まゆの同居中の出来事
結婚前、夫の叔母が「将来は、姉夫婦と同居するから、一緒に住まなくてもいい」という
言葉がこれから起こる事件の始まりとなます。
当時、義父母は親世帯として独立した生活をしていました。夫婦ともに障害者手帳をもっていましたが、
義父はそれを感じさせないぐらいのバイタリティーがあり、義母の通院の送り迎えや農作業をこなしていました。義母は、病気を理由に義父におんぶにだっこ状態で、基本的に自分以外の者が病気であっても
私よりいいんだから「私のために働け」という性格の持ち主でした。
結婚するという段階に入ったところで、まぁ実家同士が近いこともあり、やはり義父母の噂話や忠告が聞こえてくるようになりました。それでも、夫の叔母の話があったので、「同居しないから大丈夫でしょう」という考えが、まゆにもまゆの実家にもありました。
では、なぜ同居するようになったかを説明しなくちゃいけませんね。
1997年10月
1カ月前に義父にあったときに、様子がおかしかったので、検査結果を聞く為に電話をしてみたことが始まりでした。
その時、義父が検査入院する事と、義母が骨折していることを知りました。急きょ、夫が実家に行って話しを聞いてくることになりました。
この時、医師は義母の単独通院および生活は難しいので、二人で入院したらどうかというのを提案していたようですが、義母が「絶対いやだ」といって譲らず、話し合いの結果、まゆがパートを辞めて、義父の付添いと義母の世話をすることになりました。もっとも、この時は一ヶ月という期限をつけてのものだったのですが・・・
1997年11月
義父の検査入院の日程が決まり、週末には夫も来ると言う事で、一ヶ月の同居が始まりました。
最初はなにごともなく、生活できましたが、ほどなく義父の検査内容と投薬がおかしいことに気付きました。
以前、病院に勤めていたまゆにとっては、嫌な検査と薬だったのです。そう、「膵臓癌」だったのです。それも、手後れであることは、薬の変化で手に取るようにわかりました。夫も伝える検査内容と投薬をもとにインターネットで調べたり、知人の医師に相談したりと、そうではないかと確信していたようです。
検査入院して2週目におおよその見当がついてしまったまゆは、医師に聞きたい事が有るのでとアポを取ってもらい、夫と一緒に告知を受けました。
本人には知らせない方が良いとの夫の判断で、後日、本人と夫と医師の3人で話しをした時は、本人告知はしませんでした。
1997年12月
義父の検査入院が3週間を過ぎた頃、夫から電話があり、同居したいと言いました。その時は深く考えずに、余命半年と宣告された義父と一緒にいたいのかなぁと思い、同居しても変な話、亡くなるまでだろうと、OKしました。
義父が退院し、引っ越しの荷物が搬入された頃から、義母の態度に変化が出はじめたのです。
退院後、義父母を連れて気分転換を兼ねて一泊旅行に行きました。翌日が退院一回目の外来となる義父を病院に送り、義母を家まで乗せてから、病院へ戻り、外来診察待ちをしていました。すべてが終了するまで5時間かかるという大病院ならではの診療を済ませ、家に戻ると、義母が「夕飯の仕度は自分がする」と言うので任せたところ、なんと、義父の分と自分の分しか作らなかったのです。義父が「まゆの分は?」と聞くと、「くうのか?」と言い、義父が「何いってんだ。世話になっているのに」というと、聞こえないふりをしていました。たまたま夫が年末としいことで帰省の日だったので、このことを言うと「悪いなぁ」と一言で終わってしまいました。
年末になり、夫が自分の味方であると思っている義母は、まゆがひとりになるのを見計らっては「おれは、おとちゃんと○○だけいればいいんだ」「○○はおれの言うことは聞くんだ」とか言いはじめました。多少は我慢していたのですが、毎日のように言われてはムカつきがおさまらず、夫に「なんでこんなこと言われなくちゃいけないの」「まゆは○○の嫁であってお手伝いさんじゃないんだ」と言っても、夫は現場を見ているわけではないので、ただ慰めるだけでした。ところが、見ている人がいたのです。それは義父です。義父は再入院するまでの間、絶対に義母と二人きりにならないように、送り迎えにも同乗し、いろいろと言葉をかけてくれました。
1998年1月
正月あけに、腹部異常を訴え、近所の病院でレントゲンを撮ってもらったところ、腹水が確認され、検査入院していた病院に緊急入院となりました。
医師の話では、思っていた以上に進行が早いとのこと。後日本人には、夫から「膵臓癌」であることを告げていたそうで、不安が募る義父のために、週末は夫が病院に泊まりこみました。本当は平日もいてほしいが、義母がいるため日中しか付き添えない事を知っている義父も、息子には甘えたかったのでしょう。週末になると、「今日も泊まってくれるかなぁ」と聞くのです。どうしても終電になる夫とバトンタッチするために、夕食を作りおきして消灯までいるのですが、義母にはこれが気に入らないらしく、「病人はおとちゃんばかりじゃない」と言うのです。確かに義母からしてみれば、自分も病気なのに何故義父ばかりかまってもらえるのかというところなのでしょうが、まゆも人間で、良くしてくれた人がもう余命がなければ、気持ち的にそっちを見てしまいます。まゆ自身が体調を崩して点滴して帰ってきた時に、「飯は?」食べてないと答えると、「もっともくわせるものはないけどな」と言って襖を閉め、夫に、『病院の送り迎えもしないで、車で遊びに行った』と言うような人間に優しくしろというのは土台無理な話です。
1998年2月
義父の容態が急変し、あっけなく逝ってしまいました。正直、もっとしてあげたかったことと、これで埼玉に帰れるという気持ち両方がありました。
しかし、いつまで経っても夫が帰ろうとは言ってくれません。おかしいと思いはじめたのはこの頃からです。
どうも様子が変なのです。義母の嫌がらせもエスカレートし、近所でまゆの悪口を言ったら、「まゆはそんな子じゃない」と庇ってくれる知り合いの叔母さんがいて、どんどん孤立化していった義母がしたことは、夫と夫の姉にまゆの悪口をいうことです、ないことないこと(有る事ならわかるけどね)を夫に伝えるのです。夫はそれを信じてしまっていたのです。
1998年3月
義父の49日を内輪でやりたいと言い出した義母ですが、料理はまゆの分もちろんな〜しで、あげくに、人前で蹴るという暴挙にでられてしまいました。夫に訴えても、そんな状態なので、聞く耳もたずで、あげくに離婚か近所に別居という話までだされてしまいました。まゆ的には、夫は好きだけど、義母は大嫌いだったので、離れられるならいいかなぁと思ったのですが、よくよく考えたら納得いかなくて、まゆの実家に夫を連れていって話をしました。まゆの母が結婚前のおばさんの話や、今までの事を聞かせ、別居させるなら実家に寄越しなさい、と言った言葉で近所別居はなくなりました。そして、ある出来事があり状況が一変しました。
1998年4月
その出来事とは、夫の前では「まゆちゃん」と呼んでいた義母がついいつものくせで「おめー」と言って暴言をはいてしまったのです。夫はこれで聞いていた話がどうもおかしいのでは?と思ったようで、深夜にまゆと話し合いをしました。いままで、義母から聞いていた話をまゆに聞かせてくれましたが、嘘ばっかりで、実は去年、義父の付添い中からつけていた日記を夫が言う日にそってどんなことがあったのかを聞かせました。そこで、初めて夫が義母の性格を知ったのです。はじめて、夫が心からごめんねと言ってくれたのです。そこからの決断は早く、翌週には埼玉に新居を見つけて来たのです。そして、夫の姉夫婦を呼び、義母がまゆにした事をある程度話し、埼玉に戻るということを伝えました。この話の前に2週間程まゆは実家に帰っいたのですが、これは義母が言い出したことで、夫も気分的に楽だろうと夫が戻っている時以外は実家にいたのですが、この話し合いの時に「実家に行って帰ってこない」と夫に言って呆れられていました。夫が「自分が実家に行かせろといったんだろう」というと、「そんなこといってない」といい、都合の悪いことは忘れるというのをみんなの前でバレてしまった瞬間でもありました。
1998年5月
とうとう待ちにまった引っ越しです。前日まで、悪かったからいてくれと言っていた義母ですが、夫に言わせると、そんなのすぐ忘れてまた元に戻るからというのです。まぁ、そうだろうなぁとまゆも思いました。
たかが半年の同居でも、精神的・肉体的にキツいというのは、マイナス思考にはしりやすく、同居中何度も「死んじゃおうかなぁ」と思ったことがあります。でも、それは、結婚した年に夫にクリスマスツリーの飾りつけを手伝ってもらった時、「俺、クリスマスツリーを飾るのはじめてだ」と言った夫にこれ以上寂しい人生であってほしくないからできませんでした。いまは死なないで良かったと思います。
でも、嫌がらせは続くのよねぇ、これが・・
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