名前/YASU
性別/男
生年月日/1967年12月8日
血液型/AB
出身地/埼玉県大宮市
現住所/埼玉県川口市
パチンコ歴/約8年
パチプロ歴/2年2ヶ月
自分とパチンコとの出会いは比較的遅く、大学の1年の時。自宅から大学まで2時間半かけて通っていた時の学校帰りにやりはじめた。ただ、何の機種を打っていたのか全く思い出せない。覚えているのは換金した時にいつも、ビートルズのCDをとり替えてたことぐらい。パチンコが好きというより、ちょっとお金が儲かり自分の好きなCDをとることが、楽しくてやっていたような気がする。不思議とあまり負けた記憶がない。結局、長時間通学に耐えかねて下宿をはじめることなりそれとともにパチンコとは縁がなくなった。この時期からパチンコにのめり込んでいたら、もしかしたら人生が変わっていたかもしれないが・・・。
大学を無事4年で卒業し、某オーディオメーカーに就職。営業として岐阜県に配属となる。関東以外で住んだことがない自分にとって岐阜は未知の世界。当然会社の方以外は知り合いが全くいない状態で、おまけに遠距離恋愛に失敗して彼女と別れてしまっていた。休みの日がやることが全くなくて、パチンコをまた始めてしまったのです。
打っていた機種は京楽の「フルーツパラダイス2」。777で揃うと5連チャンが確定するのが楽しくてお金をつぎ込んでいた。換金、遊戯ルール、確変突入率の低さなど全く考えず、ただ当てたいということのみに喜びを感じているだけだった。当然、給料はおろかボーナスもなくなる始末で、自動的かつ強制的に約半年の禁パチ状態に突入することとなる・・・。
禁パチが終わったのは会社の先輩のSさんのお誘いで、久しぶりにパチンコ屋に行った時であった。Sさんに誘われてやった機種がニューギンの「ツービート」という2回権利物だった。一回当たればセブン機の2倍の出玉があることが心を奪われた理由だった。今から考えると単純極まりないが・・・。
時代はちょうど保留玉連チャン機全盛のときであったが、自分は「ツービート」の後継機種の3回権利物「カーニバル」にのめり込んでいった。ルールはたしかほぼ1回交換に近いLN制だったが、今から考えても権利物のわりに良く回っていたはずで、そこそこ健闘してた記憶がある。「カーニバル」との出会いで少しだけではあるが、突っ込むことに対する怖さがなくなったのと、お金を使うスピードの速さを知ったような気がする。
転勤で岐阜から実家の大宮に戻った後も「カーニバル」との勝負は続いていた。「カーニバル」という機種のロングセラーのおかげで、権利物にどっぷりとつかった感じであった。
「カーニバル」の後継機種として登場したニューギンの「キューティパニー」。3回権利物で実践上では4回に1回数珠連チャンがおきるという、非常に魅力的な機種だった。しかし、このギヤンプル性の高さが自分を奈落の底へと落ちて行かせたのだった。ルールが厳しくても、デジタルの回りが悪くても、連チャンの魅力勝てずお金をぶち込んでしまった。その頃実家に住んでいたので生活費がそんなにかからないのにもかかわらず、またしても給料、ボーナスが消えていった。
ただ、今回は禁パチにはならなかった。半依存症的な要素もあったと思うし、パチンコが好きでたまらないというのもあった。なんとか、パチンコとうまく付き合う方法はないだろうか・・・。
そんな時「パチンコ必勝ガイド」に載っていた安田プロの記事。書いてあった内容は持玉で粘ることの有利性、タイムサービスの有利性だった。そして他のお客さんと差をつけることの大事さも・・・。
早速実践をしてみると、タイムサービスを活かして12時間打ちきり1万円の勝ち。12時間打ちきることが始めてだった自分にとって疲れと充実感と満足感をもたらした。と同時にパチンコで勝つということの為に努力することの楽しさ、会社帰りの少ない時間で万単位の負けをくらうバカらしさを痛感した。
パチンコで勝つということに対して、きっかけをつかんだ自分はこれ以降打ち方のスタイルを変更した。会社帰りは絶対に打たない。打つとしたら休みの日に1日打ちきれる時のみにしたのだ。ちょうどこの頃、仕事のほうも休日出勤が多かったので平日に休みが設定できたのもラッキーであった。
時期、店にも恵まれたこともあり、コンスタントに月平均10〜15万を稼げるようになり、サラリーマンとしては充分満足できるものであった。勝つことによって自信もつき、またさらにうまくなろうという向上心も生まれ、サラーリーマンがパチンコをするということにおいて、最高の状態であった。
パチンコに対する向上心、熱意が高まるなかで、自分の中で生まれてきた感情があった。「もしかしたら、パチンコで生活できるのではないか・・・。」忘れもしない1996年の年末ぐらいだった。ただ、その当時営業の仕事に対して不満がなかったので続けるのがあたり前だと思っていた。
結局、1997年の4月に会社を辞め、パチプロを目指すことなった。理由は今考えると発作的な部分が半分、パチンカーにとってのすばらしい夢を実現したいという部分が半分だった。普通の人間だったらこんな選択はしなかったろう。自分が結婚し、子供がいたら当然サラリーマンのままのはずだ。ただ、幸い自分は独身で好きなことができる、やりたいことをやろうという思いが強かったのかもしれない・・・。
実家からも出て一人暮しをはじめ、背水の陣の状態でパチプロ生活を踏み出した。1997年の5月だった。
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