2001.4/1-10
ベランダのアロエ【池沢】 - 01/04/10 17:07:42 電子メールアドレス:ikezawa@dol.hi-ho.ne.jp
谷口さま: 司教の参勤交代も終わりました。
何かと大変な番町教会から(上空から見ると湯気が立ち登っていたかも知れません)、神学校のそばの三本松教会の主任に派遣が決まったとか(現地の人から風の便りで)。
まあ、頭を冷やすにはいい所ですね。 これからは小教区に割く時間はそれほど必要でなさそうだし(信者が少ないので)、時間はたっぷりと出来ますね。
あなたの担当である神学校も近いし、ますます力を発揮して、頑張れますね。あなたが得意(?)とする神学校の会計責任も兼務されるとか。
満を持していよいよ発進ですね!復活祭の後、異動が完了したらまたメーリングリストに帰ってきて下さいよ!
理由は二つ、一つはあなたがつけた火の消化活動をお願いいたします。
次にあなたを司祭・神父と呼ぶようにしなくてはなりません。そのためにいくつかの疑問・質問を用意しているのです。このことを解決しなくてはなりません。
このところお静かですが、どうされましたか。司教に何か言われましたか?
あまあまりはしゃぎすぎないようにと、忠告でもありましたか。それにめげるあなたではないでしょう。
その証拠に、毎日をるんるんの気持ちでお過ごしというではないですか。お待ち申し上げております。
マグダラのまりこ - 01/04/05 23:06:06 電子メールアドレス:masano@po.yukichi.ne.jp
こんばんわ。放蕩娘のマグダラのまり子です。みなさんの教区、教会で起こっている問題を見させてもらいました。
私はプロテスタントの教会に行ってるんですが、神様の目に教派は関係なくイエスの十字架によって私たちは神様の家族であることを信じています。
「全世界に伝えられるべきよきおとずれは女性を含むすべての人々を自由にします。自己の価値の認識と成長は、男性、女性を問わずすべての人々のものなのです。ただし、イエス・キリストとの個人的な出会いを経験するという条件付きですが。」
聖書−マタイ9.20−22、マルコ5.25−34、ルカ8.43−48
「イエスの目から見た女性たち」ギエン・カーセンより(いのちのことば社)私たち一人一人がイエスの十字架のもとにお互いを許しあえるようになるために今この時があるんだなって思いました。悲しみは喜びに変わる!絶望は神への希望に変わる!逆境は神様のチャンスです。わたしたちは本当に愛されてる神の子供であり、神の家族なんですね。神様は私たちの問題より大きいのですね。
「まだ目が見ず、まだ耳が聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
Uコリント2.9問題を大きく見るか、神の希望を大きく見るか私たちに選択権があり、いつもそれは私たちの目の前に置かれているのです。置かれてる状況から自己距離化をし、自分は神の子供である事実を日々思い出しつつ歩んでいきたいものです。
祈ってます。みなさんの生涯に主の栄光が輝きでますように。
遊歩 - 01/04/05 16:12:18 電子メールアドレス:yugyosha@nyc.odn.ne.jp
日本の常識さんのご意見に対して。
<高松教区で問題となっている新求道共同体について、その問題を統括している組織が日本国内にはなく、ローマだということは、あまりにも無責任だという感じがします。・・・国旗・国歌には問題があるので、反対するという内容の記事も、一部の人たちの考えがそのままカトリック全体の総意といった感じで報道されているみたいで、責任の所在がはっきりせず、・・・
確かに、新求道共同体に関するような問題を法律的に全国にわたって統轄する機関は、ありません。
しかし、ローマがすべてを決定しているわけでもなく、例になっている件では、高松教区長(司教)が、絶対的ではありませんが最終責任を持っています。
だからこそ一部の人々が憂慮しているともいえます。
国旗・国歌の問題も一部の人の私的な見解ではなく、カトリック中央協議会と言う公的機関の一部署である「正義と平和協議会」の公式見解であって、責任の所在は、そこにあります。但し、このような信仰と直接かかわらない、論議の余地のある問題については、信者の見解を拘束するものではありません。
批判や反対意見を述べるのはまったく自由であります。
- 01/04/05 08:19:28
ところで森岡さんは会社経営に忙しいのでしょうか?
中村 - 01/04/05 02:26:49 電子メールアドレス:lita@mxd.mesh.ne.jp
先日の問に対し、3名の方から貴重なご回答、ご感想をいただきました。
まだ一部しか理解できない状況ですが、取り急ぎ厚くお礼を申し上げるとともに、若干ですが感じたことを述べさせていただきたいと思います。
まず、遊歩さんのコメントですが、各地の司教区の立場や判断がどのようになされているのか等を一般人として理解するのに非常に参考になりました。
このような仕組みの背景には、歴史的な経緯や知恵があるのかもしれませんが、少なくとも「一体誰がどんな立場で何を考えているのだろう」という素朴な疑問は、多少なりともすっきりしたように思います。
次に、日本の常識さんですが、信徒としての立場からカトリックに対しやや憂慮すべき面(発言しづらかったかもしれませんが率直なお気持ちのご呈示に敬意を表させていただきます)を指摘しておられるようです。
やや独断ですが、その憂いは一体何のため、誰のためなのか、ご自身の問題として問いかけて行かれるのも一つではないか、そのようにも思わせていただきました。
最後に「それは何もカトリックに限った事ではないと思います。日本の組織の中にも形は違えどそう言った事はあるのでは?」とのコメントですが、これは自分を含む誰もが引き受けざるを得ない現実を指摘されたものと受け止めています。
多少外れますが、人は誰もが「信じる」ものを拠り所として動いているように思うのです。
ある人が「日本人はみんな『競争原理教』を信仰してるみたいだね」と言うのを聞いて苦笑したことがありますが、同じように組織の理論を信じ込み拠り所とする人がいても決して珍しくありません。
一方で、神と人間の関係を切実に知りたい、伝えたいと願い、世俗を受け入れつつも安易な迎合に走らない人の行為から風のような清々しさを感じるのは、多くの人に共通なのではないかと思います。
私がカトリックの知人たちに親しみを感じるのはこうした想いからですし、だからこそ今回の事態についても注視せずにおれないのです。
- 01/04/04 18:41:12
それは何もカトリックに限った事ではないと思います。日本の組織の中にも形は違えどそう言った事はあるのでは?
日本の常識 - 01/04/02 23:56:24
日本の社会の一般常識として、カトリックの組織は不可思議で不信を招くようなしくみではないでしょうか。
高松教区で問題となっている新求道共同体について、その問題を統括している組織が日本国内にはなく、ローマだということは、あまりにも無責任だという感じがします。
最近新聞にも掲載されていた、日本国内のカトリック学校は、国旗・国歌には問題があるので、反対するという内容の記事も、一部の人たちの考えがそのままカトリック全体の総意といった感じで報道されているみたいで、責任の所在がはっきりせず、新求道共同体とは異なる内容ですが、何か同じ様な体質を感じます。
遊歩 - 01/04/02 11:37:15 電子メールアドレス:yugyosha@nyc.odn.ne.jp
*質問3に対して。別に責任者ではありませんが、ご参考までに一般論でお答えできると思います。日本のカトリック教会の基本単位は、司教区と呼ばれるものです。
教区長である司教は、ローマ法王の管轄権の下にありますが、限定された権限があり、教区における事実上の最高決定者です。
司教は、一司教としても、日本の司教全員が構成している日本司教団としても他の司教・司教区に介入する権限はありません。
さて、ご質問の件ですが、或る団体なり、運動なりが法王庁から禁止された場合、或いは、どこかの司教が禁止した場合、司教は、自分の教区ではその活動を認めないと思います。
どこからも禁じられていない場合、対応は、その教区の事情によると言うことになるでしょう。
原則的には、各団体、運動の自主性が尊重されますが、教区内の他の団体や個人とトラブルを起こす場合は、禁止若しくは制限の対象となるでしょう。
新求道共同体の場合がこの一例です。同会は、どこからも禁止されていませんから、原則的には、司教は、自分の教区内での活動を禁止することはないはずです。
但し、若しトラブルが大きければ、禁止されると思います。幾つかの教区で共同体が禁止されていると言われる意味はそのようなことだと思います。
黙認とか迷惑視とかではなく、あくまでも教区の平穏が重視されると思います。
国民の目 - 01/04/01 18:22:48 電子メールアドレス:lita@mxd.mesh.ne.jp
知人からの紹介でこのページを拝読しました。
現在、カトリック高松教区では重大な問題が生じているとのこと。また、知人は教区の信徒たちの行く末を深刻に案じておられるとのこと。
しかしながら、私はカトリシアンではないため、詳細を知る術もありまあせん。
一方、これは知人の苦悩であることから他人事とは思えませんし、また、カトリックは教育、福祉、ボランティア等でも世間に対して多大な評価を得ていることから、この件は高松教区だけにとどまらず社会的な影響も無視できないものと考えます。
つきましては、以下の3点についてご教示下さい。
なお、私は部外者であることから、今後やぶへびな投稿は控えるつもりですが、事のなりゆきだけは然と見据えるつもりですから、その旨ご了知願います。
*質問1 新求道共同体の教義をご教示下さい。 なお、これは基本的な質問ですから谷口牧師にご回答を 求めます。
*質問2 新求道共同体は東京、大阪、広島で活動が禁止されているとのことですが、その根拠をお示し下さい。
証拠書類の提示が困難であれば、それを示す既成事実等でもかまいません。 あしたに向かっての関係者ならびに谷口牧師にご回答を求めます。
*質問3 新求道共同体に対し、大司教等の日本国内のカトリックの責任者はどのような見解をお持ちなのでしょうか。
新求道共同体の活動を奨励しているのか、黙認しているのか、由々しき集団と見ているのか、等についてご教示願います。 回答者はどなたでもかまいません。
* 以上について、国民としての目線から重大な関心を持ってお尋ね申し上げます。
中村(東京在住、国家公務員)
あしたに向かって - 01/04/01 10:50:35
四旬節第5主日 イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 ヨハネ 8:1-11
みなさま、おはようございます。
朝まで、書き込みしてて、今日はお休み、と休憩をきめこもうとしてたら、主は大切な友人を使って、「おーきろー」と起こしてくださいました。
げんきんな私は、うれしくて目が覚めました。気が付くと、きっちり9時。ミサの始まる時間です。
今の世の中、とても相対的で、その上、罪意識のはっきりしない日本では何しても許される、て言うところあるじゃないですか。
新求道共同体にしても、まず、彼らの存在はうけいれなければならない、というご意見も多く聞かれます。それは、事実です。
新求道共同体のみなさまも神から愛されている人間として、尊重されるべき存在です。でも、やってることは、おかしいと思うのです。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 という言葉を見たとき、私たちは、 罪に定めない。
だけど、もう罪を犯してはならない。」と言われたこと。 みなさん、私たちは、新求道共同体のしていることは、おかしいからおかしいと、言ってきました。
そのことを罪に定める権利はないけれども、罪だと気づいたところがあれば、犯さないようにしてほしい。なかなか解決策が見つかりません。
共生できるか、どうかも大問題です。問題点をもっと探っていかねばなりません。最初の第一歩はしんどいなあ。やさしくなりたい。
あしたに向かって - 01/04/01 06:42:49
みなさま、真剣に私たちのことを、お考えくださいまして、本当にありがとうございます。名無しのごんべいさんの感じられる歯がゆさは、まさに私自身の思いでした。
遊歩さんの、ご助言は、具体的でとても分かり易いもので貴重な指針になりました、
1,のお金の問題では、袖はなくても、どうも借金をする可能性もあるので、不安はぬぐえません。やはり、信徒に負担はかけないという公正証書は必要かもしれません。
2,の基礎共同体方式については、ご助言によりましてはっきりと覚悟を決めました。
昨日、私は岡山県津山市の手前にあります誕生寺という古刹に行って来ました。 それは、一冊の本との出会いからでした。
実は、私はこの一週間、高松教区司祭の人事異動のニュースに心が揺れていたところに、あげくの果て、小豆島教会の信徒会から、新司祭の赴任に伴ってじゃまになったので司祭館に寄付していた合宿用の布団を持ってかえるように指示があり、あたふたと布団を取りに行き、「それじゃ」とそそくさと持って帰ってきたものの、先が全く見えなくなっておりました。
夕食を食べながらも、意味もなく淋しくて、たまたま帰りに寄った本屋で、その書に出会ったのです。「法然」イエスの面影をしのばせる人、井上洋治。
私はさっそくその本を手に入れ、読み始めました。
法然ゆかりの寺を訪ね、彼の求道の生き様を紹介する書を読み進むうち、いっぺん訪ねてみたいものだと思った私の目の中に飛び込んできたのが、「岡山での仕事をはやめにきりあげて津山線にのりこんだ。」という文章だったのです。あれ、岡山、旭川、私は今岡山にいる。
法然は、1133年、現在の岡山県久米郡に、押領使、漆間時国の一人息子として生まれている。
押領使というのは、地方の治安維持に当たる役職であるが、父は法然が9歳のとき、仲違いをしていた明石源内定明という人物に夜襲をかけられ、ひごうの最期をとげる。そのとき時国は死の床にあって、一人息子の法然に次のように語ったと伝えられている。
「敵人を恨むることなかれ。これ偏に先世の宿業也。もし遺恨をむすばば、そのあだ世々につきがたかるべし。しかじ、はやく俗をのがれいえを出て、我が菩提をとぶらひ、みずからが解脱を求には」
復讐するなかれ、と言い残し、この世を去った父の遺言に従い、法然は、9歳にして、叡山を目指します。その幼い法然の旅立の銅像が胸を打ちました。
生涯をかけて僧職や貴族だけではなく、貧しい万人の救いを求めて、下へ下へと降りてゆく法然の生き様を思って、キリストの姿に重なり、感謝の内に手を合わせたとき、その法然の求道の厳しさ、迫力に圧巻されてしまいました。
法然上人の産湯に使ったという井戸にも行き、帰り道、後ろから、「なぜ、おまえはここに来たのか。」という声が聞こえたように思いました。
そして、津山に向かって車を旋回させたとき、「ブチッ、」と切れるような感覚を覚えたのが不思議でした。
切り離される不安、道なき道を与えられた不安。もう動けなかった。でも、もう後ろは振り返らない。
主は、いつも共に歩んで下さるから。歩むこと、そう主は道なのだ。