牧師の覚え書き

 


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『祈る人』 11月23日(土)

 

『しかし、主は、
「わたしの恵みは、あなたに十分である。
というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」
と言われたのです。
ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、
むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』
コリント人への手紙第二 12:9 

 

 今日、ある会社で働いているクリスチャンのビジネスマンの方にお会いしました。
 不況の中ですから、お仕事大変でしょう、とお尋ねすると、ええそうなんです、本当に大変です、とおっしゃいました。

 しかし、顔を輝かせてこう言われました。「会社でも祈ってるんですよ。」と。
 次から次に起こって来る難しい局面に対して、もはや自分の力ではどうしようもできないと分かったので、神様に知恵を下さい、と祈っていること、そして神様が実際に守ってくださっている、ということを本当にうれしそうに話して下さいました。

 こんな大変な仕事をしてるんだぞ、とか、むつかしい局面を切り抜けたんだぞ、というような自分を誇るような部分はどこにもなく、ただただ神様により頼んでいる誠実な喜びがうかがえました。

 冒頭の聖句を、改めて思い起こさせられました。

 

 

 

『人の目。神の目。』 11月21日(木)

 

わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。」
イザヤ書 43:4 

 

 私はかつて、どうしたら人から愛されるだろうか、といつも考えていました。

 そして、人から見てほめられるようなことを心がけていました。
 もともと本を読むのが好きでしたが、小学校のとき、図書館の貸し出し冊数を多い人が表彰される、ということを聞きました。
 私は、その日から一日二冊本を借りました。
 読みきれないときもありましたが、それでも借り続けました。
 表彰されたかったからです。

 そういう性質はずっと続き、いつも人からの評判を気にして成長しました。
 しかし、これは大変難しいことでした。
 というのは、人の価値観というのはまちまちで、誰かの気に入るようにしていたら、他の人の基準に合わなくなってしまうのです。

 聖書の神の語りかけを知ったとき、本当に驚きました。
 私の知らない世界がそこにありました。
 神は、「あなたが〜ができたら愛そう。」とは言われないのです。
 理屈ぬきで、「あなたはわたしの目に高価で貴い。」と言われるのです。
 この語りかけは、なかなか受け入れられるものではありませんでした。
 しかし、教会に通い、聖書を読む中で、だんだんと受け止められるようになりました。

 そして今では、このような無償の愛こそがほんとうの愛なのだ、と言うことができます。理屈ぬきでその人のことを大切に思える、そうでなくては「愛」とは呼べないのだ、と。

 この愛が分かるようになってから、誰かに愛されるために偽りの努力をせずにすむようになりました。
 それは私にとって、本当に大きな解放でした。

 

 

 

『ハンナの祈り』 11月20日(水)

 

「このはしためを、よこしまな女と思わないで下さい。
私はつのる憂いといらだちのため、
今まで祈っていたのです。
サムエル記第一 2:16 

 

 冒頭のことばは、大預言者サムエルの母、ハンナの言葉です。

 彼女は不妊の女でした。
 夫にはもう1人の妻がおり、そちらには子どもがありました。そして、その妻はハンナを憎み、子どもを産めないことで、ずいぶんとハンナをいじめたのです。

 どろどろとした人間関係の中でいらだち、悩む、ということは私たちもみな経験するところです。
 やりばの無い感情のはけぐちとして、陰口を叩いたり、派手に遊んだりして気持ちを紛らわそうとしたりもします。しかし、決してスカッと気持ちにはならないでしょう。

 ハンナという人は、大預言者の母になるにしてはずいぶん平凡な女性でした。しかし、唯一つ非凡なところを持っていました。彼女は、一切の憂いやいらだちをそのまま神に打ち明けることをしたのです。

 神は、彼女の祈りを確かに受け止めてくださいました。そして、預言者サムエルが誕生するのです。彼は、ダビデ王に任職の油を注ぐ非常に重要な働きをします。

 神は、非凡な聖人君子を用いられる方ではありません。
 幼子のように、あるがままを神に打ち明け、心を尽くして神により頼む人を、神は用いられるのです。

 私たちはいろいろと奇麗ごとを語ることもありますが、ふたを開ければみな、自分のことしか考えないエゴイストです。どろどろとした感情も少なからずあります。
 そのあるがままの弱さ、情けなさを、どこにも持っていけずに悩んでしまいます。

 しかし聖書は、それらをすべて神のもとに持って行き、打ち明けよ、と勧めます。
 どれほど汚らしい現実であったとしても、神はそれを受け止めて下さるのです。
 イエス・キリストは、弟子たちの足許にひざまずき、その足を洗うことまでされました。一番汚い所をも、受け止めて洗ってくださったのです。

 あなたは今、どんな憂いの中におられますか。
 神は、あなたのすぐ側で、あなたの心の声を聞こうとしてくださっています。

 「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。
あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。
神は、われらの避け所である。」
詩篇62:8
 
 

 

 

 

『花婿の友は悲しまない』 11月19日(火)

 

「イエスは彼らに言われた。
『花婿が自分たちといっしょにいる間、
花婿につき添う友達が断食できるでしょうか。
できないのです。』

マルコの福音書 2:19 

 イエス・キリストの時代、ユダヤの宗教家は断食を重視していました。
 「断食」は、悲しみを表現するための特別な方法で、神の前に自分の罪を嘆くためになされました。

 洗礼者ヨハネの弟子たちは、はっきりと自分たちの罪を神の前に認め、熱心に断食をしていました。
 また、パリサイ人と呼ばれる宗教家たちも、週に二度も断食していました。これは、どちらかというと、自分たちの敬虔さを示すアピールではなかったか、と言われています。
  ところが、イエス・キリストの弟子は、ちっとも断食をしなかったのです。それどころか、宗教家から見ると眉をひそめたくなるような下賎なものたちとともに食卓を共にしたりするのです。
 納得できないヨハネの弟子たち、パリサイ人たちが、キリストのこのことを問いただしに来たときの返事が、冒頭の聖句です。

 キリストは、ご自分の弟子を「花婿の友人」である、とたとえました。
 花婿の友というのは、イスラエルの結婚式では大切な役目です。
 そもそも、イスラエルでは結婚に先立って婚約がなされるのですが、この契約は絶対的なもので、男女は法的に夫婦として定められます。けれど一緒に暮らすわけではありません。一定の期間の後、待ちに待った婚礼の時を迎えます。このとき、花婿と友人たちは花嫁の待つ家へ迎えに行き、盛大な祝宴が開かれるわけです。
 たとい、そのときがイスラエルの断食の期間であっても、彼らはその決まりから免除されたと言われます。

  「花婿の友人」の仕事は、待ちに待った喜びの時をを祝うことだったのです。

 このたとえによって、悲しみの断食の時代は、もう終わった、とキリストは教えたのです。救い主である私が来たのだから、と。

 これは、私たちにも大きな恵みを伝えてくれる教えです。
 私たちは、決して担いきれない自分の罪の大きさを、自分の努力で処理しようとしまいます。しかし、いくら嘆いても、悲しんでも、その罪の汚さ、深さは払拭できません。
 キリストは言います。花婿の友人は悲しんではならない、と。
 私たちのすべての罪を贖うために、救い主は来られたのです。その赦しをまっすぐに受けとめて、感謝して喜ぶことが求められているのです。
 罪を深く自覚している人ほど、この感謝は大きなものとなるでしょう。

 キリスト教会において、イエス・キリストを境に断食の意味は変わりました。それまでは、悲しみを表す断食が、神のことばをもっと深く受け止めたい、という積極的な気持ちから来る自発的な作業になったのです。

 神は、あなたのすぐそばにきてくださっているのです。
 そして、あなたが祈り求めるなら、必ず答えてくださる方です。

 もしも、あなたが聖書に書かれてあるイエス・キリストを素直な心で受け入れるならば、あなたは「花婿の友人」なのです。
 深い愛と赦しに包まれて、心から感謝して歩むことが許されているのです。
 
 

 

 

 

『秋からの贈り物』 11月16日(土)

 

「神のなさることは、
すべて時にかなって美しい。

伝道者の書 3:11 

 

 教会の庭にケヤキの木があって、一年間に4つのプレゼントをしてくれます。
 春には新緑を、夏には涼しい木陰を、秋には色づいた輝きを、そして秋の終わりに落葉を。

 毎日のようにたくさんの落ち葉が庭に降り落ちてきます。子どもたちはせっせと葉っぱを集めて、火をつけます。そして、焼き芋を焼くのです。

 どんなに気温が低くなっても、子どもたちは寒くなりません。忙しく葉っぱを集めますし、焚き火は暖かですし、なによりあつあつの焼き芋が体を温めるからです。

 ある女の子が焚き火のそばで、「神様やこ、おらんのんで」と言います。すると他の男の子が、「ところが、おるんよなあ」と応じます。「おらんわ。」「おるんよなあ。」とやっています。

 秋の昼下がり、落ち葉炊きの時間はゆっくりと流れていきます。
 

 

 

『N兄の召天』 11月15日(金)

 

私たちは、見えるものにではなく、
見えないものにこそ目を留めます。

コリント人への手紙第二 4:18 

 

 しばらく更新をお休みし、申し訳ありません。

 月曜日の深夜、教会の愛する兄弟が天に召されました。
 昨日の葬儀まで、このことに気持ちを集中していたのです。

 N兄は、本当にすばらしい兄弟でした。病室にお見舞いに行った私が、かえって慰めを受けるような配慮と明るさをお持ちでした。
 最後まで、死を恐れたり、不安になることはありませんでした。
 死の向こうにあるのぞみを確信されていました。

 書き残されたものの中に、冒頭の聖句が記されていました。
 そして、「私は全能の神に見出された。それだけで生きた甲斐があった。」と書き加えられていました。
 N兄が指し示した方向、永遠の神の国に目を向ける時、別離の悲しみに大きな慰めを得る思いでした。

 葬儀の時の牧師の働きは、様々です。
 新米の私としては戸惑うこともありました。
 しかし、ひとつのはっきりとした使命があることを今回は教えられました。
 それは、召された方が残された聖句を、葬儀に集まったかたにまっすぐに解き明かす、ということです。

 それが、私のなすべき、愛兄への恩返しなのだ、と分かりました。
 前夜式、葬儀において、書き残されていた聖句から、福音の持つ望みについて、語らせていただきました。

 N兄は、病室から私に何度も電話を下さったり、蔵書を分けてくださったりして、駆け出しの牧師の成長を促してくださいました。

 そして、信徒の死に際して牧師の使命は何か、という大切な学びを今回はさせて下さいました。
 最後までお優しい方でした。

 

 

 

『虹を見る少年』 11月9日(土)

 

そのとき、イエスはこう言われた。
『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。
これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、
幼子たちに現わしてくださいました。』

マタイ 11:25

 

 今日、虹を見ました。
 小学校の校庭で、子どもたちと遊んでいた時に、2度も見ることができました。
 
一年ぶりに見たので、少なからず感動しました。

 その虹は、私が見つけたのではありません。
 
1人の、あまり体の強くない子がいて、野球をしていても上手く投げたりすることができず、同じチームの子をいらだたせたいたりしたのですが、その子が、「あ、虹だ。」と言って指差したのです。

 二度現れた、その二度とも彼が見つけました。
 彼は、運動は苦手でしたが、虹を見つけるという、別種の能力を持っていたのです。

 誰よりも早く虹を見つけることは、それほど難しいことではありません。
 ゆったりと空を眺めていればいいのです。

 しかし、私も他の子も、ボールを追ったり、ベースを踏むのに忙しくて、だれも空を見上げたりしなかったのです。

 もしも彼が野球のできる子で、空なんか見上げずに勝負の行方に集中していたら、私はきっと空に広がる美しいものを、聖書では神と人との平和の約束のしるしとされた七色の光を、見逃していたのでしょう。

 

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