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| ニュージーランドに住み始めて3年半が過ぎました。当初はあれこれ戸惑うことばかりで、とにかく慣れなければ、という感じでした。そして、きっといつか慣れるだろうと楽観していましたが、いまだに新しい発見の連続です。 「同じ人間なんだし、根本はそんなに違わないはず」と思っていたのですが、どうやらそれは間違いだったようです。例えば犬にもいろいろな種類があって、それぞれ気質や特徴があるように、人種によって生まれ持った違いが存在している気がしています。 例えば、気温に対する感覚が違います。白人は、真冬にTシャツに短パンで(それも雨の中)歩いていたり、私だったら冷たくて飛び上がるような冷たい水温のプールで平気そうに泳いでいます。ニュージーランドの気候に慣れているから、というだけではなく、脂肪の質や厚み、皮膚の丈夫さが、根本的に違うようなのです。体温も日本人より一度ぐらい高く、37度あたりは平熱の範疇らしいです。 |
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そういえば学生時代、ドイツ人の先生がやたらと暑がって、真冬でも窓を開けたがっていたのをふと思い出しました。あのころは「変わった人だなあ」と思っていただけでしたが、たぶんヨーロッパ系白人の平均的な感覚だったのでしょう。一方、ものすごく重ね着をしているのは、中国人が多いようです。もちろん個人差があるはずですが、そういう生まれ持った人種の違いを感じるようになっています。 また、ニュージーランドに住むことで、自分にすりこまれた日本人としての習慣や文化を意識せざるをえないようになりました。以前に読んだ「子供の異文化体験」(箕浦康子著)という本に、「同じ文化の中で暮らしている人の間には、人と人との係わり合いの場面で、こういう時にはこのようにするという暗黙の前提があり、これが相互交渉のスムーズな展開を助ける。このスムーズさゆえに、同じ文化の中では、かえって自分が暗黙のうちに使っている文化文法を自覚するチャンスが無い。 日本社会にどっぷり浸かっている限り、『日本で育つ』とはどういうことなのかは、十分に認識されない。日本の外に出て、初めてその意味を了解する」というくだりがあって、「ああ、なるほど」とひざを打ちました。 |
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例えば、床に関する概念も、たいていの日本人が最初にびっくりする文化の違いの一つでしょう。「土足は汚い」をたたきこまれている日本人は、室内に入るのに靴を脱がないことに対して抵抗を感じ、靴を脱ぐ習慣を継続している家庭が多いです。ましてや、ベッドに靴をはいたままねそべったり、脱いだ靴を洋服と一緒に袋に入れたりするなんて、もってのほかです。でも反対にこちらでは、靴を脱ぐということは、洋服を脱いて下着を見せるような気がする、という人も多いです。以前、我が家を訪れたキウイに靴を脱ぐようにお願いしたら、「これは宗教としてか?」と真顔で聞かれて、当惑しました。 |
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もっとも、こちらでも室内では靴を脱ぐという家庭は結構あります。でも、外でも靴をはかずにはだしでぺたぺた歩く人も多いのです。そしてその裸足のまま、室内に入ってきます。ようするに、「土足」、そして「土足は汚い」という概念が存在しないのです。さすがに裸足で街中をうろうろする人たちにはいいかげん慣れましたが(なにしろ学校の遠足のお知らせに「遠足には靴をきちんとはきましょう」とあるほど)、公衆トイレや魚屋の濡れた床の所にまで裸足で入ってくるのを見ると、「ああ、私にはできない」と今だに思います。 それ以外にも、「折り返し電話をします」と言われたら、99%はかかってこないとか(だから、たまにきちんとかかってくると、すごくうれしい)、不良品の返品でも、99%は謝らないとか(たしかにその店員さんのせいではないが、日本だったらきっと「申し訳ありませんでした」の一言はあるはず)、いくらでも日本とは違うところはあります。でも、それは日本とは「違う」だけであって、日本から離れるという選択肢を選んだ私の場合、そういうことでぐちはいわないようにしようと心掛けています(夫はのぞく)。 そして、そうやって新しい文化にさらされているうちに、影響されていくことも事実です。取り入れていかないと、いつまでも溶け込めないということもありますが、知らないうちにしみこんでしまっていることもあります。 |
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以前、海外に旅行した時、海外に住んでいる日本人(ガイドさんなど)はなぜあんなに日本人らしくなくなるのだろう、やっぱり外国にかぶれちゃうのかな、と思ったものでした。服装、化粧、しゃべり方、対応など、どこか日本人らしくないのです。わざとやっているのかと当時は思いましたが、今では私も、ちょっとずつ、いつのまにか、こちらの習慣や癖がうつってきています。そんなに流暢でもないのに、英語をしゃべっているとなぜか首を振っていたり(否定しているわけでもないのに、しゃべっている時に首を振る人が多い)、娘を呼ぶときの手招きが日本と反対になっていたり(手の平を上にして手招きする)します。 また、動作だけでなく、口に出さなくても相手の思いを推し量る、という日本ならではの文化にすっかりごぶさたになってしまいました。先日、日本からのお客さんが家に来た時に、「何を飲まれますか?」とたずねたら、「あ、どうぞおかまいなく」と言われ、あやうく本当にそのまま出さないところでした。ようやく数秒してから、私の頭の中の日本文化回路にスイッチがついて、お茶を出すという行動に移ることができたのでした。キウイ、そしてこちらに住んでいる日本人ならたいてい、「コーヒーを砂糖だけ入れてほしい」とか、「水がいい」、「今はいらない」などと、はっきり言ってくれるので、この回路を使う必要がないのです。 |
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さらに、ほかの人がどう思うか、という観点で物事を考えることがなくなりました。こちらでは、法律違反や人に迷惑をかけたり、といったことでなければ、自分が何をするかは自分の意思で決めることです。メールや電話で日本の人とやりとりしていると、「他人がどう思うか」が重要な要素になっていうなあと感じさせられることがあります。 別にニュージーランド人の知り合いとばかり付き合っている、とか、英語でばりばり仕事をしている、とかでは全然ないのですが、それでも使わない習慣はさびれていき、新しい習慣を無意識に取り入れていくものなのだなあと思います。 3月の初めから4月末まで、日本に帰省することにしました。どうなることかと思っているのは、娘です。私は、すでに日本人としてアイデンティティを確立してからの移住でしたから、きっと最初はとまどうことやとまどわせることがあっても、すぐに取り戻すでしょう(と期待している)。でも、娘は移住当時が3歳。1年半前にも帰省しているとはいえ、7歳となった今では、すでに動作や表情はこちらの子供そのものです。この帰省の目玉の一つとして、小学校を体験する予定なので、実家から送ってもらっている「サザエさん」や「まる子ちゃん」を見て、「予習」に余念がありません。見ていると、あれこれ疑問がわきおこっているようで、「子供だけで学校から帰れるの?」とか(こちらでは安全上の理由で車の送迎が普通)、「どうして学校で靴を代えるの?」とか(「上靴」の概念がない)、「時間割ってなに?」とか(こちらの小学校は時間割というものはない。また、教科書はなく、ノートも宿題以外は学校にすべておきっぱなしで、時間割を見て次の日の準備をする、ということがない)、あれこれ質問してきます。 |
はるばる日本から、我が家と一緒にやってきた娘のお雛様。日本出発までにしまわねば! |
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ただ、日本に行くことをものすごく楽しみにしているのは伝わってきます。彼女にとって日本は、やさしい祖父母に甘えることができ、いとこやおじさん、おばさんなどの親戚が大勢いて、楽しいことや素敵なものがいっぱいあって、夢のような「母国」なのだなあということが、しみじみ伝わってきます。きっとあっという間に過ぎ去っていくのでしょうが、娘と共に、おもいっきり日本帰省を楽しもうとおもっています。 |