく様は,野球部やサッカー部など運動部のそれ宛ら。
 確かに,子どもや学生が吹奏楽(芸術,音楽として)で競う事に対しての批判はあります。
 しかし,コンクールでよりよい演奏ができる事を目標として日々練習を積み重ね努力するのは決して悪い事ではないと考えます。
 そこには大きな教育的効果,演奏技術の向上,吹奏楽の発展につながるものが数多くあるのではないでしょうか。
 さて,話題を変えてみましょう。
 学校教育について研究を深めるため,僕は「埼玉教育塾」の会員になっています。
 諏訪哲二氏,河上亮一氏など有名な先生方が名を連ね,講演会や会報は非常に勉強になります。
 現場での経験をもとに教育を哲学するというスタンスに共感しています。
 教育とは何か,教師とは何か,人間とは何か,いつも考えさせられます。
 諸先生方とともに,教育者としてのあるべき姿を追究しています。
 会の思想と重なるところがありますが,ここで私の教師論を述べたいと思います。
 戦後間もない頃や高度経済成長期の頃に比べると,現在の学校教育はどうでしょう。
 教育活動は極めて成し遂げにくくなっています。
 この傾向は今後ますます強くなり,それを放置しておくと間違いなく日本の学校教育は崩壊します。
 教育とは何かを考える時,望まれる結果や理想ばかりが論じられてはいないでしょうか。
 現実の教育活動は人間対人間による営みであり,非常に生々しいものなのです。
 学校における教育活動が機能不全の危機に瀕しています。
 その原因は,学校教育や教師,学校そのものに対する価値観の急激な変化にあると言っていいでしょう。
 かつて教師と生徒または教師と保護者との間には垂直な関係が成り立っていました。
 憧れや反感など様々な思いを抱きながらも,生徒にとって教師は目上の存在でした。
 自分より多くの知識と技能を持ち,たくさんの事を教えてもらえる存在として疑いませんでした。
 そこには,年輩の方に対する畏敬の念と学ぶ人間としての謙虚な姿勢が自然と身に付く雰囲気がありました。
 保護者も教師を信頼し,子どもに「先生の仰る事をしっかり聞きなさい」という言葉掛けをしていたものです。
 現代の日本社会において,かつて牧歌的な雰囲気の中で成立していた教育観や教師像はほぼ存在しません。
 未だ「個」ならざる子どもに社会性の体得を強制し,近代市民としての「個」を形成させていくという営みがあります。
 これこそ近代公教育の目標,レーゾン・デートルであり,いつの時代にも通用する真実であると私は考えます。
 しかしながら,現代日本における昨今の学校では,この価値観は通用もせず共有もされないようです。
 近代化の時代は終焉を迎え,今の日本社会はもうポストモダンの段階にあるのでしょうか。
 そして,諏訪哲二氏が指摘する「消費社会」のありようが教育界にも浸透し始めているのでしょうか。
 近代化が成し遂げられ社会が豊かになり「消費社会」の段階を迎えると,教育も商品化されるようになります。
 消費者(児童・生徒)のニーズに応え,顧客(子ども・保護者)を満足させるサービス(教育)の提供を,という事になるのです。
 教育価値が商品価値と同等に,学校価値が企業価値と同等に扱われるようになるのです。
 学校教育と市場原理と言えば,私自身研究・分析を進めている事柄があります。
 その研究主題は「学習塾化する学校と学校化する学習塾」です。
 次に,芸能活動について触れてみましょう。
 現在,名古屋に拠点を置く芸能事務所に所属しています。
 演劇のレッスンを受けたり芸能のいろはを勉強したりして,夢の実現に向けて頑張っています。
 仕事が貰えるのを待っているだけでは駄目で,積極的にオーディションなどに参加する必要があります。
 そう簡単に願いが成就するわけではありません。
 夢は大きく映画俳優になる事で,本格的に芸能活動ができる芸能界に入りたいと思っています。
 芸能界に対しては,夢や希望,憧れを持つ事ができます。
 ゴシップやスキャンダル,マスコミを通しての私生活や個人情報の露出,複雑な人間関係。
 難しい事や芸能界ならではの影の部分も必ずあるでしょう。
 現在の所しがない一高等学校教員ですが,生活のための勤労という意識しかなく,この職業に対する魅力は最早ありません。
 常に夢を追い掛けたいと考えています。
 生活のためと割り切る本業では漫然としがちな毎日ですが,休日や休暇の時間を使って教養を高めようと努力しています。
 具体的には,映画鑑賞や芝居(舞台)観劇です。
 今後は,落語や歌舞伎など日本の伝統芸能にも関心を広げようと思っています。
 落語や歌舞伎と言えば,所属芸能事務所でのレッスン,発声と滑舌の練習メニューの中で,次のような題目があります。
 落語の前座話として有名な「寿限無」と歌舞伎十八番(七代目市川團十郎が選定した家の芸)の1つである「外郎売」です。
 どちらも発声練習には最適なメソッド,そして優れた古典芸能作品であると思います。
 私は,早口で練習したり抑揚を付けて練習したりしています。
 芸能事務所のレッスンでは,普段の生活では得られない情報を入手し自分の糧にする事ができます。
 大学や大学院における講義さながらのアカデミックな内容もあり,充実した思いにさせてくれます。
 演劇指導にも理論と実践があり,どちらも大切にしながらレッスンを受けなければなりません。
 私自身は理屈っぽい人間なので,身体をフルに使うよりも頭で考えて演技してしまいます。
 バランスとその妙が重要であると先生方から教えをいただきます。
 また話題を変え,次は思想と哲学について綴りたいと思います。
 興味・関心と言うより,私自身の生き方,私たるアイデンティティを考える事柄になります。
 突然ですが,人間は生まれながらにして「善」でしょうか,それとも「悪」でしょうか。
 私自身,自分の生い立ちを振り返ると,基本的には「性善説」に立つ考えの下で育てられ教育されてきたような気がします。

 学生時代に「男なら,政治を語れ,政治家を目指せ」と言われていたものです。
 その頃は恥ずかしいほど社会科学痴であった私,政治にはまったく興味はありませんでした。
 しかし,歳をとったのでしょうか,この歳になってようやく政治,経済,外交,国際政治が気になるようになってきました。
 主題に「最近の日本」を設定し,考えるところを書き綴ってみましょう。
 日本の政治について語るにしても,戦後,殊に田中内閣が終わって以降の政治は今一つ魅力に欠けます。
 なぜなのでしょうか。
 時間の経過に伴う過去の事象に対する記憶や懐古の念の有無もしくは強弱によるものなのでしょうか。
 前近代または近代化途上の社会情勢と近代化を成し遂げた後の社会情勢,それらの違いによるものなのでしょうか。
 戦後,高度経済成長期の忙しい人々の営み,バブル崩壊,所謂「失われた十年」で疲弊した人々の営みの差なのでしょうか。
 いずれにしても,戦後はアメリカのエピゴーネンと化した我が国です。
 日本らしい独自の政治・政策が極めて少なく,その事が今のもどかしい気持ちの源泉になっているのかもしれません。

 公開自分史のコーナーです。
 生を受けた人間は必ずいつの日か死を迎えます。
 命に限りがあるから,いかにして生きるのかを考えるのです。
 そして,生きる歓びを感じるのです。
 確実に存在するものは,今ここにある自分自身です。
 過去は現在の中に内包されており,未来もその実体はなく現在の中にのみ存在しています。
 時空論もしくは宇宙論によると,時間と空間の概念が実に奇妙な関係で述べられています。
 時間があっての空間であり,空間があっての時間であるという世界観です。
 我々が今この瞬間に存在しているところの時空。
 この時空が誕生する前,空間はもちろん時間すらない「無」であると捉える世界観です。
 時空とは何か,時間とは何か。
 生とは何か,死とは何か,そして自分とは何か。
 いくら考えても結論らしきものは見えてきません。
 現在の中にのみ存在する過去を,自分の歩んだ確かなる歴史を,ここに記録したいと思います。

 大学受験のあれこれをユビキタスに語ってみたいと思います。
 まず,東大現役合格を目指す場合どうすればよいのかについて考えてみましょう。
 教育行政の思いやねらいから遠く離れたところで,いや寧ろねらい通りに,日本の学校は二極分化が進行しています。
 進学塾化している学校とその傾向が見られない学校にです。
 競争原理の下で進学実績向上を戦略に掲げる中高一貫私立学校。
 抜本的な入試改革で伝統の継承または復古を目論む有名公立高校。
 確かにこれらの学校では東大合格者を数多く出しています。
 実績のある学校に入学する,それが東大現役合格の夢を叶える一つの手段である事は間違いないでしょう。
 さて,これらの学校はどこが違うのでしょうか,東大合格に直結する要因とは果たして何なのでしょうか。
 的確で標準より随分早い進度と問題演習を重視した授業に秘密が隠されています。
 数学と英語,そして古典についてどのような位置付けがなされているかで,進学校としての頑張り具合が決まります。
 習熟度別授業や少人数制が実施され,生徒の能力を引き出す環境が整っている事も大切なファクターであると言え ます。
 ただ,習熟度別授業については慎重な見方をする必要があります。
 アビリティ・グルーピングやトラッキングは欧米生まれの授業形態です。
 能力主義,合理主義,結果主義という西洋文化が滲み出るイデオロギーに基づいています。
 習熟度別授業は合理的・効率的で,確かに理に適っていると言えるかもしれません。
 しかし,精神面または心の問題を考慮した時,果たして習熟度別授業は本当に子ども達にとってよいものなのでしょうか。
 進学校や中堅校というように,子どもの実力に合わせて学校単位で振り分けられるのは理解できます。
 1つの学校の中で,何かの縁で一緒になった同じ学校の生徒の間で,という点に問題があるような気がします。
 私自身経験がないので真の気持ちは掴めませんが,多感な思春期を送る生徒に対し能力別を露骨に出してよいのでしょうか。
 周囲を見下す歪んだエリート意識が芽生えたり,逆に自信を喪失し自暴自棄になったりする可能性はないのでしょうか。

 数学教育や自然科学教育を生業としていますので,それらに関するネタを提供させてもらいます。
 はじめに,n進数と日常生活についての一考察。
 Webセーフカラーでお馴染みの16進数,つまりn=16についてです。
 表現法の観点で16種類の文字記号が必要なので,ここでは0〜9に加えてA〜Fを用いることにします。
 さて,16進数の九九とも言うべき「FF」を考えてみましょう。
 Fの段は,F×1=F,F×2=1E,F×3=2D,F×4=3C,F×5=4B,…,F×F=E1となります。
 極めて興味深い結果になります。
 もうお気付きの事と思いますが,これは一般にn進数の(n−1)の段についても成り立ちます。
 つまり,(n−1)×1=n−1,(n−1)×2=1×n+(n−2),…,(n−1)×(n−1)=(n−2)×n+1により証明されます。
 続いて,n=10000の場合。
 10000進数(万進数とも言われます)ですが,あまり聞き慣れないのではないでしょうか。
 しかし,10000進数は日本人には欠かせない概念であり,普段の生活で頻繁に使われています。
 例えば,高等学校理科で話題になるアボガドロ数。
 その概数は,602214199000000000000000。
 10進数表記はとても読み難いです。
 それでは,これを10000進数に変換しましょう。
 6022垓1419京9000兆0000億0000万0000。
 読み易くなったのですが,実はこれ,正確には10000進数ではありません。
 トリッキーな話になるかもしれませんが,これは10進数のまま何も変わっていないのです。
 算用数字0〜9を含めて10000種類の記号を用いてこそ真の10000進数であると言えます。
 6022=※,1419=@,9000=$と定義すると,アボガドロ数は10000進数で※@$000と表現される事になります。
 何と驚いた事に,あのアボガドロ数が6桁で表記されるのです。
 垓の位が※,京の位が@,兆の位が$という按配です。
 ところで,垓から先の高い位はどのようになっているのでしょうか。
 江戸時代初期の和算書『塵劫記』によると,日本版変則10000進数の各位が次のように紹介されています。
 一の位,万の位,億の位,兆の位,京の位,垓の位。
 抒の位,穣の位,溝の位,澗の位,正の位,載の位,極の位。
 恒河沙の位,阿僧祇の位,那由他の位,不可思議の位,無量の位,大数の位。
 9876543210987654321098760000000000000000000000000000000000000000000000000000。
 この数を読むと,9876大数5432無量1098不可思議7654那由他3210阿僧祇9876恒河沙になります。
 あくまでも10進数ですが,読み易さという点でこの日本版変則10000進数の考え方は大変素晴らしいと思います。
 他にもこれによく似た考え方があります。
 情報機器ではお馴染みの次の記号が例として挙げられます。
 1K(キロ)=1,000,1M(メガ)=1,000,000。
 1G(ギガ)=1,000,000,000,1T(テラ)=1,000,000,000,000。
 1P(ペタ)=1,000,000,000,000,000,1E(エクサ)=1,000,000,000,000,000,000。
 1Z(ゼタ)=1,000,000,000,000,000,000,000,1Y(ヨタ)=1,000,000,000,000,000,000,000,000。
 飽くまでも10進数であり読み易くするための工夫,これは変則1000進数と言えるものです。
 これを用いて前出のアボガドロ数を表すと,602Z214E199Pとなります。
 コンマを使った位取りもこの考え方に似ています。
 実はこれらの記号,情報機器の世界では上記のものと異なる扱いがなされるので非常に厄介です。
 8ビット,256通りを意味する1バイトという考えがあります。
 この単位を用いると,変換が次のようになります。
 1キロバイト=1024バイト。
 1メガバイト=1024×1024バイト。
 1ギガバイト=1024×1024×1024バイト。
 この規則性でもって1ヨタバイトまで定義されていくのですが,何と1000倍の繰り返しではなく1024倍の繰り返しなのです。
 1バイトつまり256通りは2進数表示に対応させると,00000000から11111111までの8桁(256個)となります。
 そして,1キロバイトつまり2の8192乗通りは8192桁(2の8192乗個)の表示に対応するのです。
 つまり,キロ,メガ,ギガ,…と変化するごとに,対応させた2進数表示では1024倍ずつ桁数が増加していくという事なのです。
 2進数が登場してきた所で,次にn=2の場合について考察してみましょう。
 2進数とは0と1だけを用いて表す数の事ですが,2の冪数に注目すると実に興味深いのです。
 物理量1atm(気圧)=1013hPa(ヘクトパスカル)で馴染みのある数1013を例にしてみましょう。
 1013=512+256+128+64+32+16+4+1。
 1を含めた2の冪数4,16,32,64,128,256,512(すべて1個ずつ)の和で表されています。
 このように,すべての自然数は1を含めた2の冪数の和で表されるのです。
 この命題は数学的帰納法により証明する事ができます。
 ここで,2の冪数の指数を負の整数まで拡張し,新たな進数の定義を試してみます。
 0.1=0.5,0.01=0.25,0.001=0.125,0.0001=0.0625,…という具合に対応させます。
 そして,0.11=0.75,0.0011=0.1875のように考えてみるのです。
 この規則に従って0と1の間にある任意の数を対応させられないか考察を試みましたが,通常の2進数のようにはいきません。
 例えば,0.1は決して0.0625や0.03125,0.00390625などの和で表す事はできないのです。
 さて,次はn=60つまり60進数についてです。
 日常生活に密接に関わる事例がある事は言うまでもないと思います。
 そうです,秒や分といった時間の単位です。



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