まえがき


  「空気」の存在が常識になったのはいつのころなのだろう。昔の人々にとって、「空気の存在」などということはまったく意識されなかっただろう。日本語の「空気」という単語自体いかにも近代の造語臭い。日常感覚から出てきた言葉でないことはたしかである。このHPのテーマにも似たところがある。つまり、言いたいことをうまく表現できない自分に気がつく。凡々と日常を過ごしてきた自分には使える言葉がないのだ。自分では最も日常的だと感じていること感覚を日常語では表現しにくい。 ついつい、宗教的ともいえる匂いのついてしまった言葉に頼ろうとしてしまう。  
  ところが、ここ日本では宗教とは、いかがわしい独りよがり、迷妄信、よくて葬祭儀礼を司る伝統様式くらいにしか思っていない人が大部分だ。人々の多くは宗教的な意識とはまったく無縁で日常をすごしている。ここまで何度か「宗教」という言葉を使ったが、それだけのことでこの後を読んでもらえないかもしれない。使う言葉によっては、それだけである種のよくあるタイプの人間であろうと予断されてしまう。私自身は宗教(既存のものを言っているわけではない)とは、人間の心の最後の支えとなるものだと思っているが。
   しかし、このこと(Top Pageの池田晶子さんのエッセーに登場する若い女性の言葉)に人生のどこかで気がつく人も多くいるらしい。   私は昔学生時代に級友たちにそんな話をむけてみたが、2人に1人とは言わないまでも、3人に1人くらいの割合でこのことを意識したことがあるようだった。ある男など「唯識論」まで話してくれた。あたりまえといえばあたりまえかもしれない。我々は生きてここにいるのだから、自分およびいっさいの存在についてなにか感じるときもあるはずだ。(こことはどこなのでしょうね)
 しかしこのことに気がつかなかったからといって、人生をおくるのに何の不都合もない。政界、実業界、学界、・・・・・・・どんな分野であれまったく関係ないようだ。気づいた人にとっても人生の業績のすべてはその後にくる。
個々の人間を支えているのは、まず生物としての存在、生活を保障されていることであり、多くの人たちはそれで終わる。それで
よしとする。
私自身について言えばこのことに気づいたからこそ生きてこれたようなところがある。気づいたこと自体ではなく、それによって得た心の状態にまちがいなく助けられている。 しかし、そういったことは日ごろ口に出せない。 それに、それは私自身のきわめて個人的なことだ。
  大事なことはこのことが人間の日常の感覚になることだ。そうなれば、人間社会はかなり変わるはずだメインページに出てくる金子みすずは、26才で自殺したが、そのような悲惨な抑圧などなくなるだろう。 こどもたちも今とはまったく違った教育、扱いをうけるはずだ。多分我々は今はまだ、まったくの未開状態にいるのだ。
ここまで読んでくださったごく少数の方々にお願いします。このことにすこしでも触れていると思われる事例をおくってください。あなたがそう思っただけで充分です。それと、もちろんあなたがこのことに気づいたそのときのことも。このことに気づいたときあなたは心身に衝撃をうけたかもしれません。「なるほど、そういえば、そうですね。」と、うなずく程度のことではなく、理解、納得、畏敬、戦慄、法悦、・・・どの語も適当ではない心(身)の状態があるようです。 実際にはそのあとが大事なのでしょうがそれについては記述はご自由に。危なくなってきたのでもうやめます。 メインページを豊かにすることに協力してください。             KK
  メインページでは、ここ数年で、目にして気になったものを並べました。私は読書家ではないし、探して見つかるものでもないし、また、他にもたくさんあったはずですがメモすらとらなかったのでいまのところおそまつです。宗教書や哲学書からの引用は一切していません。メインページの各項を並べた順序には何の意味もありません。思いついたままです。


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