「あッぐううぅウウウーッ」

一九九二年、早春・・・・
ボク・・・閑古鳥 幻聴・・・は自宅の門の所で、演説をぶっていました。
その時、ボクは自分でもなにか少し変だと感じていました。
この界隈でも、自宅の門の所で、演説をぶっている人を見かけたことはありません。
しかも、約一時間、二人連れの外国人を前にです。
その時、ボクは、大げさで不遜ではありますが、敢えていわして貰えば、
   「もはやわれ生くるにあらず、
    キリストわがうちにありて生くるなり」
               (ガラテヤ書2-20)
のパウロ状態になって、なにものかに乗り移られていたのかも知れません。

「アーメンとは、なんであるか・・・・?
アーメンとは、万物の根源・絶対的な肯定・・・Yes・・・である。
一つ・七つ・七十七・無限・超無限のYes・・・そして、
その果ての究極的Yesから生じたものがアーメンである。
究極的なYes・・・・?
その通り・・・それは・・・『あッぐうーッ』・・・である。
『あッぐうーッ』は、幸せな赤ちゃんが発する声である。
これは『喃語』と呼ばれ、至福・絶対信頼の表明、アーメン、
南無阿弥陀仏、すべての祈りの原型と考えられる。
『あッぐうーッ』は、現世に無力ではないか?
否・・・『あッぐうーッ』は、鬼神の力をも挫く。

・・・・ ・・・・ ・・・・
一四五八年、琉球王国の「中ぐすく城」で、
ある一族が敵に囲まれ、全員が自害、滅亡する。
その時、たった一人の赤ちゃんが生き残り、
ひそかに落ちのびる・・・城主、護佐丸が刃を突き立てようとした、
まさにその瞬間、その赤ちゃんは、にっこりと笑ったのである。
『あッぐぅーッ』といったかも知れない。
こうして、その赤ちゃんには、いま、沢山の子孫がいる。
私もその一人で、この一九九二年、沖縄を離れたここ中白根で、
いま、あなた方と楽しい会話を享受しているのである。
これが『あッぐうーッ』の霊力・・・奇蹟である。
これが私の理解するアーメンである。
ここで大事な忠告がある。
尊敬さるべき大人が、ところ構わず『あッぐうーッ』を連発することは、推奨できない。
できれば、声にださず・・・・
そうだ ・・・・・・
心を尽くし ・・・・・・ 思いを尽くし ・・・・・・ 力を尽くして ・・・・・・

With all thy heart, and with all thy soul, and with all thy mind ・・・・・・

心ひそかに ・・・・・・
『あッぐうーッ』と唱えるべきであろう。

三人は、門扉のところで・・・あッはッはッは・・・と笑いました。
年長の二十七才の宣教師は「大変面白い話しを聞いた・・・
今夜、早速、母にこのことを書こう」といいます。
母という言葉が、心に残りました・・・・
そうです ・・・ 母という言葉が、心に残ったのです・・・・

半年程して、不思議なことに、幼児体験・生母・養母のことを、
どうしても話す必要が生じました。
いまから考えると、なにかのシンクロニシティが蠢きだしたのかもしれません。
ボクたちは、会ったときから、得体の知れないなに者かに導かれていたのです。
これから起こることを聴いて下さい。

ボクは事実を淡々と話しました。
すると、青年宣教師も、私にも似た体験があると語りはじめました・・・

離婚・母の再婚・・・アル中の養父・・・貧しい日々・・・・
ある日、また、養父が荒れ狂ったのです・・・
お母さんは、殴られながらも彼を庇い・・・・
逃がしてくれたのです・・・・
お母さんは、殴られながらも彼を庇い・・・・
逃がしてくれたのです・・・・
そうです・・・お母さんは・・・殴られながらも・・・彼を庇い・・・・
逃がしてくれたのです・・・・

アメリカの女性たちは・・・みな、幸せなのでしょうか?
子供たちは・・・みな、大事にされているのでしょうか?
いいえ、いいえ・・・いいえ・・・・
お母さんは・・・殴られ・殴られ・殴られ・・・泣きながら・・・・
体で彼を庇い・・・彼を庇い・・・彼を庇い・・・・
逃がすとき・・・・コインを渡し・・・・
ファスト・フードの店に・・・・隠れているように囁いたのです・・・・

「でも・・・・おカネが
 足・り・・・・ナ・ク・・・・て

聴きました・・・・咽び・せめぎ合う・・・・
熱い・・・・息・涙・・・・ 見ました・・・・波打つ金髪・華薯な五本の指・・・
高貴な天使の額・・・必死に・・・
抑えています・抑えています・抑えています・・・・
彼は、そもそも、説教にきていた筈なのです。
それなのに、いまは、もう・・・・
咽び・せめぎ合う・・・・熱い・・・・息・涙・・・・
しかし、これ以上の説教があるでしょうか。

ボクは、遠い、遠い・・・・遥かに、遠い、遠い昔の・・・・
なにかを見たッと思いました。
そうです・・・・新京特別市清和胡同三一五番地・・・・
あの赤い屋根の・・・・一見、幸せそうな家・・・・あの部屋で・・・・
深夜、親父に殴られている・・・自分を・・・・見たッ・・・・と思ったのです。

ボクは、なにかを聴いたッと思いました。
そうです・・・思い出したのです。
あの階段のそばの・・・・新京第一中学校・一年五組の教室・・・・
担任の・大畑先生が・・・話して下さった・・・・
アルプスの少女の物語り・・・・

「ハイジは・・・・とうとう・・・・
深夜、意識も無いまま、歩き回るようになりました・・・」

聴こえます・・・・朗々と鳴り渡る・・・・
ホルン・・・・です・・・・
幻聴のホルン・・・・です・・・・
ボクも・・・・もがいたのです、苦しかったのです・・・・
全く、意識の無いまま・・・・
真夜中に、突然立ち上がります。
「三畳の部屋」から起きだしてきます・・・・
廊下を通り抜け・・・部屋部屋を通り抜け・・・家中の蛇口を回し・・・・
スイッチを入れたり、切ったり・・・・歩き回ります。
なぜ・・・・蛇口?・・・・なぜ・・・・スイッチ?・・・・後年、思い当りました。
家の中で、ボクが変えられたのは・・・・蛇口とスイッチしかなかっのです・・・
ハイジにも、彼にも、いや、だれにも罪はないのです・・・・
異常行動も・・・・ボク自身のせいではなかったのです。
しかし、なん度寝床に連れ戻しても、起きだしてくる連れ子の異常な行動に・・・・
悲痛な想いの親父は・・・・ついには、恐怖に駆られて・・・・
殴ります・・・殴り続けます・・・地獄です・・・・

ハイジの録画が・・・・本棚で微笑んでいます。
彼も・・・・いまは、故郷で幸せに暮しているようです。
ボクは・・・・思いを新にして、『EPRの背理』に挑戦しています・・・・
いくら、携帯電話が普及しても、いくら、半導体製品がユビキタスになっても、
人類が、その根元である『量子論』が問いかけ続けているものにまともに応えなければ、
つまり、アインシュタイン・ポドルスキー・ローゼンの背理の決着なしに、
二十一世紀は来ないと考えたのです。

六十億人余の世間も、EPR三人組も・・・・
         「お月様は、人間が見ていなくても存在する」
と思い込んでいるようです。
しかし、世紀の妖怪『量子論』は・・・・
         「人間が見ていないと、お月様は存在しない」
と断言、最近の多くの精密な実験が、続々と、妖怪を支持しているやに見えます。
アインシュタイン・ポドルスキー・ローゼンの三人組は、
いまや、総崩れ・・・・コてンぱンなのです。
これは・・・奇怪なパラドックスです。
ボクは、背理解決に到達したと・・・・確信しました。

         「人間が見ている月は、人間に見られている月なのだ。
          だから、人間が見ていなければ
         『人間に見られている月』は存在しないのだ。」

これは・・・・『作用・反作用原理』の新展開・・・・
『人間宇宙原理』の・・・・復活なのだ・・・・

しかも、なんと・・・・これは、
「公理的集合論」におけるあの「ラッセルのパラドックス」解決手法と同型なのです。
あぁ・・・・そうなのだ・そうなのだ・・・・
人間存在原理の深部に、同じ「パタン」があります。

1. なんじら人を裁くな、裁かれざらん為なり。
2. 己が裁く裁きにて己もさばかれ、己がはかる量にて己も量らるべし。
                                 (マタイVII,1〜2)


Yes・Yes・Yえェェェーs・・・・

あぁアアアッぐうううウウウーッ・・・・
・・・・・ ・・・・・ ・・・・・ ・・・・・

「・・・・ ・・・・ ・・・・ ・・・・ ・・・・」

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