「高松教区の信徒の体験から」
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私が、ネオ・カテクメネートについて今一番心配していることは、この運動が、信徒個人や、信徒間の人間関係に及ぼす影響です。 ネオに関わった多くの人たちは心に深い傷を残し、人間関係に溝が残ると言われます。 果たして真実はどうなのか、知りたくて、高松教区で新求道共同体に関わった多くの方々に、この運動について聞いてみました。 しかし、なかなか納得のいく話しが聞けず、いくつかの疑問が湧いてきました。 そこへデルコル神父様の「新求道運動とは」という本に出会いました。 ここに、この本の内容をもとに、信徒の体験、聞き取り、他の資料とも照らし合わせて、その疑問を検証してみました。 訂正や補足がありましたら、遠慮なく、お知らせください。みんなで、できるだけ正確な姿を作り上げていければ、と思います。 |
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<疑問1> なぜ、ネオを辞めた人は、他の人に、ネオでの体験を話さないのか?
集団の中で告白するということは、自分の知られたくない影の部分が集団に知られるということです。 お互いに影の部分を知り合っていることは運命共同体的「負」の連帯感を生むのではないでしょうか。 そして、縄張り意識が形成され、集団の閉鎖性が強まっていきます。 反面、ネオでの体験はネオを辞めても決して明かせない心の傷として残り、また、決して体験を明かしてはならないという指令は、「この指令に反してしゃべったら、どうなるだろうか?」という強い恐怖を生み出すと思われます。 自然に心に何重にも鍵がかかっていき、、決して明かしてはいけないというようになっていったのが、不思議でした、と体験者。 ネオについて知りたいと思って、体験者に電話をかけてもなかなか話してもらえませんでした。強いおびえが伝わってきました。何かにおびえているのです。 体にしみついた恐怖、不安、それも深くしみこんだ恐怖に反応し、コントロールされています。主の平和は感じられません。 |
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<疑問2> ネオが実際に入った教会の人たちやネオをやめた人たちからいくら話を聞いてもネオがどんなものかつかむことができない?
ネオには、「秘密のオリエンテーションガイド」というマニュアルが存在し、そのマニュアルをもとに、カテキスタが口頭でステップに従って信徒を養成すると聞きました。 書いたものは、決して渡さないそうです。 結局、ネオに参加している人たちが一番ネオのことについて分かっていない可能性があると思われます。 体験者は、ネオについて何の説明も受けず、ただ聖書の勉強会、新しいやり方に参加しているという思いしか持っていなかったそうです。 歩んでいく中で、何かおかしい、と感じ始めたのです。 |
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<疑問3> そしたら、人々はネオの何についていくのか?
求道期間の第一段階は、人集めから始まりました。 カテキスタは、数週間のカテケージスの間でネオに合う人たちに目をつけ、個人的に「とてもいいグループだから入りませんか」と一本釣で声をかけてきました。 釣られていった人達は、幼児洗礼や、要理を余り勉強していない人、洗礼を受けて間もない人、など自分の信仰に自信のない人たちが多かったようです。 ある体験者は、「私も、受洗してそんなに経っていなかったので、まるでイスラエルの民が旅するような充実した気持ちになって、ズズーッと引き込まれていきました」 と言っています。 参加の呼びかけに「 Yes 」と言った人たちは、次の週から、週の火曜か水曜にみことばの祭儀、土曜には感謝の祭儀(独特の)を始めていきました。 カテケージスでは、最初、我慢強く聖書の指定した箇所(予求道期間のテーマ)を聖書思想事典などで研究させられます。 そして、グループのみんなの前で発表させられます。その内容については、一切コメントなくすべてを受け入れられます。 この訓練によって、気の弱い人は強気になる場合もあり、内的な苦しみを出して無条件に受け入れられた人は、自らの罪深さに気づき、大いなる回心と喜びを体験した人もいました。 思いあまって、泣きながら、声を震わせながら、分かち合う人もいて、その様子が人の心をひきつけるのです。 強烈な神秘体験と感じられた人もいるかもしれません。 そして、アガペー(ミサと宴会)や、平和のあいさつ(抱き合ってお互いに祝福し合う)などの体験の積み重ねは、人々をこの「何か素晴らしいもの」に酔いしれ、突き動かせていく原動力になっていったのではないでしょうか。 四角の祭壇には花が一面に飾られ、花の香が満ちあふれ、歌ったり、踊ったりの大騒ぎをする中で、「蜜のような甘い香りにひかれていくような感じがした」と言った人もいます。 私自身、子どもの練成会で、ネオ方式を取り入れた子どもミサに与った時、ギターの独特のリズムに合わせて、抱き合い、手を握りあう平和のあいさつに、しばしその雰囲気に酔いしれるような感動の盛り上がりを感じた覚えがあります。 あの独特のリズムは、不思議な作用を持っていると何人かが言いました。 あの一体感は、何ともいえない満足感を与え、特に孤独な人には、自分を受け入れてくれる場(帰属意識)を与えるでしょう。 ですから、それまで孤独だった人、受け入れられてこなかった人は、この場から離れられなくなる場合が多いのではないでしょうか。 |
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<疑問4> ネオに入るとどうして簡単にお金を差し出していくんだろう?
どうして、このような心理状態になるのか?考える上で、このような体験を聞きました。 カテケージスの後、かれらは、まず雰囲気を盛り上げます。そして、その場の流れを利用して、お金を出しやすくしていきます。 始めは、「神学校に寄付しますから」と言って、信徒から浄財をつのりました。 そして、カテケージスの段階を昇るごとに、金額も上がっていきました。全収入の10分の1から数百万単位のお金が、どんどんつぎこまれていきました。 ミサの花代、ローソク代も余分目に出さなければならず、余ったお金は、神学校の資金にと、手元には戻りませんでした。 その他、宣教家族の生活費、学資、家賃なども別枠で面倒をみなければいけませんでした。 全国大会ともなれば、数日間で、何百万円のお金がネオに入っていきました。 その時、お金を持っていなくても、紙切れに金額を記入させて、後から司教の特別口座に振り込ませるのです。 一般の集まりの時でも、その時必要な金額が提示されて、まわされてきた袋に各自お金を入れてまわし、最終的に金額が足らなければ、もう一度、袋がまわってきます。 その時も、現金が残っていなければ、紙切れに書いて、後から振り込みました。 こうしてお金を差し出させるように、うまく仕組まれているのです。 ネオの司祭から「あなたの一番大切にしているものを持ってきなさい」と言われて、自分が一番大切にしている物を集会に持っていきました。 そしたら、「これをお金に替えるとしたら、いくらになりますか。今度集まるときまでにお金に替えて持ってくるように」と言われました。 ある体験者は、「今思うと、おかしいと思うのですが、そのときの私の頭の中は、売れる物を探していました。『これを売ったらいくらになるだろう。誰に売ったら一番高く売れるだろう』ということしかありませんでした」と言っています。 「お金や地位、人間関係は偶像的なもので、これらのものへの執着が苦しみを生み出すものだから、これらの物への執着を捨てなさい」、と勧めるやり方は、先日テレビで見たヤマギシ会のセミナーのやり方とまったく同じでした。 1990年にマツノイパレスで行われた練成会でのキコの迫力あるスピーチにも、びっくりしました。 何度も何度もお金のジェスチャーをくりかえしていました。 また、「行事に参加させる場合には、直前まで予定を知らせず、急に遠くまで集団で移動させたり、それに対して迷わずついてくるよう指示された。上から言われたことは、疑うことなく黙って従うように持っていかれた」 ということを、聞いた時には、視野狭窄を、思い浮かべました。 馬車につながれた馬が、御者のたづなのとおりに走っていく。疑問を抱くことも、考えることもなくなっていく。ただ、命じられるとおりに動いていく。 見えるのは、狭い範囲の前方しかありません。 閉鎖的な環境の中での、週に2回の「みことば」と「感謝」の祭儀への長時間の参加、そして、「40日のつどい」の定期的な合同黙想指導は、信徒をネオに強く結びつけていくと思われます。 生活の中心がネオになり、ネオ中心にしか物事が考えられなくなり、社会的にはまったく見えなくなっていく心の状態を感じます。 ある人は「自分がだんだん無くなっていき、ネオなしでは生きていけなくなっていった」、と言っていました。 今、実際にネオの運動に参加している人たちのことが心配です。 司祭に勧められて、何も知らずに入った人のいい信徒たちが、大切な財産をみんな差し出してしまうかもしれません。孤独なお年寄りも入っておられます。 この方々の将来は、この方々だけの責任で済まされる問題でしょうか。 |
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<疑問5> この運動は、どうしてこんなに深刻な分裂をもたらすのか?
このような考え方が存在するとしたら、「ネオを支持する者は救われ、ネオを支持していない者はイエズスを殺すユダと見なされ、救われない」、という単純な考え方で信徒は分類されていくことになるのではないでしょうか。 このような人間観に、果たして「良きサマリア人」の例えでキリストが教えられた隣人愛が存在するでしょうか。 当然、ユダに対するネオの行動は人間の尊厳を傷つけると考えられます。 ネオだけを愛するエゴイスティクな運動は、ネオを支持しない信徒をはじきだす流れを生むと考えられます。 ネオ側に含まれる信徒は同様の行動で含まれない信徒をつぶしはじめる、つまり、一般の信徒は、全体としては多いのですが、日頃は群れていないので、いざという時には個人対集団という図式になりやすいと考えられます。 実際に、昨年ネオに反対を表明したために、高松教区の信徒が受けた徹底した弾圧は、この考え方によってでしかできないと思われるような人権を無視したものでした。 人間の尊厳を尊重したものだったとはとても考えられません。 この傷は、なかなか癒されないものであり、人間関係に深いヒビが入りました。 私としては、「みせしめ」になったという感想を持ちました。 「みせしめ」になった者(第3の円)、「みせしめ」にした者(真ん中の円)、「みせしめ」によって反対することがどのような結果を受けることになるかを見て自分を守るために逃げる者、(第2の円)という図式にあてはめると、いかがでしょうか。 どの円に含まれても、信徒は傷つきます。「ゆるしあえない」思いが残るのです。 ネオが入って分裂した教会には、深刻な人間不信の溝ができてしまっています。 この溝は、私たちが作った溝ではないのです。 ネオという組織が、自分たちだけの存続を中心とすることから起きた分裂なのです。 この溝は、将来状況が変わっても、残る可能性は大きいと考えられます。 この溝を、どう修復していったらよいのか。今、この溝をはさんで両側に分けられてしまった信徒の和解が大きな課題です。 そして、ネオの支配が広がるにつれて、拡大していく問題なのです。 最後に、最も深刻な報告をしましょう。 いくつもの教会で、この運動に入ったために、精神科の病院に入院した信徒がいるそうです。 医師から、「この運動から離れないと、あなたの病気は治りませんよ」 と言われ、カウンセリングを受けている信徒がいるのです。 |