Column No.1 絵がうまくなりたい HOME
| (3)2003/1/13 部分と全体について |
| 部分は全体の一部です。あたりまえですね。従って、部分が全体に影響を与えます。また、絵では全体が部分に影響を与えます。相互に関係してるんですね。 まぁ、当たり前なわけですが、これは、べつにモチーフの関係性だけの話ではありません。たとえば、台の上に布を敷いて、その上に水差しと果物があるようなモチーフがあったとして、それら個々の関係性だけでなく、水差しも柄の部分と器の部分に分けられるし、器の部分も光が当たっている所と陰影のところ、陰影も接地しているところとそうでないところ、布のしわとしわの無いところ、様々な関係性が存在しているわけです。 面白いのは、そのたった一部分を変えると全体の印象が変わってしまうということです。あたりまえのようですが、実際に自分で描いているとその現象はとても興味深いです。 このような現象は算数の世界でも同じです。物質の熱伝導を調べる為に用いる数値解析では、理論式から導いた式をつかって、シミュレーションを行ったりするのですが、これは、ある1点の温度変化が無限に遠くはなれた場所の温度変化に同時に影響を与えるんですね。これはとても奇妙です。 絵もちょうどこれと同じで、部分が全体に与える影響がとても大きいんです。しかも瞬間に決定される・・・ 地球もまた、そうなのかもしれません。一人一人の意識がその瞬間に地球全体の意識を決定すると思うのです。 しかしながら、絵も地球も全体として美しくなければ、部分が美しいことにはなりません。ともすると、部分に意識が集中して全体が見えなくなる場合があります。 私のような絵の初心者は、部分だけに意識が集中してしまい、全体が見えなくなるのです。人間の目は非常に都合よくできていて、自分が見たいように見えてしまうのです。 たとえば、立方体や球のように見える物体を観察したとき、人間の目は直感的にこれらは、正確な立方体や球だと決め付け誤差を修正します。 これは、実際にデッサンすると分かりますが、仮に一辺が30cmの石膏の立方体を作り、ある頂点を1mm削って滑らかに他の辺まで削ってサンドペーパーで綺麗に仕上げたらおそらく、その誤差に気づくひとはいないでしょう。 これは、人間の目は見たいように見えるように誤差を修正して脳の中で映像を作り上げるからです。同じように、常に気にかけている事は目に入っても、気にかけていないものは見てもその情報は使われません。 典型的なたとえ話として、「自分の腕時計のデザインを紙に書きなさいといわれると、ほとんどの人が毎日見ている腕時計でさえ、まともに観察していないのでかけない」というのがあります。※私は腕時計すきなので、そこそこ記憶してますが(笑) 結局、部分にこだわり全体が見えなくなると、結局それは部分にとってもよくない結果を生むということが言えると思います。 全体を良く見て部分に注意を払うこと、これが大切です。言い換えると、部分的な現象にいちいち心を動かされていては、全体が把握できなくなります。 この良い例は、人の顔を描くと良く分かります。先程説明した立方体や球と違って、こんどは人物です。人間は主に人の顔で人物を特定しようとします。後ろ姿や背格好でも判断できますが、顔の認識力は他を圧倒して優れています。同じ人でも仕事で疲れたときの顔、喜んでいるときの顔、悲しんでいるときの顔を正確に認知できるのです。 はたして、人物を描くと、これがまったく似ていないのです(私の場合)。これは、部分にとらわれているのが原因です。表面的な現象に惑わされているんです。全体が見えてない。描き込んでも、描き込んでも似てこない。 人の顔を見る目の正確さといったら、スゴイものがあるんですね。1mm目の間隔が狭かったり、広かったらそれだけで、別人です。鼻の長さ、ふくらみ、目の形、眉毛の角度、それらが1mmの誤差もなく正しく配置されて特定の人と認知されるわけです。しかも、人によって認識に利用される部位の特徴の強さが違います。 ただし、その人の特徴をいくつか選んでデフォルメした似顔絵はまた別です。それは、特徴からある人物を類推する場合です。同じ似ているでも、この場合は特徴を上手く抽出できるかどうかになります。 肖像画のような正確な人物画も似顔絵も、対象から正確に情報を取り出す能力が必要になるのです。 ところが、やっかいなことに、人間の目は顔のように正確に認識できると同時に、立方体や球のように観察者が見たいように補間して見せてもくれるのです。 人物画を描いているとこの現象に遭遇できます。さっきまで全然似てないと思っていたのがだんだん似てくるんです。「あ、よくなってきたかな・・・」なんておもって、いったん鉛筆を置き、すこし時間を置いてから再び画面に向かうと、びっくりします。 やっぱり、似てないのです。 結局、いかに客観的に物事を見ることができるか、対象の本質を見抜くことができるかが、大切になります。 現象に惑わされず、合理的、科学的な視点で物事を見ることの大切さが分かります。そうして観察して心で感じた感覚は作者にしか表現することのできない、素晴らしい絵になると思います。また、そのような絵は多くの人の心にも響く、生きた絵になるのだと考えています。 同じモチーフを皆で描くとき、どんなに正確にモチーフ捕らえても、その人のユニークさが失われることはありません。正確に把握できればできるほど、個性が出てくると言ってもよいと思います。 だから、先生に言われたことは、素直にやってみることが大切だと思います。個性など、出そうとしなくても、正確に物事を把握し始めたとき、自動的に個性が発揮されるのだと思います。 「この絵はキミにしか描けないねぇ」なんて、いつか言われてみたいものです。 (つづく) |
| (2)2002/11/24 絵は難しい |
| 絵は難しいです。絵を描くというのは、概して苦しいです。でも、やめられません。他人と比較することに、意味がないと分かっていても自分より早く上達するひとや、自分のスタイルをもっている人は羨ましいと思います。 実際のところ、絵を描き始めた初期の段階でスタイルを決めてしまうのは、上達を遅らせる原因になるようです。私もそういう人を見かけます。そういう人はたいてい器用な人です。そして器用な人ほど早く壁にぶつかります。そして、大抵その壁を越えられずに絵画教室を辞めてしまうのです。あまり、自分のスタイルにこだわらず、なんでもやってみるのが壁を乗り越えるコツだと思います。 もっとも自分のスタイルをもっていなくても、誰でも、いずれ壁にぶつかります。早く壁にぶつかる事はある意味ラッキーです。壁にぶつかるということは、上達への次の段階に到達したことを意味します。と言っても、本人にとって苦しい時期です。何をやっても新鮮味がないし、完成したら大体どんな感じの絵になるか、描く前に見えてしまいます。そして、その絵は自分にとって飽き飽きする、気に入らない、つまらない絵なんです。どうにかしたいけど、どうしたらよいか分からない状態です。 絵はとても不思議です。上手な人(先生等)が下手な人の絵を見ると、一瞬でオカシイ所や、描き込みが足りない所、下手な人が見えている部分と見えてない部分、下手な人がどう思いながら描こうとしたか、どこで苦しんだか・・・等、丸見えなんです。そこで、上手な人が下手な人に色々指導するわけですが、これがまた大変な作業なんですね。 当たり前ですが、絵は鉛筆なり筆等の画材で、紙やキャンバスに描く作業です。これは、科学的な現象であり、技術を必要とする作業です。しかし、「何をどう描くか?」これは完全に作者の物体認識と心の感じ方、受け止め方に100%依存しています。 例えば先生と生徒が同じ「リンゴ」というモチーフを同時に見ているのですが、そのモチーフの受け止め方、感じ方、立体認識が全然違うんです。これは、ある出来事に対する受け止め方が人それぞれ違う事と同じです。そして、この両者の認識の違いを埋める作業が、絵の先生の仕事なんです。これは、大変な作業です。技術的なことを教えるより難しいことだと思いますが、絵の先生の(多分)唯一の仕事であると思います。 実は技術的な部分というのは、訓練である程度までなら身に付けることができます。たとえば、鉛筆であれば、線の引き方、強さ、勢い、濃さ、調子の付け方等の技術的な部分は比較的短い期間で習得できると思います。また、絵はコンピュータプログラムと同じで、自分が行った作業の結果が100%返ってきます。これは、ある線を引けば、そのとたんに絵が変化することを意味します。 鉛筆を例にすれば、技術的にはそんなに難しくない。紙に描いた結果がすぐ画面に反映され、確認できる。これは、一見カンタンそうに思えます。私も絵を始めた頃はこんな風に考えていました。言うなれば「描けば描けるサ」という感じで・・・ しかし、実際のところ、それで絵が描けるわけではありません。モチーフを観察して理解し自分が心で感じた事を画面に表現しなければなりません。鉛筆だけでも表現方法は無限にあります。果たして自分が思ったとおりに描けるでしょうか?これは容易な作業ではありません。似ても似つかない絵になってしまいます。もし自分が思っているように表現できたら、プロの作家になれると思います。 結局、絵とは素人の段階では、ひたすら物体認識と心で感じたり見たりした、いわば、心の絵と、実際の画面に表現した絵とのギャップを埋める作業です。そして、絵の上達とは心の絵をはっきりと鮮明に生き生きと描けることを意味します。これは、完全に自分の心との対話に他ならないと思っています。 そして、心の絵が、実体としてのモチーフを凌駕しはじめたとき、「おぉ!」と言われる絵になるのです。この時点までくると、画家にとって、でモチーフは単に心のスイッチを入れるための、媒体でしかありません。モチーフの放つ外的な現象より、モチーフの本質を見抜き、心の中で再構築しそれを画面に表現しているレベルです。このような絵は、たとえ、無造作に引かれた鉛筆の線でさえ、生き生きと生命感あふれる線になっています。 このようは絵は絶対他人には真似できません。その人の本質そのものだからです。 ちなみに、プロの画家は違います。彼らは自分のイメージを完全に絵として画面に表現できて、かつそれが絵を買ってくれる人や画商に理解され受け入れられ、最終的に売れなければなりません。それは、それは、大変厳しい世界です。 (つづく) |
| (1)2002/11/11 絵を描き始めるまで |
| 私は絵を描きます。絵は昔から興味があったのですが、実際に描き始めたのは2年前からです。今は、特に予定がない場合、毎週日曜日に絵画教室に行って習っています。今は絵がとても楽しいです。でもそれが分かるまで随分長い時間が必要でした。 今思い出すと、絵を描きたい気持ちは、幼稚園、小学校、中学校、高校とそれぞれの時期に数回ありました。中学と高校のときは、書店で本を買った記憶があります。 大学に入り絵を描く気持ちは薄れ、社会人になるまで、しばらく眠ります。実際のところ、絵の代わりにコンピュータプログラムが、なにかを作る楽しさに取って代わったようです。 コンピュータに興味をもったのは、中学校2年のクリスマスプレゼントで親にポケットコンピュータを買ってもらったのがきっかけです。どうして欲しくなったのか、よくわかりませんでしたが、なぜかとても惹かれて欲しくなった記憶があります。それから今現在に至るまでコンピュータとお付き合いすることになります。これも何かの縁かな。 そして社会人に入って、コンピュータ関連の仕事につき、再び絵を描きたくなる衝動が沸き起こったのでした。 どういう訳か、私は常に何かを作っていないと、いられない性格のようです。自分の思いを何かのカタチに残したいという強い欲求があります。恥ずかしい話ですが、小学から中学まで、時々カセットテープに自分の声で創作ストーリを吹き込んで遊んでいました。その頃、NHKのラジオドラマに夢中になった時期があり、その真似をしていたのです。ミキシングしてBGMや効果音を口でやったりと、今聞いたら顔から火が出そうな代物です(笑)。 だから、映画や音楽といったメディアを聞く目的がどうも、身の回りの友達と違うのです。創造力を掻き立てられないと興味が湧かないのです。自分にどれだけ役立つかが重要なんです。 よーするに、私は世間一般の流行にあまり興味を示せなくて、それが私の問題だと、少なからず私は感じていました。社会人になって、絵画教室に通うようになり、やっとそういう考えが消えました。みんな自分のイメージをとても大切に正直に表現しようと頑張っている! 絵は自分を再発見する大切なきっかけとなりました。 (つづく) |
| (4)YYYY/MM/DD 光、陰、影 |
|
|
| (5) 未定 |
|
|