渓流釣り
結婚したての頃には、軽4輪車を購入したので今までよりは、
行動範囲が広くなった。
妻の実家の芝川町にも気楽に行けるようになった。
今でこそ、芝川は乱開発と観光施設の乱立により自然が破壊
されてみじめな環境になってしまったが、当時はまだ、昔ながらの
手付かずの自然が残されていた。
と、いっても富士山から涌き出る豊富な流水は猪之頭の源流から
富士川への流入口までに 18ヶ所の発電所で寸断されていたが・・・・・・
[ 初心者あわれ ]・・・・・・精進川
最初の釣行は、市内北西部の精進川だった。日蓮正宗大石寺の西に位置し
下流で芝川に合する小河川で流れものろのろとしていた。釣り道具一式は揃ったものの、
運動靴を履きすべり止め対策をしてなかったため、小さな放流にじますを3尾釣ったところで、
踏んでいた石から滑って,背丈ほどもある深さの溜りに飛び込んでしまった。
ポケットの中の1000円札もたばこもマッチもぐしゃぐしゃになり、3月の夕方の寒さに身震いした。
おそまつな渓流釣りのデビューである。
渓流釣りの第一ステップは、しっかりした足ごしらえですぞ!
よろしいかな? おのおのがた・・・・・・
家に帰って大いに反省した私は、なけなしの小遣いをはたいて、
腰丈の長靴とわらじ(当時は、底にフェルトを貼ったウェーダーなどは売っていなかったし、
よしんばあったとしても高値で手が出なかったろう。)を買い、次の目的地を訪れた。
同じ芝川町でありながら山一つ隔たる平家落人伝説の残る里 稲子川である。
[ 一期一会の老釣り師 ]・・・・・・稲子川
その老人には、稲子川の西ヶ谷戸の川岸で出会った。
その日、私は朝から二時間も釣り上って、アブラッパヤが5、6尾という成績であり、そろそろくたびれてきた。
突然、10数メートルほど上流の緩やかな流れの水面が、雨にでも叩かれたように無数の波紋を立て始めた。
山女魚だ!
思わず、急ぎ足でその波紋の方へ近付こうとしたとき、左手の道から小柄な老人が川岸へ降りて来た。
焦げ茶色の古びた登山帽をかぶり、手拭いで頬かむりのように顔を包み、
茶色のコールテンのジャンパーも時代ものである。
私の前まで来て立ち止まり、「どうですか?」と、和やかな口調で尋ねた。
私はその老人の姿と釣り道具を見て、この日の釣りを諦めた。
この人が同じ川に入ったからには、初心者の自分に獲物があろう筈が無い、と思った。
老人の手にした、元の太く穂先のしなやかそうな竹竿も、腰の魚篭も真っ黒につや光がしている。
仕掛け入れは革製の使い込んだもの、餌入れの前差しは、太い竹を輪切りにして板の蓋が取りつけてある。
私がテレ隠しに笑いながら「初めて稲子川へ来たもんですから、釣れるわけがないですよ。」
と云うと、聞き慣れた言葉に返事するかのようにうなずきながら、「一服しよう。」と丸い石の上に腰を下ろした。
私も向かい合って腰を下ろす。
「入漁証をお持ち?」
ジャンパーのポケットから日釣り券を出して見せると、
「魚篭の横につけておいてください。」という。
私の持ったハヤ竿の穂先から手元まで吟味するかのように目を通す。
老人の竿の糸には白い羽が一枚と釣鉤だけがついている。
私は勉強のつもりで尋ねた。
「オモリは使わないんですか?」
「カジカの卵を餌にする時はオモリはいらない。」
「ヨモギ虫を餌にしているんですが、どうでしょうか?」
「変わった餌だね、おもしろいかも知れないよ。」
老人は答えてくれた。そして前差しの竹筒の中から、大豆ぐらいの大きさにちぎったカジカの卵の塊を
つまみ出し、鉤をその中に通しベルトに挟んだ真綿の一部を抜き取って鉤と餌とを一巻きして見せた。
「3月1日の解禁には、750匁釣った。昨日は350匁だった。
今日はたったの1尾だ。初めてのあんたが釣れないのは当たり前だよ。」と云う。
老人は魚篭の中から17.8センチの山女魚を取り出して見せてくれた。
彼は若い頃、白糸滝の付近や富士宮の料理屋から頼まれて、山女魚を釣るとバスで稲子駅まで行き
身延線電車に乗って富士宮駅に着くと、あとは自転車に乗って、大急ぎで注文先に届けたそうである。
この川で25.6才の頃から釣り始め、もう40年ちかくの経歴になるという。
胸に付けた監視員証には佐野という姓が読めた。
川面ではまだ盛んに波紋が立っている。
「あれは、全部山女魚の”ハネ”だが、こんな時には餌は食わないもんだ。
毛鉤なら話は別だがね。」
「毛鉤はむつかしいものらしいですね?」
「5メートル先に盃を置いてその中に水を張る。盃の中に毛鉤が入るように竿を振らなければ駄目だよ。
竿先から毛鉤までの間は糸が空中になければ駄目だ。水の色が変わったら合わせをくれる。
山女魚が見えてから合わせてももう遅い。」
聞いていて私はすっかり驚いてしまった。
彼はちらりと腕時計を見ると腰を上げた。
「さて、わしは釣り下って,次のバスに乗るけどあんたはここから上をもう少しやって見なさい。」
と言って歩きだした。私は腰かけたまま見学することにした。
老人は、まるで猫のように、静かに川岸に立つと、右手を柔らかな動作で振る。
餌は静かに水中に沈み、流れに従って竿の穂先が下流に送られていく。
しかし、この老人でさえ、その日の山女魚をこれ以上釣ることは出来ないようだった。
稲子川へ二度目に行ったのは、佐野老人に会った日から1ヶ月ほど過ぎた5月の雨上がりの朝であった。
バス終点の落合から4・5百メートル程下流のザラ瀬に降りると、川幅いっぱいのささ濁りの流れに
膝まで立ち込んで老人のまねをしてみた。
手前をひと流しする。流れが速すぎて、目印などとても本に書いてあるようには感じ取れない。
更に半歩、右足を進めて慎重に足場をかためると、もう一度上み手に餌のみみずを投じた。
速い流れに逆らわず穂先を目印の動きに合わせて下流へ送り込む。
突然、がくん!と右腕に強い響きが伝わった。
穂先は、ぐん、とたわんでしまい、ぴん、と下流へ張った道糸についている目印が
30センチぐらいの間隔で上下しながら激しく揺れている。
身体中が、カッ、と熱くなった。
腰をかがめて、竿を懸命に立て直す。右に左に走りながら、魚は少しずつ目の前に寄ってきて、水から離れた。
宙釣りになって、激しく尾を振る獲物を何度もしくじりながらようやく左手に収める。
薄緑色の背、灰色の楕円紋、腹に点々と散っている鮮やかな朱色の星。二度三度眺めてから魚篭に収める。
魚篭の底に少し余る24センチぐらいの山女魚だった。
稲子川は気持ちの良い川である。
漁業協同組合の管理がしっかりしているし、部落の人々は川を大切にしている。
富士地方の他の川のような毒流しや電気密漁は一切やるひとがいない。
渇水時には、川底が丸見えになり水深も15センチぐらいになってしまうところが多いのは残念であるが。
雨が3日も続くとささ濁りの釣りやすい状態になる。中型の山女魚は流心で盛んに餌をくわえる。
稲子川へ行って、一日中釣っていてカラ魚篭であっても、私は別に悔しいとは思わない。
あの老人でさへ一尾しか釣れない日もあるのだから。
残念に思うのは、8年前のあの日、たった一時間たらず、釣りを教えてくれた佐野老人が、もう一度会って
話を聞きたかった私の望みも叶わずに、数年前、稲子川最後の職漁師の生涯を閉じてしまったことである。
上記の文を書いた数年後、書店で新書版の棚に並んでいる背表紙を流し読みしていた私は、
確か岩波新書だったと思うが、井伏鱒二著の「釣師、釣場」というタイトルに気を惹かれ
手にとってパラパラとページをめくってみた。飛ばし読みをしていたのだが、
阿佐ヶ谷の釣師という章の途中で、はっと驚いて丁寧に読み直した。それを抜粋してみる。
谷川で釣るヤマメやハヤのときにも、私は「合わせる」傾向を大して悪いことと思っていなかった。
時によっては、合わせまいとしていながらも思わず合わせていた。また、おぼろげながら、
今のは合わせないほうがよかったと思うこともあった。それが自分の意思に逆らって
自然に合わせるように手が動いて来る。釣りの本にも、糸が伸びきったら軽く合わせるのだと言ってある。
「ヤマメは絶対に合わせるべき魚ではない。竿の方で合わせてくれるからね。」
しかし、そう云う大沢さんも初めのうちの三十五六年前には合わせていたそうだ。
それも穂先の固い二間半のハヤ竿で、合わせていたそうだ。
大沢さんは初めてヤマメ釣をした時の話をした。
三十五六年前、甲州に富士身延鉄道の電車が開通し、東京から富士川筋に釣師が出かけて行くようになった。
そのころ、新聞にヤマメ釣りの記事が出た。
ヤマメのことなら銀座の服部時計店裏の塗料屋に聞け」と云ってあった。
さっそく聞きに出かけると、「ヤマメのことなら富士身延鉄道の車掌に聞け」と云ったので、
その晩に甲州に出かけて甲府の宿に一泊した。その翌日、富士身延鉄道の電車に乗って車掌に聞くと、
「ヤマメのことなら、稲子の佐野正一に聞け」と云った。
そこで稲子駅に下車して峠を越え、佐野正一が佐野川で釣っている現場へ辿りつき、
事情を云って 佐野に釣り案内をしてもらった。この人(現存)は立派な釣師である。
二人は一緒に釣り上って山の宿に寄ってから魚篭の中のヤマメを勘定した。
「忘れもしない、佐野は百二十三尾」と大沢さんは云った。
「俺は小さなやつを九尾しか釣れなかった。」
佐野の竿は苦竹の二本継ぎで穂先が柔らかくて細くなっている。こういう竿は甲府のキラクという竿屋にあると
佐野が云ったので、大沢さんはすぐトラックに便乗して甲府へ行き、同じような竿を買って来た。
佐野は釣場へ行ってから実地に教えてくれた。
「佐野の云うには、合わせては魚が逃げる。変だと思ったら、ほんの二寸か三寸、糸が張る程度揚げてみろ。
かかっていたらぐぐっと来る。かかっていなければ、そのまま流して行く。佐野がそう云うんだ。」
しかし、実際にやってみると、どうしても合わせている。自分の意思に反して合わせてしまう。
結局は一尾も釣れなかった。
「すっぽろかしてみろ。ここの上のいい淵で。馬鹿な顔をして、うっちゃっておけ。佐野がそう云うんだ。」
それで、上のいい淵で、何げない気持ちのつもりで餌を放りこむと、ぐっと来て一尺くらいのやつが釣れた。
これに気をよくして、ばかな顔して釣っているとその淵でまた二尾釣れた。
「佐野の云う通りだ。よく本に書いてあるようだが、糸のふけで合わせて釣るというのは、馬鹿なことだ。」
穂先の固い竿はよろしくない。胴がしっかりして、ウラが細くて柔らかい竿がいい。魚の呑込みがよくて
向こうから合わせてくれ、穂先がしなって魚の引く力が胴へ来るわけだ。だから魚の自由にならないのである。
竿が釣ってくれるのだ。流しきって揚げるとき、合わせなくても流れがあるから自然に合わせると同じ結果になる。
合わせたやつは十尾のうち三尾は抜け落ちる。断崖の上から釣るときでも、ウラが細いと、
大きなヤマメも水の瀬に従ってすっと揚がる。竿に調子がついて揚がってくる・・・・・・。
(私はこの本を誰か釣り好きの人に貸してやってそのまま、回収不能になってしまった。
何とかしてまた、購入したいと思っていたが、絶版といわれ諦めかけていた。
たまたま、市立図書館で筑摩書房出版の井伏鱒二全集 ―1998年5月25日初版第一刷発行― を探し出し
わくわくしながら第一巻から順をおって目次を追って行くと、第二十一巻に載っていた。ようやく会えた。)
釣り仲間の遠藤が稲子出身の女性と結婚した。稲子と聞いて前から気になっていた私の出会った老釣師が
佐野正一と同一人物か否か特徴や推定年齢を聞いてみた。
間違い無くその人だった。
現在、私はてんから釣りにはまりこんでいて、全日本釣り団体協議会 公認釣りインストラクターの資格を取得し、
少しずつ活動しはじめているが、私の生涯を通して楽しみたい渓流釣りの第一のインストラクターは
故佐野正一さんである。