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沖縄の風土と海と空(違和感と共感)
伊波普猷著「沖縄歴史物語」の解説ー伊波普猷の日本への遺言
外間守善著
伊波普猷が、「沖縄よ何処へ」という講演録を基にして「沖縄歴史物語」を執筆したことは知られていることだが、若い人たちには耳新しいことかも知れない。
「沖縄よ何処へ」という演題を作って伊波普猷がアメリカでの文化講演に出かけたのは1928年(昭和3年)9月だった。ハワイのオアフ島を皮切りに、マウイ、ハワイ、カウアイ各島々を廻り、さらにロサンゼルス、サンフランシスコ、メキシコまで巡歴し、帰国したのは1929年(昭和4年)の2月だった。6か月余の長い講演巡歴だったのだ。講演の内容は、伊波の処女論文ともいうべき「沖縄人の祖先に就いて」(明治39年)、「琉球人種論」(明治44年)、「琉球人の祖先について」(明治44年・「古琉球」初版収載)を骨子にしたものだったそうだ(ハワイ在住の比嘉静観、湧川清栄談・1980年筆者記録)。
なお、ロサンゼルス、サンフランシスコでの講演もほぼ同じ内容のものだったらしい。エピソードだが、伊波は、沖縄県出身移民(1世)の中に日本語の標準語に未熟なもののいることを察してか、ほとんど方言(ウチナーグチ)で講演したという(伊波の講演は、沖縄でもウチナーグチが多かったらしい)。ある日の講演の折、他府県出身者やアメリカ人たちがまじっていることを案じた人たちが、「伊波先生はウチナーグチばかりで話しをなさるが、ヤマトグチ(日本語)ではおできにならないのだろうか」とささやきつつ、そのことを伊波に告げたらしい。当日の講演はみごとな日本語でなされたそうだ(帰米2世談・1997年、ロサンゼルスで筆者記録)。
同じ日本人でありながら、ややもすれば言語が不通になりがちな沖縄人が、日本人移民社会で不当な差別を受け、ウチナンチュ(沖縄人)であることのコンプレックス(劣等感)に悩んでいた人たちに対して、伊波は、ウチナーグチ(沖縄口)はヤマトグチ(大和口)からの分れで、その源は同根であったことをわかりやすく説明し、不必要なコンプレックスの除去と沖縄人自らのアイデンティティ(主体性)を確かめさせるために、講演内容にかなり腐心したらしい。
ハワイ在住沖縄出身者たち有志(主に当山哲夫、比嘉静観)が伊波を招聘した主意も、それをロサンゼルス、サンフランシスコまでつないだ人たちの志も、沖縄出身者のコンプレックス、アイデンティティにかかわるものだったのだから、伊波の講演趣旨は時宜にかなったものだったわけである。
「沖縄よ何処へ」という予言めいたこの時の講演録の延長線上に伊波普猷の絶筆になった「沖縄歴史物語」(昭和22年)があるわけだし、しかもそれには敗戦後の日本と沖縄との関係を案じつつ、「日本の縮図」という主題ともいうべき副題が添えられていることに目を向けないわけにはいかない。
「沖縄よ何処へ」という言葉には、沖縄を識り、沖縄を愛し、沖縄を憂え続けた伊波普猷が「沖縄歴史物語」を絶筆として遺していった愛郷心が裏ばりされているように思われてならない。かつて、「琉球」という小国家を成立させて四、五百年間も自立的な国家経営をした沖縄民族が、そのもとを正せば大和民族の分れであったことを学問的に証明し、主張しながら、薩摩の対琉球政策、明治政府の対沖縄政策を批判した伊波普猷の苦衷を察すると、日本を識り、日本を愛し、日本を憂えた伊波は、敗戦後の日本を案じ、「日本よ何処へ」と叫びたかったのではないだろうか、もちろん敗戦後の混乱と虚脱の苦渋に呻吟していた沖縄を含めてである。だからこそ、死ぬ1か月前に、渾身の力をふりしぼって、「日本の縮図」である「沖縄歴史物語」を遺言の書にしたのだと私は解釈している。
文化講演のテキストにした「沖縄よ何処へ」を修筆し、加筆して「沖縄歴史物語」と改題した伊波が、副題にあえて「日本の縮図」とした意図を私はしっかり受けとめたい。「小序」とした序文に、「日本民族の分れである---沖縄は---太平洋戦争が勃発して日米の決戦場となり、世界史上未曾有の大惨害を蒙るに至った。---「島惑い」した私は、せめてその文化の歩みを略述して、故郷を偲ぶよすがにしたい。一九四七年六月十三日、伊波普猷」と記している。「島惑い」という語は、沖縄の古語にも現代語にもないもので、伊波の造語である。壊滅したであろう沖縄の、島の形も人々も見えなくなってしまって絶望的に惑っている伊波の悲しみを映してあまりある語である。たぶんシママディー(島惑い)と読んだであろう。沖縄方言では、道に迷うことをムヌマディー(もの惑い)というから、戦争で壊滅したと伝えられる故郷の行く先が見定められず、心が混乱しているさまをシママディーと表現したのだと思う。沖縄戦で九死に一生を得て生き残った私、および私の周辺の人たちが、虚脱と混乱の渦に巻きこまれていた五十三年前の沖縄のありさまもまた、「島惑い」だったわけであり、それは敗戦後の新しい憲法に包まれながら行く先の見えない虚脱と混乱に懊悩した日本中の「国惑い」でもあったわけである。
序文に「島惑い」した私、と記し、故郷を憂える苦衷を吐露した伊波は、中扉に「われわれは歴史によって押しつぶされているーグルモン」(東京版)とも記し、「沖縄歴史物語」の内容が沖縄、日本、そして世界の歴史を包むものであることを意味深長に語りかけ、示唆的に表現している。
「沖縄歴史物語」の末尾には有名な一節が絶筆として残されている。戦後、伊波の思想的な影響力が大きくなるにつれて、その意味する内容についてさまざまに議論されてきた。そこの部分は次のように記されている。
さて沖縄の帰属問題は、近く開かれる講和会議で決定されるが、沖縄人はそれまでに、それに関する希望を述べる自由を有するとしても、現在の世界情勢から推すと、自分の運命を自分で決定することの出来ない境遇におかれていることを知らなければならない。彼らはその子孫に対して斯くありたいと希望することは出来ても、斯くあるべしと命令することは出来ないはずだ。というのは、置県後僅々七十年間における人心の変化を見ても、うなづかれよう。否、伝統さえも他の伝統にすげかへられることを覚悟しておく必要がある。すべては後に来たる者の意志に委ねるほか道がない。それはともあれ、どんな政治の下に生活した時、沖縄人は幸福になれるかという問題は、沖縄史の範囲外にあるがゆえに、それには一切触れないことにして、ここにはただ地球上で帝国主義が終わりを告げる時、沖縄人は「にが世」から解放されて「あま世」を楽しみ十分にその個性を生かして、世界の文化に貢献することが出来る、との一言を附記して筆を擱く。
(昭和22年7月9日)
その死の1か月前、あたかも真意を伝えるのももどかしげに、口早やに残されたこの一節から、われわれは伊波の思想の何をくみとればよいのであろうか。
さいわいに末尾の部分は、反古紙九枚に別書きにした伊波直筆の草稿が残されている。その部分は幾重にも消しては継ぎ書きされていて、「−−−終わりに、帝国主義が跡を断つ暁には、「にが世を、あま世になす」ことができる、との一言を附記して、この稿を結ぶ。(昭和二十二年七月九日脱稿)」となっており、全集二巻に収載されている「沖縄歴史物語」(底稿は東京版)の末尾とは若干の違いがある。
死を目前にして、意志を伝えるに十分な推敲の行なわれないままに残されたことをうかがわせるが、またこの一節は、伊波の生涯の軌跡をたどってみる時、伊波の生きた激動の時代と、そこに学究として立とうとした伊波の感慨を圧縮して見せてくれるように思える。
因みに、この「帝国主義が終りを告げる時----」の一節をもって、伊波普猷が日琉同祖論を振り捨てて、沖縄の独立を提唱したとする論を立てる人があるが、これについての伊波の談話があるので、左に引用しておこう。沖縄人連盟に関する質問に答えたかたちで、
----沖縄帰属の問題は連合国の方で決定するのであり、将来郷里在住沖縄人の一般投票に問ふことになるかもしれないが、それは吾々こちらにいる人々の現在の問題ではない。連盟が独立運動するなどあり得ないではないか。(全集十一巻422頁)
と否定的に述べている。
生活感覚として被差別の意識を実感していた伊波が、差別をしてきた体制と、その体制内の権力者たちが沖縄を、そして日本の国の歴史を誤まらしめたことを指してここに「帝国主義」という言葉を選んだのであり、伊波がその活動の最初から、こうして筆を擱くまで求めていたものは、沖縄人のアイデンティティ、伊波の言葉でいえば、沖縄人の「無双絶倫」(ユニークネス)であったのである。
また、最近さまざまな形でとりかわされた伊波論の中には、伊波普猷は日琉同祖論の元凶で、沖縄の運命を負の方向におとし入れた、という評価もある。伊波普猷は日琉同祖論を学問的に証明しようとし、それによって琉球処分を合理化したというのである。しかし、これは転倒した論理で、伊波は日琉同祖であることを証明しようとして沖縄を研究したわけではなく、沖縄を識るために「おもろ」に学び、歴史を探り、言語や民俗を確かめた結果、それらのトータルな結論が日琉同祖の証明になったわけである。だから、伊波は、基本的には日本という民族国家の中に沖縄が帰ることは歴史的必然である、と考えていた。ただ、その体制側の権力の座にある人たちが、沖縄に対して行政差別をし続けた事実にはがまんができなかったわけで、それに対する批判もまた適切にやっており、決して日本的体制の中に無批判に埋没してはいなかったことも、伊波の学問の軌跡をたどりながら注意深く読みとらねばならないであろう。
廃藩置県以後の明治政府が、沖縄県および沖縄人に対する不当な差別をし続けたことは、東京帝国大学を卒業して帰郷した伊波個人に対する身分保証の問題を含めて実に多くの事例があり、ここで一々とりたてるゆとりはないが、一生を通して学者、民主主義者、自由主義者の立場を貫いた伊波普猷が著述した二十余冊の著書、三百六十余篇の論文、三百六十回余といわれる啓蒙的文化講演を含めた全学問の中に、実に異色な論文が二篇ある。その論文というのは、前述した沖縄県出身移民(一世)たちに招かれて行ったアメリカ文化講演旅行から帰ったあと執筆し、発表した「布哇物語」(昭和六年)と「布哇産業史の裏面」(昭和六年執筆、同七年発表)という二論文である。前者は、ハワイの歴史・政治・社会・経済の現状を詳説し、日本人移民の現状と将来について意見を述べたものであるが、後者は、ハワイにおける日本移民哀史を克明な数字をあげて紹介したもので、沖縄出身者を含めた日本移民がアメリカ大資本のもとで「賃金奴隷」の位置に呻吟していた現状と、移民が「海外発展」の名でおこなわれつつも、実は棄民でしかない日本政府の政策とを批判している。マルクス主義でいう下部構造としての経済体制をまともにとりあげ、搾取的な支配体制を仕組んでいる政治構造のからくりを見通しつつ、経済と政治と思想の問題について発言する伊波の姿勢は厳正である。政治権力の不当な政策に対する憤りの論旨と論文であることだけを紹介しておこう。
こういう論文を書いた伊波の心中深くあった心情をくみとれば、アメリカにおける文化講演の啓蒙的内容と、二論文の延長線上に、沖縄を愛し、日本の将来を憂えた「沖縄歴史物語」の末尾の文意がつながっていくことを読みとることができるであろう。
ここで「沖縄歴史物語」の内容と、できあがるまでのいきさつについて述べておこう。
刊本 刊行された「沖縄歴史物語」には、東京版(昭和二十二年)とハワイ版(昭和二十三年)がある。
東京版とハワイ版は、本文、小序、凡例、内容、写真などすべて同じものであるが、ハワイ版に総ルビがつけられていることと、附録が、東京版一篇に対してハワイ版が三篇であること、ハワイ版に玉代勢法雲氏による「後記」がついていることの三点の違いが見られる。
草稿と清書稿 つぎのような伊波普猷直筆の草稿と、伊波冬子夫人による清書稿が残されている。
草稿は、反古紙を利用した書き込みで、袋綴じ六十五枚、表紙もついている。直筆の草稿である。上世史から中世史までで、近世史の叙述はない。書きおろしは上世と中世だけで、近世はほとんど旧稿のままということだから、ことあらためて書く必要がなかったのであろうか(清書稿には近世の部分がある)。ただし、近世の末尾の部分が別書きになってわずかに残っている(反古紙九枚)。その中に、「----終りに、帝国主義が跡を断つ暁には、「にが世を、あま世になす」ことが出来る、との一言を附記して、この稿を結ぶ。(昭和二十二年七月九日脱稿)」とあり、その部分は底稿と若干の違いがあるため、記念のために記しておく。
本文草稿のほかに、直筆の小序、凡例、内容(はじめ「目次」と記したのを消して「内容」とする)二種類、表紙のしたがき、附録「クワイニャをめぐって」の草稿(二百字詰五十九枚)も残っている。
清書稿は、草稿を伊波冬子夫人が清書したもの。二百字詰原稿用紙六五三枚(ただしカーボン紙様のもので複写したもの)から成り、つぎのような内訳になる。
本文 四八十枚(ただし一乃至八十枚まで欠落)
附録 クワイニャをめぐって 六十四枚(末尾にあるべき六十五枚めが欠落)
奈翁と英艦長との琉球問答 七十三枚
軍艦購入一件 三十六枚
附録のつけ方からすると、ハワイへ送るための清書稿だったようで、伊波による直筆の加筆修正が若干ではあるがつけられている。
出版までのいきさつについて、草稿と清書稿をもとに整理分析してみるとつぎのようになる。
▲昭和二十二年六月十三日「小序」と題する序文を執筆。ただし草稿では一九四七年一月一日の日付けになっているが、六月十三日は、「小序」をあらためて校閲した日付であろう。
▲昭和二十二年七月九日 本文脱稿。草稿の末尾に記載がある。
▲昭和二十二年八月十三日 東京、荻窪、比嘉春潮宅で逝去。
▲昭和二十二年八月二十二日 「沖縄歴史物語」の原稿ハワイに着く(比嘉春潮から比嘉静観宛に送られたもの。ハワイ版「後記」による)。
▲昭和二十二年十一月二十五日 東京版刊行。東京版の奥付けについては、後述する。
▲昭和二十三年二月二十二日 ハワイ版刊行。
「沖縄歴史物語」の構想
伊波によれば、本書は昭和三年の秋から翌年の春にかけ、ハワイ及び北米在住の沖縄人のために講演漫遊したときのテキスト「沖縄よ何処へー琉球史物語ー」(このテキストはいまだにみつかっていない)を参照して執筆したものである。上世と中世は神歌に現れた資料を整理して書き下ろしたもの、近世はほとんど旧稿のままだが、ところどころ訂正増補したということである。
全体は、上世史、中世史、近世史と、時代を大きく三区分し、その中で八章二四五項にわけるという構想で組み立てられている。このように組み立ててはみたものの、旧稿のままの近世史の部分は特に不満足であったらしく、いずれ書き直す機会を考えていたらしい。
論文「琉球人の祖先について」から始まって、「南島史考」「孤島苦の琉球史」「琉球古今記」とつないで論述してきた伊波の沖縄史論は、それらを総括するという形をとりながら「沖縄歴史物語」に流れ込んできたと考えてよい。特に「孤島苦の琉球史」の影響はきわめて大きいものがある。
今までの論考をもとにしていちおうの時代区分が設定され、資料が整理され、時代と時代のつなぎわたしができたのだから、伊波にしてみれば、積年の構想と史論をいっきに吐き出した思いであっただろう。
しかし、「内容(目次)」に示された各章各項については、構想の中の支え柱としての標題を示しただけで、十分に史的論述をしつくしたとは思えない。標題をあげただけにすぎない部分や項目の乱れがみられることと、項目の標題にふさわしい史的分析と検討をしないまま、小急ぎに筆が走っていると読み取れるからである。
たとえば、本文と「内容(目次)」を照合してみると、上世史二章の冒頭にある「アマミ族の南下は日本の建国以前」「日本文明と国家の起源」の二項目は、一章の末尾につくべきものであり、中世史四章のまんなかあたりにある「まなばん」「かはらばん」「南蛮瘡」の三項目は、五章のまんなかあたり、「南蛮との関係」と「朝鮮との関係」の間に入るべきもの、近世史八章のまんなかあたりにある「那覇市民大会」「閥族打破ののろし」と、末尾のほうの「太平洋戦争と沖縄の重要性」は、標題をあげただけで論述がない、といったような乱れがみられることである。
それらは、おそらく項目標題を先に書き出してから、内容を埋めていくという方法で叙述を続けていったせいだろうと思われる。伊波は、近世史の書き直しをほのめかしているが、近世史だけでなく、全体にわたってもう一度詳述するための素描だったのではないだろうか。その意味において、「沖縄歴史物語」は通史的総まとめを構想した大きな史論でありながら、なお未完のまま、伊波の夢をつつみこんでいる遺稿であると考えたい。
ことのついでにここで記しておきたいが、本書は東京で出版するために書いたものではなく、ハワイで出版する目的で執筆されたもののようである。ハワイ版の「後記」には、そのことが次のように記されている。
後記
一、本書は、初めから布哇で出版する目的で執筆されたもので、特にその現代史のごときは昭和二十二年七月九日と擱筆の日を明記してあり、それから一ヶ月後の八月十三日には著者が急逝されましたから、本書は実に伊波氏の絶筆であり亦図らずも遺著となったわけであります。
一、原稿が東京の比嘉春潮君から当地の比嘉静観君へ送付されたのが八月二十二日で伊波氏の訃音に接したのが八月二十六日でありました、仍て八月三十一日マカレー東本願寺において伊波氏の追悼会を営み、その席上において本書の刊行を決議し、万事を比嘉静観君と私とに一任されました。
一、ところが比嘉君は業務の関係上タイムがないので本書出版に関する一切の仕事を私に頼むと言はれたので私は快くそれを引き請けました、そこで私は布哇タイムス社に印刷を依頼し原稿の振仮名附けを始め、校正を全部自分が引き請けることに致しました、古琉球の発音にはチョイチョイ特殊の読み方があるので振仮名附けには細心の注意を払った積もりであります。
一、本書は沖縄歴史の権威たる伊波普猷氏の心血を濯がれたる絶筆であり遺書でありますから布哇沖縄県人は好箇の記念物として是非とも本書をその座右へ備へられんことを敢えて推奨致します。
玉代勢法雲記す
注、 ハワイ版であるため、漢字のすべてに振仮名が付いているが、ここではそれを除いた。
「沖縄歴史物語」の東京版とハワイ版の内容についても記録しておく。
1、東京版
発行 昭和二十二年十一月二十五日。奥付に昭和二十一年十一月二十五日とあるが誤植である。裏表紙の英文タイトルには「1947」とあり、発行年が昭和二十二年であることが明白である。それに、草稿にある本文脱稿の日付が昭和二十二年七月九日なのだから、昭和二十一年に発行されるわけがない。参考までに、奥付の前頁にある附録「クワイニャをめぐって」の脱稿日付にも誤植があることを指摘しておく。
発行所 沖縄青年同盟中央事務局(東京)
四六判仮綴 二百十頁(本文一八三頁、附録二七頁)
本書の装丁は南風原朝光による。扉の前に著者近影の写真があり、東亜考古学会に対する感謝の言葉を始めに記す。内容目次の裏面には、「われわれは歴史によっておしつぶされている」というグルモンの言葉が引用されている。
小序(1947年6月13日・前記「出版までのいきさつ」参照)
凡例
内容 上世史-----三章-----五一項
中世史-----七〇項
近世史-----一二四項
本文末尾に、「(昭和二十二年七月九日)」と記されている。
附録 クワイニャをめぐって ー 沖縄文芸史考 −
末尾に、昭和二十一年十月二十六日稿、とあるが草稿によれば十一月二十六日が正しい。誤植である。
2、ハワイ版
発行 一九四八年(昭和二十三年戊子)二月二十二日
発行所 マカレー東本願寺(ハワイ)
四六判クロース装 二五六頁(本文一八四頁、附録七一頁、後記一頁)
小序 凡例内容本文末尾の日付(東京版に同じ)
附録
クワイニャをめぐって ー 沖縄文芸史考 −
奈翁と英艦長との琉球問答 − セントヘレナにおける一八一七年八月十三日の昼過ぎ − 軍艦購入一件 − 薩摩秘史 −
後記 玉代勢法雲
おわりに
昭和二十年四月一日、沖縄に米軍が上陸し、六月に沖縄玉砕の報に接した時の伊波の悲嘆は深く、自らの家も五月に焼かれ、八月十五日の終戦を迎えてもしばらくは失意と虚脱のどん底に呻吟していたという。そのような伊波にとってわずかな光明は「おもろさうし」の研究であったらしく、比嘉春潮のすすめと励ましによる二人だけの「おもろ講読会」が数か月にわたって続けられ、くずおれがちな伊波の精神生活を支えていたようだ(比嘉春潮談)。
「おもろさうし」に支えられた伊波はようやく敗戦当時の虚脱状態からぬけだし、秋には東京における沖縄人連盟の創立に参加し、昭和二十一年には連盟会長になって、「惨状目を掩う」と伝えられる沖縄の救済運動に奔走することになる。その頃、沖縄戦をくぐり現地で生き残った仲宗根政善に宛てた手紙の中に、「おもろ覚書からー古代生活の片影ー」と「琉球史概説(日本史の縮図)」と雑誌論文等をまとめた「琉球文化の名残」三書の出版を準備し、「改訂おもろ選釈」も出そうかと考えている旨(全集十巻四八四頁)記して、学問に対する満々たる意欲を吐露している。その中の「琉球史概説(日本史の縮図)」なるものが、伊波の没後に刊行された「沖縄歴史物語(日本の縮図)」である。
没後、「おもろと沖縄学の父」といわれるようになった伊波普猷は、その賛辞どおり「沖縄」を学び続けて一生を閉じた人である。恵まれた幼少年期はともかく、青年期以後、常に波瀾と不遇に身をゆだねた人であるが、沖縄を思慕し続けた美しい思念は、学問の世界で花を開かせたわけであり、沖縄と沖縄学が生き続ける限り、伊波普猷の心は不滅であろう。
「伊波普猷」という名前は、「沖縄」と切り離しては語れない。それは生前の伊波が自らの意志で沖縄を背負った、というだけでなく、その死後の評価さえ、沖縄の運命と共に沈み、そしてまた浮上しているからである。
戦後の二十七年間、沖縄が日本の敗戦処理の私生児として、自らの意志にかかわりなく米軍統治に委ねられている間、本土で「伊波普猷」の名を語る人は稀であった。そして、さまざまな曲折を経て、諸情勢が沖縄の祖国復帰を日程にのぼらせた時から、「伊波」の名は急に脚光を浴びることとなった。それは沖縄の内部においても、本土側からも、沖縄の学問的側面のみならず、その心を語ろうとする時、「伊波普猷」の前に立ち止まらざるを得なかったからである。
伊波普猷が生涯にわたって、ひそかに灯し続けた学灯と学問的営為は、ようやく時代を越えて甦った。しかし、そのことのために、伊波が生きた苦節の時代が忘れられていいというものではあるまい。つい数年前まで、「伊波普猷」の名はほこりをかぶって巷に埋もれていたのである。その現実を生ま生ましく想起することは、伊波学すなわち沖縄学を継いだ私の務めでもあろう。若い学徒にとっては、祖父の時代は、その痛みすら栄光と映るかも知れないが、私にとって父の時代の痛みは手に触れ得る傷である。
伊波普猷は、太平洋戦争の戦場となり壊滅した故郷の山河を偲びつつ、自らを「島惑い」した私、と書き残して、戦後の混乱期の昭和二十二年八月十三日にその生涯を閉じた。「島惑い」というのは、心の奥深く沈潜している「故郷」をもぎとられた悲嘆を表していて痛ましい表現である。
しかし、激動の時代をくぐりぬけて不死鳥のように甦ってきた沖縄と、その沖縄の内側で、ふたたび「島惑い」しないために、「伊波普猷」を学ぼうとする若者が輩出するのをみるとき、伊波はどんな言葉を選んで自らの立場を表現するであろうか、私は、耳をすまして伊波の心を、言葉を聴きたいと思う。その生前には、ごくわずかの理解者しかもたなかった伊波の学問であったが、伊波の学問の真の深さはわからなくても、その奥にひそむ心情に共感をもった人は少なからずあった。そのように人を揺り動かさずにはおかないなにものかが、伊波の学問にはあり、伊波の学問の深まりと同時に、伊波の学問と思想に対する共感の輪が、最近とみに広がりをもってきたようである。
今、沖縄を中心とする南島に学問的関心を寄せようとする者、あるいは、沖縄問題に関心をもつ者にとって、伊波普猷の業績と心を素通りして進むことはできまい。その意味で、伊波普猷とその絶筆になった「沖縄歴史物語」は、これからの「沖縄学」の原点であるといえよう。
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