山野の彷徨
回想
会社退職後の現在、気ままに家を後にして出かけて行くささやかな趣味に入りこんだ原点は、
50数年も前の幼い頃、母の実家に遊んだ頃だった。
男の従兄弟が10数人も本家に集まって、夜明け前にカマヤに集まり朝飯をかき込んで出撃していった。
カマヤとは、10畳くらいの母屋からちょっと離れた、今風に言えばログハウスであり、
大きな木製の食卓とベンチが置かれ、土間には土窯に巨大な鉄釜が据えられ、
四六時中、ホダ火がちろちろと燃え、釜の中には折れ餅(米粒の折れたものが餅の中につき込まれたもの、
その舌触りはごそごそとして、今では郷愁をそそるものとなってしまった)を主とした大根、サトイモ、
にんじんのごッた煮が自家製のしょうゆで味付けされていた。その雑煮が腕白どもの日常の主食だった。
何をターゲットに出撃したかって?
秋から冬は北へ向かう。
富士山へ向かって上ること30分、原野にはさまざまな小鳥が群れていた。
キャプテンの英太郎ちゃんは小鳥の群れの分布地図が頭の中にインプットされていたから
ナビゲーションは的確だった。
薄暗いうちに現地に到着した一行は、キャプテンの命令のもとに割り振られた役割をきびきびと果した。
いわゆるムソウ網をセットし終わると籠に入れて持ってきた引きおとりを網の真中近くに据え、
網から少し離れた叢に、鳴きおとりの籠を隠し30メートルほど離れた繁みに網引きの名人の真が
引き綱2本を持ってかくれる。ほかの者は近くのわら小屋に入りこみ、じっと待つ。
程なく、上空に100羽以上ものカワラ鶸の群れが鳴声をたてて現れた。
栄太郎ちゃんは唇に指を当てて「ヒューッ」とする。
真は左手の綱を引く、脚を引かれて宙釣りになったおとりはバタバタと羽ばたく。
その姿と叢に隠された鳴きおとりの声に釣られて群れは急降下して網の真中に降りて来た。
栄太郎ちゃんは2度目の指笛を吹く。
一旦、地面に降りた群れが異常を察知して慌てて飛び揚がる瞬間、真は右手の網の引き綱を力いっぱい引く。
網は空中に一回転して群れを捕り込んでしまう。
かたずを飲んで待っていた全員が小屋から飛び出して網の下でバタバタ暴れるカワラヒワを
片っ端から背骨を指で折りつつ布袋に捕りこむ。
羽毛をむしり、内臓を取り除いた獲物を野焼きにして食べるのは美味かった。
時には1羽も捕れずにがっくりしたが、小さな涌き水のくぼ地に牛のような異声を発している
食用蛙を捕らえて皮をむき串焼きにしたりして食べた。
春から夏は南へ向かう。
続く田んぼのあぜ道を縦一列になって、ほてい竹を乾燥させて作った3メートルほどの釣り竿に丈夫な
木綿糸を一ヒロ付けその先に50センチほどの太いテグス、うなぎ鉤を結わえたのをそれぞれが持っていった。
大宮街道に出たら少し南下すると小潤井川の土手に出る。
それぞればらばらに散ってイナゴとかバッタあるいは蝶など羽虫を捕らえて羽の部分を半分ほどにちぎり、
尻尾に鉤をさして水面でバタバタさせる。
ポイントに来るとガバッと凄い水音がして赤ん坊の頭ほどもある大鯰が食いつく。
夕方、薄暗くなるとポケットから取り出した流し置き鉤に、現地で掘り起こした太いドバミミズを差しとおし、
ハエナワのようにして流れを横切らせ元を生えている雑木の根っこ近くに目立たぬようしっかりと結わえておく。
翌朝未明、近所の本照寺の朝の勤行の太鼓の音とともに皆カマヤに集まり、
折れ餅の雑煮をたらふく食べてから昨夕掛けた置き鉤の様子を見に行く。
獲物は鯰が多かったが、鰻も掛かっていることもあった。
なかには、掛かった鰻の体半分近くをズガニに食われてしまっていることもあり、
じだんだ踏んで悔しがることもよくあった。
小学校に入ると、近所のグループに取り込まれ、最上級生の大将に統率され、
学区の異なるとなりの集落の奴らと縄張りを超えた、超えないで盛大な石合戦や
竹ざおでの白兵戦に駆り出された。
大将は学業の成績はさておき、縄張りを守ることや、どんど焼きの段取り、
天王祭の神輿をかついでのあばれ方、春になると遡上してくる鰻やズガニの
穴釣りの指導には抜群の実力を持っていた。
中学校、高校ではちょっと進んだ街場の同級生に背伸びをして、
自分を合わせようとして野生を失ってしまっていた。
東京都内での4年間と大阪での就職,、そして岳南地方に舞い戻っての1、2年は
休日なしの働きで動きがとれなかった。
たまたま、高校時代の柔道部の先輩で、兄のように付き合ってくれた吉野さんが
登山のグループを発足させたので、その仲間に入れてもらえた。
めったに取れない休日をもぎ取るようにして、富士山、その西側の長者ヶ岳および
天子ヶ岳、愛鷹山のルンゼの岩登りから始まって、天城山縦走、
山梨県の標高2000メートル前後の山々、そして行きつくところ南アルプスの主だったピーク、
更には年の暮から正月を冬山ですごすようになった。
27才の時父親が胃がんで、30才の時母親が脳溢血で死亡し、一家を支える羽目になり、
気ままな旅をするわけにはいかなくなってしまった。
母の35日忌を済ませて、友人の紹介で知り得た女性と結婚した。
登山グループはスワン会と名付けられ、9人のメンバーだったが、
適齢期で次から次へと結婚していたが、わたしが最後の独身者だった。
当然.新婚さんは山登りは疎遠になる。
時たま、登山姿の若者を見かけると、なんとなく血が騒ぐのを感じたが、現実は甘くない。
休みが無いのでは何も出来ない。
そのころ、会社の上司にちかくの海岸での夜釣りに誘われた。
アウトドアライフの再現である。
登山よりは、短時間で近くで楽しめる釣りこそ我が喜びだ。
キスやイシモチ、黒鯛をターゲットに頻繁に出漁した。
しかし、海岸からの釣りは潮時と天候、ことに南風が吹く日は駄目で、絶好のタイミングに
出くわすのは数少ない。家内は海辺の生活はしたことが無いので、餌のさなぎや、
磯独特の匂いに弱かったようだ。度重なる海の匂いと、真夜中の帰宅に拒否反応を示しはじめた。
窮極は、退社後から暗くなる頃までに楽しめるのは鮎か渓流である。
何人かの、鮎のどぶ釣りや、渓流釣りの経験者に教えてもらったり、
その頃から少しではあるが出版されはじめた手引書を頼りに
内水面の釣りに入り込んでいった。