沖縄の風土と海と空(違和感と共感)

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日本画家「石田和歌」先生の琉装の美人画

沖縄古代文化とおもろさうし

沖縄の風土と海と空(違和感と共感)


筆者は、1975年7月、初めて沖縄に飛行した。沖縄行きは、私にとっては初めての飛行ルートであったが天候は快晴で、南九州の某飛行場から那覇空港までの1時間半の飛行は快適そのものであった。同じ飛行機には同僚の航空機整備士が乗っており、二人とも鹿児島から南下する途中に眺めたトカラ列島の珊瑚礁の美しさに感動した。当時、戦史叢書の「沖縄方面陸軍作戦」を読んでおり、飛行コースが大東亜戦争末期の特別攻撃隊の飛行コースと同じということもあって、当日の飛行は、特に感慨深いものがあった。その後自家用車を輸送するため海路で鹿児島から照国郵船のフエリー「クイーンコーラル号」で沖縄に向かったが、空路を経験した後だったので、各駅停車の船上で時間をもてあました。

石川県から沖縄県に転居してから、生活環境が激変した。転居当時、沖縄県は国際海洋博覧会を開催しており、島全体がお祭り気分であった。周囲には外国人が多数住んでおり、未だ地元の人々との交流がなかったので転居当初、何となく地域社会に対し違和感があった。違和感の原因は、かつて沖縄に対していだいていたイメージと現実が大きく違っていたからであろうと思う。現在は、あまり感じられないであろうが、復帰直後は、まだ地域社会に琉球文化の香りが強く残っていた。また米軍基地周辺のバタ臭さと沖縄独特の集落のたたずまいとのアンバランスさが沖縄独特の雰囲気を醸し出していた。2年乃至3年後、そのアンバランスな雰囲気を自然に受入れる沖縄の風土に大きな魅力を感じるようになった。他の時期に沖縄に住んだ友人に聞いたところ同じ感じをもったとのことであったので、そこが沖縄の魅力の一つであることは間違いない。

沖縄に転居して1年後、ダイビングショップ「沖縄潜水」の竹下氏の指導でスクーバダイビングを始めた。35歳の私は珊瑚礁の美しさに魅せられ、ダイビングに完全に病みつきになってしまった。現在までに累計使用タンク数は約500本で途中ブランクの期間があったため、経験年数の割に使用タンク数は多くない。最初に珊瑚礁の海に潜ったのは、那覇飛行場の西側に隣接したビーチで、当時は沖縄本島でも有数の珊瑚の美しい場所だった。したがって週末が楽しみだった。今でもビーチの海底の地形図を描くことができるほどだ。那覇空港滑走路北端の西側に見える海岸がその場所である。1978年3月、転勤により沖縄を離れた。その後、1982年8月から1984年3月まで再度沖縄に勤務した。1982年に再び同じ場所に潜る機会があったが、いつも「くも貝」が棲息する場所には5年経っても「くも貝」が棲息していた。しかし全体的に珊瑚は死滅しており、昔の面影はなかった。1990年にも再度同じビーチに潜る機会があったが海底の状況は環境的にさらに悪化していた。

沖縄勤務の間に本土との往復飛行、宮古島、久米島、与論島、沖永良部島など沖縄周辺の島々の上空を日常的に飛んでいた。時には西表島から南北大東島の上空まで飛行したことがあったが、当然のことながらイメージに描く沖縄古代の歴史空間と現実の生活空間が感覚的に一致せず、沖縄の古代文化研究は、全く異次元の世界を覗くようであった。沖縄研究者は沖縄に行かない方が良いと言う人がいたがその意味が良くわかる。

沖縄の歴史上の聖地である久高島や著名な御嶽(ウタキ)を歩いてみて感じたことは、それらがみな風光明媚な場所であるということである。とくに久高島から知念半島、さらに首里弁が嶽の方角を望んだ風景は、「人間が神との距離感をなくすのは、このような場所なのであろう」と感じられる素晴らしい風景である。久高島の島内と海岸は、羽衣伝説の背景にある「白砂青松」そのものである。沖縄本島と久高島の間の海は、黒潮の影響で海流が速くまた海が荒れることが多い。久高島は、本島南部の馬天港から船で1時間弱の距離であるが、小さな連絡船は木の葉のように揺れる。料金の少し高い高速船は、速くてあまり揺れない。久高島は神事イザイホーで有名な神の島ということで、島内に居住する礼儀正しく誇り高い人々は、なんとなく神々しく感じられる。





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