2001.1/11-20

遊歩 - 01/01/20 17:23:04 電子メールアドレス:yugyosha@nyc.odn.ne.jp
htさんのご意見に全面賛成です。新求道共同体が正統であるかどうかと言う議論の前に、教区や小教区が経済的に分裂崩壊するかどうかの切実な問題だと思います。
日本の司教方は、すべてバチカンから任命された方々ですが、一端叙階の秘跡を受けた以上は、たとえバチカンの意向に反しても御自分の教区を守る義務があると思います。
僭越ですが、何らの発言もなされないのは、この義務に反することではないかと危惧する次第です。
これは、ある団体を認可するとか、断罪すると言うこととは次元の違ったことだと信じるものです。



ht - 01/01/20 15:15:45
01/01/19のコメントに: 東京教区でも「対岸の火事」的な発言の司祭も多い。信徒においては、自分の信仰も考えられないし、教会の奉仕などにもわれ関せずの方が多数派です。
当然温度差はあります。東京を例に取れば恵まれた教区です。腹を痛めずに人に作ってもらった教会に出入りしているわけですから、当然と言えば当然です。
しかし、「CJML」や「明日に向かって」に書き込みや発言をしていないだけで、高松教区に心を痛めている信徒が東京にもいることを知ってほしい。
理由がありhtの名前で書き込みます。ご理解ください。それにしても書き込みのみなさんは、高松教区がどうしたら問題を解決できるか、真剣に考えてほしい。
各教区の司教がバチカンの任命であるため、他の教区に司教が発言できないでいる馬鹿さかげんが嘆かわしい。
ミサの時に教会の一致を司祭が唱えますが、これを日本の教会の一致と改めてほしいくらいです。小生は「勝手に処理してくれ」とはもうしません。
バチカンでの日本のポジショニングは「布教国」にすぎません。その日本でテリトリーを犯さないなどとくだらないことを言っている場合ではないと思います。
他の教区が困難な状況に陥れば、手を差し伸べる教会組織であってもらいたい。でなければ、日頃、聞かされている説教など空しい。


みかん - 01/01/20 02:37:49 電子メールアドレス:bergamia@aquaphonia.net
>東京教区では名目上禁止ということでしょうか?
服部さん、こんばんは。教区の見解はあいにく存じませんが、オプス・ディの時は何度かのやり取りを大司教とされた後、「小教区を守るように」と主任司祭の判断に任されたと聞いています。
私が通っていた教会は宣教会運営の小教区でしたが、よく耳にする「修道会つき」などの表現は大司教がとても嫌っていました。
運営を任せることと違うのだそうです。もっとも、その教会は元は宣教会の本部でしたから、小教区認可の折り、東京教区は聖堂と司祭館の一部と信徒ホールを譲り受けた形になりました。
そのへんの事情もあったのかもしれません。
飽くまでも教区の小教区という観点からは、ネオの活動は受け入れられないのではないか、と推測しますが、大司教が変わりましたよね。
どうなんでしょう...尋ねてみたい気もします。


プーサン - 01/01/19 17:35:54
私はこう思います。この小豆島の問題は、高松教区の問題なのではなく、たまたま、高松教区で起こった問題であり、日本全国どこででも起こり得ることと認識しております。
ですから、将来これを見ているあなたの教区でも同様の事件が起きる可能性はあると思いますよ。
今までの日本のカトリックの聖職者中心主義も、この問題にからんでいるのではないでしょうか?
今後、このような問題の発生を未然に防ぐ意味でも全国の方に関心を持っておいてほしいと願います。


- 01/01/19 13:26:30
色々読んでいて思うのですが、問題に近い所にいる高松の信者と離れている所から見ている信者とは、かなり温度差があるように思えて来ました。
それは当然の事なんでしょうが、なんだか、「もうこの事はそっちで勝手に処理してくれよ!」と、暗にほのめかされているように感じるのは私だけでしょうか?


服部 興治 - 01/01/19 11:21:59 電子メールアドレス:okhat
Chiho - 01/01/19 09:06:53 電子メールアドレス:hashimot@d2.dion.ne.jp Chichoさん こんにちは
「思い出したのですが最初私は神父さまにどちらのミサに来てもいいですよと言われました。」 と言ってくださる神父様はありがたいのですね。
それが普通の神父様と思います。新求道共同体は教会内における一部信徒の活動でしかありません。私もそれを否定してはおりません。
東京教区では名目上禁止ということでしょうか?


Chiho - 01/01/19 09:06:53 電子メールアドレス:hashimot@d2.dion.ne.jp
みかんさん、ありがとうございました。よくわかりました。思い出したのですが最初私は神父さまにどちらのミサに来てもいいですよと言われました。
私は日曜のミサでは聖歌で気持ちがきれいになれ土曜日の共同体のミサではイエス様が自分の身近に感じられます。
本当は修道女になれるものならなりたかったですが・・神様は私にそれをお望みにならなくて、別の形で導いて下さったのだなーと今は非常に感謝しております。
みなさんどうもありがとうございました。


みかん - 01/01/19 00:10:08 電子メールアドレス:bergamia@aquaphonia.net
磁磁磁って、変換ミスしたようです、すみません。 Chihoさんの疑問はごもっともと思うのですが、私の意見として少し書かせていただきます。
主日(日曜日)のミサと同じである土曜日の夕刻のミサ、聖書の時代の日の数え方から日没が一日の終わりでしたね。
以前司祭から聞いた話しでは同時に翌日の始まりとしていたらしいです。
新求道共同体の形式のミサを土曜の夕刻に執り行うことに、みなさんが同意されたら分裂は起こらないものだと思うのですが、もし、ある日突然主任司祭から土曜の夕刻のミサの形式を変えます、と聞かされたらどうでしょう。
「分裂」というのは、そうした経過などがあって、ある時間が経過した結果ですので、今の状況からは疑問だけが生まれて来ると思います。
もちろん私はその場にはいませんから断言はできません。自分が経験したことで書かせていただきましたので、その点はご理解くださいね。


みかん - 01/01/18 23:57:00 電子メールアドレス:bergamia@aquaphonia.net
磁磁磁ネオの運動が、信徒の間から自然発生していくのを祝福しているように見受けられます。
ネオのような信徒の運動は、教区が政策的に押し進めていく性格のものではないと思います・・・同感です。
それをどうも解釈の差といいますか、そんなものを感じるところに、いわば新求道共同体の、ある種の純粋さも感じるのですが。
ですから、こういったムーブメントもどこでトラブルになってしまうのか疑問です。 
ちなみにいくつかコメントいただいたオプス・ディですが、当時の主任司祭は教皇庁立の宣教会司祭でした。


プーサン - 01/01/18 22:19:58
あささんによると、大分のカテドラルも、ネオ様式に改装されたようですが、四国の宇和島教会も、同じように、司教により、”これこそ、ローマの標準だ”とゆうことで、ネオ様式に改装されてしまいました。
だいたい、ネオの運動は信徒から、自然発生的に起こったもので、ネオの神学校も、教区民の中から、自然な形で出来てくるものではないでしょうか?
私には、よく高松のT神父が自分の正当性を主張するために振り回す教皇文書は、ネオの運動が、信徒の間から自然発生していくのを祝福しているように見受けられます。
ネオのような信徒の運動は、教区が政策的に押し進めていく性格のものではないと思います。
高松司教の一連の勧告文書ですが、始めは嘆かわしいと思っていましたが、あささんのおっしゃるとおり、レベルが低すぎてだんだんバカバカしくなってきました。
ほんと、非常識です。以上


アサさん - 01/01/18 21:29:33 電子メールアドレス:ashoichi@opfri.oita-ri.go.jp
新求道共同体のことを考えることは、自分の信仰を考えることにつながっています。その意味で、これに出会ったことは、私を眠りからさましてくれたようなところがあります。
すこし、自分のことを見つめ直してみたいなと思って、若い頃のように、教会の仕事をお手伝いし始めたら、それが共同体でした。 
土曜日の夜のミサは、学生時代司祭館の空き部屋に神父さんのお情けで住み込んでいたので、よく与りました。
人はそんなに多くなくて、オレンジ色の電灯とろうそくの光の中で、静かに祈れる・・・・そんな雰囲気が大好きでした。
それに両形態(形色)でしたし、ヴィノデミサの芳醇な甘い香りが漂っていました。
ミサの後は司祭館で、仏教徒の学生やプロテスタントの信者などが一緒くたになって、議論していましたっけ。私のよき時代(笑)


名無しさん - 01/01/18 21:18:30
・・・となるとオプス・デイかな?・・・・・・話はズレますが、ホセ・マリア師と同時に列福されたシスターバキータ、昨年ホセ・マリア師に先だって列聖されました。
彼女は奴隷でそのうえ黒人で学歴は何もありませんでした。列聖のための奇跡を起こすために祈る人を組織的に動員することも某属人区と違ってできなかったと思います。
神様はへりくだる者、組織に頼らない者、無学な者をより愛されているようです。


名無しさん - 01/01/18 21:08:43
土曜日の晩に主日のミサをするのは何も新求道共同体に限ったことではないと思います。
新求道共同体とは何の関係もない私の小教区でも土曜日の晩に主日の分のミサをしますが、結構人が来ます。
もともとは聖堂が小さいため、参加者を分散させないと入りきらないという理由から始まった習慣ですが、今日ではサービス業に従事する信者の比率が高くなったため、好評です。よその小教区からも出席者が多いです。
土曜日と日曜日にミサがあるからといって別に共同体は表立っては分裂していません。
というのはそのため信徒会長とかの役員さんは日曜日に出席できる人の中でも公務員やら定年退職者やら大学の先生やら時間的に余裕がある方ばかりになってしまっているという事情はあるものの、もともと教会の役員さんや各種奉仕係は男性信者の中で一番多い営業職や販売職のサラリーマンには時間的に無理ですからです。
というより私は不思議で仕方ないのですが、専業主婦以外の仕事をもっている信者が、どうやったら新求道共同体のような活動に時間をとる暇があるのですかね。
只でさえ民間企業は人減らしでサービス残業や休日出勤が増えているというのに。また時間的に余裕がないのは私の小教区を見る限り自営業の方も同じでしょう。
そういう事情もあるにも係わらずウチでは司祭が共同宣教司牧の観点から信徒への役割分担として会議や行事が増えるばかりか求道者への要理教育まで信者が交替で担当するようにと言うので、先日もサラリーマンの男女の信者で私たちは神父様と違って仕事や生活がかかっているのです、毎日9時ぐらいまで残業しているのに夜8時からの会議とは何事ですかとクレームを出したところです。
新求道共同体って余程ヒマ人の集まりなのでしょうか?


アサさん - 01/01/18 17:27:16 電子メールアドレス:ashoichi@opfri.oita-ri.go-jo
創始者を聖人にと、努力する・・・教皇に忠実・・・・となるとオプス・デイかな?あれはヨーロッパでは、取り込み型のカトリック・カルトとして様々な書物に紹介されています。
こうした「教皇様」を盾にする新しい運動をさして「教皇の無敵艦隊(アルマダ)」と言うのですね。


アサさん - 01/01/18 17:18:53 電子メールアドレス:ashoichi@opfri.oita-ri.go.jp
わたしの考えです。水曜日にみ言葉の祭儀を行い、土曜日の夜に感謝の祭儀を行う。これ自体は何の問題もないと思います。
ただし、それは、ミサがその二つによって成り立っていることを十分にかみしめるためのものとしてやればいいと思う。全世界で主日(日曜日)に一致してミサに与るということ。
これを大切にするという前提があってこそだと思います。
共同体でどの段階(ステージ)におられるのか分かりませんが、世界各地では、もはや日曜日のミサには与らず、土曜日の感謝の祭儀にのみ与る(これこそが本物との考え方から)ことで、分裂祭儀という事態が起こっています。
実際、宣教家族の皆さんは極力日曜日のミサにも与っていますが、これは軋轢に気をつかっての彼らなりの心づかいでしょう。
実際、土曜日の夜のミサは主日のミサですから、日曜日のミサと同じ位置づけのものです。
共同体にとってたぶん、日曜日のミサ以上に各(核)共同体で祝う感謝の祭儀こそ、彼らにとってのユウカリスチアであると思います。


Chiho - 01/01/18 16:40:29
もう一つ私にはわからないのですが、共同体のやり方の祭儀を土曜日に行うことが教会の分裂になるとこのホームページに問題にされていますが、土曜日のその共同体のミサにだけしか参加しないのならば分裂だとは思うのですが、みなさん日曜日のミサにも毎週参加しそれどころか、毎日のミサにも参加していらっしゃいますよね?
土曜日に共同体のミサを別に行うことがなぜ悪いのかがわからないのです。。


みかん - 01/01/18 12:05:51 電子メールアドレス:bergamia@aquaphonia.net
こんにちは。なかなか自分の意見がまとまらず、みなさんのお話を聞くばかりになっていました、お許しください。 
さて、私も別な会(ここでは混乱を避けるため某会と呼びます)の関わる教会内のトラブルを経験したものですが、新求道共同体側の意見と共通している部分が見られます。
ひとつは「教皇様」「神様」に逃れる部分で、これはマインドコントロール的な「受け売り」のように感じます。聖職者の立場の方までがご自分の考えを語りません。
語るとしたらもうひとつの共通点「聖書」の言葉を引用し、これを状況に当てはめているだけの部分。責任逃れではないでしょうか。
もうひとつ、ご自分の会は間違っていないというおごりににも似た意識が、会を認めない人に対しての非難あるいは無視といった両極端な態度に出ること。
会というバックを常に意識し、一個人としての意見を持っていません。
「信じる」ことはすばらしいのですが、条件付というか、閉鎖的というか、少なくても私が20数年の信仰生活で知っている教会の教えの中には、他者の痛みを感じることもあると思いますが、この痛みを感じるどころか、痛みがあって当然のようなご意見を知ったときには情けなくなりました。 
この痛みから開放されるには会に属し、創設者に祈ると奇跡が起こる、ようなことが書かれている本も出版されていた某会ですが、当時所属していた教会の主任司祭は、奇跡の報告を求めるのは、創設者を聖人にするための政治的な思惑があるという話をしていました。 
まとまりなく書いてしまいましたが、一般信徒に階級などナンセンス、教皇がそんなことまで推薦しているとは思えません。
聖書も自分たちの都合で引用、解釈しているいわばつまみ食いで、何度かのやり取りの中「エホバの証人」の会員の方を思い出したりしてしまいました。 
私も今、これらのトラブルから教会ジプシーをしています。渦中の信徒のみなさんが喜びをもって教会に行かれる日が早く訪れますように。


アサさん - 01/01/18 12:02:37 電子メールアドレス:ashoichi@opfri.oita-ri.go.jp
Chihoさんこんにちはいろんな賛美の歌があっていいと思います。
私が学生だった二十数年前、フォークミサというのが試みられ、私自身大学のギター部だったので、よくやりました。でもそればかりではない。様々なものがありました。
それは日本の人たちが、試行錯誤して作り上げたものでした。それが文化的に根付いたキリスト教への努力の一つだったのでしょう。
でも、共同体で歌う歌は、グループ内で歌う場合は、ほとんどがキコさんたちが作曲したもので、それを基本とするようになっているはずです。
私は、キコさんへのこだわりが危険だと思っています。多様性を重んじた歌へのこだわりは大切だと、私も思います。
(キコさんの曲を歌うことだって、たまにはいいでしょう。いい曲もありますものね)


Chiho - 01/01/18 10:49:03 電子メールアドレス:hashimot@d2.dion.ne.jp ホームページアドレス:http://www.d2.dion.ne.jp/~hashimot
私は、実家が神戸なので神戸の教会でミサに何回か参加させてもらいましたが、典礼の歌ではなかったしミサも違ってわからなかったのでそれぞれの教会によって違うんだなぁって思っていました。
大きな教会のホームページを見ても、フォークミサとかありますから、ミサのやり方が違っても聖書と典礼に基づいていればよいのだと思っていたのですが違うのですか?


遊歩 - 01/01/18 10:05:23 電子メールアドレス:yugyosha@nyc.odn.ne.jp
小生のコメントへの補足です。(長文注意) 「司教には司教の任務、すなわち、自分たちの羊の群れについて日々平常の配慮が完全にゆだねられている。
かれらをローマ教皇の代理者とみなしてはならない。かれらは自分たちに固有の権能を行使し、またかれらが導く民にとっては真実に監督だからである。
したがって、彼らの権能は最高普遍の権能によって抹殺されるのではなく、かえって反対に、それによって肯定され、強められ、保護されるのである。
主キリストによって教会の中に制定された統治形態は、聖霊によって欠けることなく守られているからである。
家長である父からその家族を治めるために派遣された司教は、奉仕されるためではなく、奉仕するために、また羊のために命をささげるために来たよい牧者の模範を心にとどめなければならない。
司教は人間の中から選ばれた、弱さを身に帯びている者であるから、無知な人々や迷っている人々に同情することができる。配下の人々を自分の真実の子どものように見守り、喜んで自分に協力するように勧め、彼らに耳を傾けることを拒否してはならない。
司教は神の前にかれらの救霊についての責任を問われるのであるから、祈りと宣教と愛徳のあらゆるわざをもって、かれらについても、また、まだ一つの群れに属していない人々についても配慮し、この人々を主において自分にゆだねられた者と考えなければならない。(以下略)」(教会憲章27、南山大学監修『公会議公文書全集』別巻)


アサさん - 01/01/18 07:23:33 電子メールアドレス:ashoichi@opfri.oita-ri.go.jp
大分で前司教さんがカテドラルの内装をたいそうな教区のお金を使って改装したとき、信徒や司祭団への充分な説明はなかったのです。
信徒の多くは「なぜ?」と思っていました。
これがローマで主流になっている、本来の形態と信徒には伝えられていましたが、そんな独断専行型のやり方が、新求道共同体への「オオカミがやってきた」的な批判につながっている。
そうしたやり方は、新求道共同体の運動をやっているものにも、やっていないものにとっても大きな心の傷を与える。
今やらないと遅くなるというような焦りがそれぞれの司教さんにはある。自分が捨て石にならないと・・・というような。
でもその焦りは禁物です。それと大分では問題が、表面化していないだけで、かえって新求道共同体へのイメージは悪化しています。


アサさん - 01/01/17 23:53:14 電子メールアドレス:ashoichi@opfri.oita-ri.go.jp
個人的には、共同体の人々とは今でもおつき合いをしています。共同体の中にいて様々なお世話をする終生独身の女性たちもいますが、そうした方たちとも交流があります。
宣教家族の人たちもとてもいい人たちです。しかし、その運動が持っている特性に、その後の様々な軋轢を生む要素が含まれていると思います。
しかし、彼らにとってその共同体の在り方が、自然(本来ラテン系の人が多く、かつラテン的雰囲気に溢れている)なので、何が問題とされるのか認識していない。
むしろ、なぜ?と思っているだろう。もし日本でやっていくなら、文化的受肉(インカルチュレーション)という問題を乗り越えて行かなくてはならないし、無視できない。
さらには教祖的な臭いも排除しなくては受け入れられないだろう。そして、もっと自由に自らの問題点を語り合える場が、相互に必要だ。 
もっとも、高松司教の問題は、もっと低次元の話と思います。こちらは、いずれかの法で処理すべきものかも知れません。


アサさん - 01/01/17 20:44:20 電子メールアドレス:ashoichi@opfri.oita-ri.go.jp
あるメイリングリストで、もうネオなんたらというのは聞くのもイヤだ。もういい加減にして、やりたかったら、よそでやってくれというような発言がありました。
関わりのない人はそうなのでしょうね。でもこの問題は、身近に起きうることです。無関心は最大の敵と思います。 
共同体(ネオ)のことを私は否定的には考えていません。それを必要とする人がいる限り、やればいいと思います。但し、このことだけははっきり言っておきたい。
これだけが本物の道だというのは傲慢だということ。人には様々な道が用意されており、それを選ぶ(本当は選ばされているのかも知れない)のは、その人の自由だということです。
共同体のあり方で受け入れられていないのは、インフォームド・コンセント(あらかじめ情報を与えておき、選択を相手に委ねる)が不足していること、あまりにも共同体的側面を強調しすぎるあまり、そこに入っていけない人のことを忘れてしまうこと。
さらに問題なのはキコさん個人の位置付けと、独自の典礼様式(現行の典礼の枠の中でも充分にできるはずなのに、あえてキコ流を貫くところ)、そしてスペイン・ラテン文化に根ざした様々な部分が違和感を感じさせていることに気がつかない。
ラテン的大らかさは、日本的感性には無神経に写る部分もあるでしょう。そうした、ところをお互いの良さと感じて融和できる体制が必要です。
それをネオ色一色にしようというところに無理が生じるのではないですか?


遊歩 - 01/01/17 12:31:13 電子メールアドレス:yugyosha@nyc.odn.ne.jp
岡目ですが、高松教区の問題は、新求道共同体の問題ではなく、司教さんが御自分の教区長としての立場を離れて特定のグループに肩入れ過ぎておられるところにあります。
「○○は、信仰には反しない」とネガティーヴな形で介入されるのが、教導職の良き伝統だと思います。
権威ある方が一方的に特定の集団を積極的に支援されますと、それ以外の集団は、事実上排斥されることになるのです。これは権威主義社会の宿命です。
世界には、修道者が教区長である教区がたくさんありますが、概ね巧くいっているのは、これら修道者教区長が節度を守っておられるからです。


名無しさん - 01/01/16 22:35:33
>新求道共同体は宗教的にかなり不寛容・・・。
そうですか。前の私んとこの主任司祭の所に、新求道共同体の司祭に引率された信者数名が現れ、悔い改めなさい、改心しなさい、とかいう「説教」をされて参ったという話を聴きましたので、気にはなっていました。
どうもありがとうございました。とはいえ、私は宗教的相対主義やら汎神論とかを認める者ではなく、ただ単に、他宗教への不寛容は度がすぎると宣教の効果いぜんに反発を浴びてしまいかねないという意味で新求道共同体やらその他の自称保守派グループの活動に若干違和感を覚えることがあるのです。
例えば、信者と異教徒との結婚式は絶対カトリック式でないととか、知人の葬式に他宗教だから出ないとか、そういうことやっていれば日本では社会生活が成り立ちませんから。
あとお金もうけについてですが、プロテスタンティズムは資本主義と切っても切れない関係にあります。カトリックはどちらかといえば清貧の宗教ではないでしょうか。
工業や金融業、最近流行のIT産業の発信地はイギリス・ドイツ・合衆国などのプロテスタント国です。
それに引き換えカトリック国は植民地主義では先んじましたが工業化では出遅れた国ばかり。
ここらへんは特にアメリカ系のプロテスタントが富・成功はその人が神に祝福されている印であると教えるのを良く聞きます。
しかし資本主義自由競争社会では隣人は愛する対象ではなく搾取する対象でありライバルですから、人間関係はギスギスしたものとなりますし、成功者の影には敗北者が必然的に発生します。
この点では富と神とに同時に仕えることはできないというその言葉を単純に読む限りはその通りだと思うのです。
ただ、ここにある情報を読む限りはその富と神に同時に仕えることができないという教えを神学院建設の資金を獲得するために結び付けているのではないかという疑念は拭えません。


プーサン - 01/01/16 22:09:33
>新求道共同体はそういった意味でかなり宗教的には不寛容だという噂を聞きますが。 名無しさん、噂ではありませよ。宗教的にかなり、不寛容です。
それだけではなく、働いて、お金を儲けることについても否定的です。


名無しさん - 01/01/16 20:58:45
>「みんなが信者になる必要はないんですよ。信者が世の光になればいいのです。神様の愛は私たちが思っている以上に広いから心配しないでもいいです。」
別に新求道共同体の司祭でなくても、一般的なカトリック司祭なら誰でも言う台詞だと思いますが。
私んとこの主任神父は新求道共同体ではありませんが、求道者には同じように説明しております。
またこれは私んとこの小教区だけかもしれませんが、信者の葬儀をあげる場合に、未信者の実家の反対の関係で、故人の意思にかかわらず、仏式で葬式の葬式をあげた後に別に葬儀ミサをするようなことも以前ありました。
この方の場合、死後に実家に行ったら仏壇の位牌に戒名までついていました。家族で信者はこの方だけでしたので、遺族は命日にミサを頼みにもきません。
これは結婚式にしてもそうで、信者と未信者との結婚の際に、教会と天理教式の2つの結婚式をあげた方もいます。
昔の事は良く知りませんが、現代のカトリックはいい意味でも悪い意味でも宗教的には「かなり」寛容なのではないでしょうか。
大晦日のミサが終ってから教会近所の神社に初詣に行く信者も私の小教区では相当いますし。また神社の夏祭りでは教会学校の子らもお神輿担がせてもらっています。
新求道共同体はそういった意味でかなり宗教的には不寛容だという噂を聞きますが。


山岸 史和 - 01/01/16 20:52:43 電子メールアドレス:fumikazu@dokidoki.ne.jp
松山教会・道後教会・ドミニコ第3会等々の反対派の主張は、「司教区と新求道共同体を別の団体に分離・独立させてください。」ということです。
我々は、「本来、司教区は、各修道会・宣教会の調整機関であり、中立的立場であるべきである。」と、考えています。
「新求道共同体の廃止・解散を求める!!」などとは、決して言っていませんので・・・。修道会・宣教会・信徒使徒職団体は、たくさん有っても構いませんので・・・。
後は、各団体の努力と信徒の自由選択ですので・・・。


もうご存知かと思いますが - 01/01/16 12:56:20
Neo-catechumenate Review ご参考までに。


通りすがり - 01/01/16 01:33:46
司教様のお言葉も見ました。事実なら、私がその場にいたなら、どちらの側にいたとしても胸がはり裂ける思いにかられたことでしょう。お気持ちをお察し致します。
それから、もっと彼らのことについて知るべきでしょう。情報がかなり少ないので、よく分かりません。
誠に被害者の皆様には悪いのですが、私はその共同体については、良い部分のみ残れば良いとも思います。
しかし、この司教様のこのお言葉は、その道のりさえも否定されています。なんと悲しい事でしょう・・・。本心はかなりの憤りさえ感じます。情けないです。
山岸様、ビザンチン・カトリックとは、紛れもなくカトリックです。オーソドックスと典礼・習慣は同じですが、一派閥ではありません。
私の記憶が正しければ、オーソドックスがアメリカに来た当時、ギリシア・カトリックを名乗っていた時代がありましたが、もしこれと混同されているのなら訂正をお願いいたします。
歴史上の都合などで、ビザンチン式の典礼を保持するカトリック教会です。
その長は各民族別教会の総大司教で、我々ラテン典礼に属するカトリックと同じようにローマ教皇であるローマ総大司教の首位権を認めている教会です。
ウクライナ・レバノンを中心とする中東・ルーマニア・ルテニア(旧チェコ・スロバキアの一地方)に比較的信者が多く、ロシア・ブルガリアなどにも信者がいます。
旧ソ連・東欧諸国では、ごく最近まで共産党の当局により禁止され、地下に潜って信仰を守り抜きました。中東では、中東戦争・レバノン内戦で難民になっている方々もいますね。
亡命できる余裕のあった人たちは、アメリカなどにたどり着き(残念な事に、既婚者の司祭を認めているなど正教会と同じ習慣を持っているために誤解を招いて、現地のローマ・カトリック側の理解がなく、若干の迫害行為もあったようです)ローマに直訴するなどして、現地ローマ側の許可を得て教会を建て、現在ではローマ・カトリックの教区から独立し、独自の教区を持っておられるようです。
しかし、広島の人たちが言っていることについては、どうなのでしょう?本当にかなり疑問がありますね。広島の教区では、お調べなのでしょうか?
横道にそれてしまいました。重ねて、良くないものは改められるように、また和解が訪れることがあるように、お祈り申し上げます。


服部 興治@三河島教会 - 01/01/15 16:35:54  電子メールアドレス:okhat116@adachi.ne.jp
カトリックを50年以上やってきました。今回の深堀司教さまの通達を読ませていただきカトリック者として悲しくなりました。
司牧者の粋を逸脱しておりあれでは信徒に対する恫喝としか思えません。
聖職者の世間知らずは理解し許されることとしても、カトリック者でないクリスチャンが呼んだ場合、キリスト教と関わりのないものが読んだ場合どのようにカトリックをお考えになるかということです。
もしはじめて教会の門をたたきミサに出席した者がそれを聞かされたとき果たしてカトリック信者になることを希望するでしょうか?
聖徒の交わりも信徒への心の平和も感じさせない文章に憤りを感じました。皆様の平和の為に祈らせていただきます。


プーサン - 01/01/15 12:45:15
深堀司教の文書を、読み、悲しくなりました。
どうして、反対意見がでるのか、考えようとしないのでしょうか?どうして、教区民の真実の声を聞こうとしないのでしょうか?
このような脅しにみちた文書が、一体教会の公文書といえるでしょうか?
教皇さまの出される文書には、深い慈愛が満ち満ちているというのに、これには、微塵もそれが感じられません。
権威を振り回せば、人はついてくると思っているのでしょうか?教区民を納得させるには、もっと深いアガペーの愛に裏打ちされた権威でなければなりません。
どうして、もっと素直に、そして謙虚にならないのでしょうか?
それと、誤解があったらいけないので、ここではっきりさせておきますが、まるで司教のところにいかずに、他のところに妨害を働きかけたように、書かれていますが、実際は全然ちがいます。
ある一部の反対派の信者さんはもう何回も何回も司教のところへは、働きかけています。
それでも、その主張が全然無視されるので、仕方なしに外部に働きかけているのが、本当のところですよ。
こうゆう事実をねじ曲げた書き方をするから、ますます信用できなくなるのです。


嶋崎神父 - 01/01/15 09:28:37  電子メールアドレス:kanazawa_church@nyc.odn.ne.jp
嶋崎神父@カトリック金沢教会  深堀司教様の文書を見ていると、司教とは思えない脅しの文書に満ちあふれているとしか言いようがありません。
カトリック松山教会の森岡氏の書いた「ミレニアムの虚構」という冊子の中に出てくる調停取り下げのFAX(50〜51ページ参照)をはじめ、今度の文書にしろひどい内容だと言わざるを得ません。 
私は修道司祭ですが、確かに長上の言うことには従順の名の下に従わなければなりません。しかし、それは盲目的従順を行っているのではありません。
もし、長上の言うことに疑問等があるのならば、それを問うということをは認められています。
それを封じるのならば、それは言論の自由を損ねるものであると同時に、神の名をみだりに語ることになり、逆に神を冒涜するものになるのではないかと危惧します。 
詳しい経緯は当事者ではないのでわかりませんが、ただこの問題の根底にあるのは、司教様側の説明不足であるとはいえるのではないでしょうか?
信徒が疑問に感じていることを納得のいくように説明するのは、上に立つものの義務ではないでしょうか? 
また、神学校に反対しているのは、この問題視されている人だけではありません。多くの高松教区の信徒が、反対をしています。        
物事無理をあまり押し通しすぎると必ずしこりが残り、決してその問題の解決にはなりません。以上のことを感じた次第です。
最後に教会法の1752条を引用したいと思います。「教会法上の公正を守り、教会において常に最高の法である救いを念頭に置かなければならない。」


- 01/01/14 17:53:12
共同体の方の意見もこの場でお聞きしたいです。


- 01/01/13 18:36:30
ゲストブックを読んでも問題点が広がり過ぎてよくわかりません。もう一度原点に戻られては?途中から読んでいる私にはさっぱり!


アサさん - 01/01/13 16:13:27  電子メールアドレス:ashoichi@opfri.oita-ri.go.jp
どなたかが、新求道共同体の癒しについて書かれておりましたね。私もこの共同体の「癒し」という要素はまさに、その本質であると言って差し支えないと思います。
要するに「癒しのセクト」です。カトリック教会の既存の枠の中で癒されなかった人たちが、ここで癒されていると感じる。その部分をもう少し私たちは考える必要があると思います。
イエスとその弟子たちは、ある意味では「癒しのグループ」だったのですから。しかし、共同体流の癒しを必要としている人とそうでない人がいる。
そこに選択の余地と自由がなければいけないと思います。ある人にとってはそれが癒しでも、他のある人にとってはそれが苦痛となる。そのことを忘れてはいけない。
物事には二つの面があり、その境目すら曖昧であるということを常に心の隅に置く、そうした謙虚さが欲しいです。
ちなみに、カトリックがキリスト教ではないと言って邪教扱いするエホバの証人の例を挙げるまでもなく、アメリカで盛んな新興宗教のほとんどが「癒し」を基礎としたものであることを覚えておいてください。


あしたに向かって - 01/01/13 15:53:27
私も、メーリングリストを拝見しました。
プーサンが指摘されたように、T神父さまのご意見には、中身が感じられませんでした。すべて、教皇の認可で片づけられているように感じました。


プーサン - 01/01/12 23:19:56
某メイリングリストで、高松神学院のT神父が、いろいろ発言しているようですが、教皇文書がどうあっても、現実の分裂について、なにも解決策を提示できていないのは、つまり、自分の言葉をもっていないからでしょう。
なにか、次々に権威をもって、他人を説得する姿勢は、自分の人生経験(いいかえれば、神の経験)に自信がないからです。


あしたに向かって - 01/01/12 08:20:26
ババさん、広島教区の問題、聞いて驚きました。信徒のみなさまの苦悩、思いはいかばかりでしょうか。このHPのおかげで、他教区の苦しみもわかることができました。
山岸さん、高松教区の問題が少し落ち着いたら、広島教区のはなしも聞きたいですね。
高松の問題は、神学校の建設問題で、教区転覆にも発展しかねない状況だと思うので余裕がないのですが、新求道共同体の根本的な問題や、これが派生してくるまでのカトリック教会自体の問題を考える上で避けては通れないと思います。癒しについてもご意見参考になりました。


山岸 史和 - 01/01/11 23:19:27  電子メールアドレス:fumikazu@dokidoki.ne.jp
私も言い過ぎました。すみません。広島教区の問題は、広島教区民が論じるべきであり、高松教区の問題は、高松教区民が論じるべきです。
更に、個人的苦情は、教会委員会や、ドミニコ第3会等々の場で発言するべきでした。すみませんでした。以上。


パパ - 01/01/11 23:07:52  ホームページアドレス:http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Sirius/8892/index.html
引用して下さった方もいらっしゃるようですが。。。
「****さんとその共同体の信心について」「・・・・・」の2通の公式通達を参照する限りでは、話題になっている某団体は、カトリックとは関係ない。との記載はありますが、その団体に所属する方が、カトリック信者ではない。との記載はありません。
カトリック信者たる者が本人の意思に反してカトリック信者ではない。と言われるのは、教会法によって適法な手順等を踏んだ上にて発せられるべき言葉であり、たとえ教区長であっても破門されていない信者に対してこのような言葉は使えません。
広島教区内の事情をよくご存じの方、いらっしゃいますか?
私のように広島教区の責任ある立場の神父様(司教様を含む)や事情通の信徒などと膝を交えて(ネットではなくて)定期的に実際に会って情報交換している方はいらっしゃいますか?そういう方なら、私の言ったことは理解できると思いますよ。また、幟町小教区での結婚式の事情をご存じの方なら、広島の某結婚式場と現地のカトリック教会の関係はご存じのはず。
知らないはずがないと思いますが。。。 どこの小教区でも結婚式に際し謝礼を得ています。今、教会のような建物で結婚式をしたがるカップルが多いようです。
ミサという名称を使ってクレームの入った結婚式場は、広島だけではありません。横浜にもあります。
(当時、結婚式場側から事情を伺いました。現在はミサという名称は使用していません)
そもそも、広島司教区事務局長が発信したお知らせは、どのようにして生まれたか?その経緯をご存じの方はいらっしゃいますか?。
広島のある結婚式場のCMの中で、カトリック司祭司式による結婚式ができる。という趣旨の内容が流されました。
そのことにより、幟町小教区の結婚式の数が激減する事態になりました。
そして、某団体は、小教区発行の市民クリスマスのパンフの裏に聖劇をやります。と刷って配布。そのパンフをもらった一部の信者が神父の元に持ち込みました。
さらに、この市民クリスマスはTVでも紹介されたのですが、某団体は、教会と全く同じ手法でTVを使って聖劇を紹介しました。
一般の方には、カトリック教会と某団体の区別はつきません。さすがに、これはまずい。ということになって、急遽、先のお知らせとなりました。
某団体の活動は広島市の成人式会場でも活発だったことがあります。私も証拠品として参考までに持ってますが、昨年は、パンフと一緒にロザリオなども出入口で配布してました。
今年は、広島市職員等の見回りがあったせいで、昨年のようなことはありませんでしたが。。。
確認しておきたいのですが、この掲示板は高松問題について語るように開設された場であって、広島の諸問題について語る場ではありませんよね?。
もし、それをするなら、掲示板開設者に失礼だと思います。(私も今後は、広島について語らないつもりです) 高松問題は、高松教区内での問題です。
他教区の人間はアドバイスすることはできても、教区外ということでオーバーな言い方ですが治外法権が適用され内政干渉になります。
高松で処理できなければ、大阪管区、日本管区・・・の順で処理されますが。。。。
それと、教会から通達の出ている団体の信仰のあり方は、確かに問題がありますが、資料を分析してみると100%悪い訳ではなく、教会が見習わなくてはいけない点もたくさんあります。 新興宗教系団体に走るのは、そこで、自分の存在価値を認めることができるからです。
いわば、サークルのノリですね。そこに癒しがあると感じるのは、要理の理解不足と、確固たる信仰が形成されていないからおこるのです。


あしたに向かって - 01/01/11 21:43:53
どなたか、教えてくださいませんか。新求道共同体に入って、癒されましたか。新求道共同体での体験での愛とは、外の世界に対して愛がない、ということですか?
共同体のなかには、愛が感じられるのですか。それとも、共生的な依存状態なのですか?


まめ - 01/01/11 19:11:17
この場で色々賛否両論している事。いい事ではありませんか。人が2人以上集まる所にイエズス様はいらっしゃるのですから最低限のルールを守って議論する事はいいと思います。
その中から何かきっと答えが見つかると信じています。


- 01/01/11 16:01:39
教会と結婚式場の暗黙のどうのこうの。おかしい書き込みだと思います。神父個人としてあるのはわかりますが、それがすべて教会に結びつけるのはどうなのでしょうか、
愛のない書き込みをされていると別の人は書いていますが、そうやって愛がないなんて書き込むこと自体愛がないのでは。
それならばみんなの意見を殺して、自分だけの主張をホームページに一方的に載せればよいのです。
みんなの意見を聞き、違う考え方、主張を受け入れることに意味があると思います。そのなかで道は見えてくると思う。


広島の某カトリックグループって - 01/01/11 10:51:21
教区ホームページの広島教区本部事務局からのお知らせに掲載されている「マリアン・オーソドックス・カトリック・チャーチ・オブ・広島・ジャパン」についてという警告文に書かれている萩原妙美さんの団体のことでしょう?
この団体は以前「シャーベル共同体」と名乗っていたとか。リトルペブルと同じ名前なのら(藁)以下転載しますと。
「萩原妙美さんとその共同体の信心について」の通達をもう一度確認しておきます。
萩原妙美さんが聖母から受けたというメッセージは、カトリック教会として、真実なものとは認められない。
萩原妙美さんを中心とした共同体の活動や言動や礼拝は、カトリック教会の活動や言動や礼拝ではない。
この共同体が今後、巡礼地、礼拝所、聖地などを造ったとしても、それらはカトリック教会とは無関係のものである。
それらの場所では、如何なる者であっても、聖なる典礼を執り行ってはならない。また、カトリック教会のメンバーとして、それに参加してはならない。
追記:「グランラセーレ広島 本格的カテドラル聖マリア大聖堂クリスマスミサ」は、カトリック教会とも広島教区とも無関係です。


あしたに向かって - 01/01/11 00:13:47
なるほど、愛、閉鎖性、排他的、アガペーの愛。みなさまのお話から、だんだん輪郭が見えてくる感じですね。そう思われませんか。霧が少しずつ、うすくなってきました。


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