2001.7/1-10
しょうゆ豆 - 01/07/10 22:23:41
高松教区司教は間違っている。始めから間違っていたとしか思えない。
信徒との話し合いの中、「神学院設立は司教の独断か?」の質問に、「その通りです」と答えられている。
司教団は反対していた。教区内の司祭団も大反対だった。
このHPのコンテンツの中にも書かれている前小豆島教会主任司祭の司教代理も当時は代表的反対者であったそうな。
高松の反対者の人たちは師のもとにわざわざ陳情と相談に行っている。
信者たちには詳しい説明も話し合いも無かったと言う。それでも司教は神学院を設立された。
司教がしりぞかれてもなお残り続くであろう大きく重たいものを、信者の模範たる宗教者がごまかしまでして“独断”で踏み切ってしまわれた。
5千人余りの信徒の最高責任者である方が“独断”で踏み切ってしまわれた。
司祭不足は他教区でも悩ましい問題、それでも「新求道共同体」はダメ、と結論された。
高松教区司教は本当に教区民のことを深く、幅をもって考えられたのであろうか?。
昨年からの経過と司教の対応を知る限りそれは信じられない。
今、仮に退かれたとしても残してくださるものは、信者にとっては有形無形の負の遺産でしかない。
ご自分で蒔かれた種は、ご自分の責任でもって刈り取っていただきたい。
一番底辺で一番小さく弱い立場の者に押し付けられるのは理不尽というもの。
しょうゆ豆 - 01/07/10 21:58:12
7月9日の漬物石さんのコメントの中で「恐怖体験は一度きりで充分です」と書かれていますが、この“恐怖”とはどのようなものであったのかと、とても気になります。
高松の信者さんの中にはなぜか恐怖心を抱いていると思われる方が結構いるのです。
この“恐怖心”はいったいどのような性格のものか?どこからくるのか?実体は何なのか?
いろいろ私なりに推測してみるのですが、はっきりとしたものがつかめません。
ちょうど一年前、バチカンへ直訴の為の署名集めをしていました。
その中で、恐怖心をあらわにする方たちがいました。
(ネオに大反対なのに)その頃、例の小豆島教会のミサ・葬儀問題があった後だったので署名した事で同じような仕打ちを受けるのではないかという思いが働いたのではないかと思っていました。
しかし、時がたつにつれ、それだけではない、もっと複雑なものが働いている、と感じるようになりました。
ネオ問題は信者の心理面に複雑に入り込み信者間の人間関係に絡み、疑心暗鬼の感情を否応無しに発生させるものになっているのではと思うのです。
信者の中にはイエズス様さえ安心して信じられないような悲しい状態になっているかもしれない方がきっといるとおもいます。
いよかん - 01/07/10 21:55:34
http://www.hvri.catholic.ac/Neocatech.htm 読んでみてください。
上天のメリー子 - 01/07/10 21:45:10
宣教闘志満々の新求道共同体司祭の宣教相手なら、エホバの証人をおいて他は考えられませんね。
万が一にも宣教に成功した時には、国内全ての者から拍手喝采を浴び絶賛の嵐になることうけあいでしょう。
日本カトリック内部をあちこち弄くり、突付き回して各地で問題を起こし、挙句に共倒れの危険性まで指摘されている昨今。
最強同士の意地とプライドを賭け、心置きなく宣教試合されることを切に希望いたします。ただし、後で連合軍として来ないこと。
速やかに国に帰り、エホバの有難い教義のお勉強でもしてなさい。
しょうゆ豆 - 01/07/10 21:37:51
柔さん、私達も思いは同じです。一日も早い問題解決を願っています。いろいろしてきました。意見表明もし、主張もしてきました。
でも、私達には確たる後ろ盾はなにもないのです。ネオには司教という強い後ろ盾があります。
寝ても覚めても頭の中はネオ,ネオなのです。何の為の信仰かと思います。何か善い手立てがあればおしえてください。
九枚笹 - 01/07/10 10:32:22
イエスは言われた。
「新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。
新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。
”古いものの方がよい”というのである。」
ルカによる福音書 5、37〜
柔 - 01/07/10 00:30:19
何も知らずに取り込まれていく日本の子供たちのことを思うと胸が張り裂けそうになります。悲劇としか言いようがありません。
今この時に断固たる処置をとらなければ、近い将来必ず同様の問題が再浮上し、その時何の免疫もないか弱い子供たちは阿鼻叫喚の地獄の中を彷徨い歩くのですよ。
それでもこの問題を先延ばしにして放置したいとお思いになりますでしょうか?何故歴史ある日本カトリックの誇りを正々堂々と胸を張って主張できないのでしょうか?
峰山の切支丹 - 01/07/09 20:10:02
高松司教様はなんてご慈愛溢れる方なのでしょう。あまりの嬉しさに、血の涙が出そうでございます。
漬物石 - 01/07/09 02:11:51
今後あの集団と背中あわせで信仰生活するなんてことは、考えただけでも背筋が寒くなります。
恐怖体験は一度きりで充分です。 彼ら団体の運動を何らかの規制で抑えないかぎり、愚かにも再び騒動を繰り返すはめになりかねません。
まったくとんだ爆弾を背負ったものです。 城のお堀は土砂で埋めれば事足りますが、いつ暴発するかしれない危険物までご丁寧にばら撒かなくてもいいのにね。
漬物石 - 01/07/08 17:25:57
00が取り込み詐欺師まがいの手法で、各教会と信者の抱き込みを謀り、更なる体制支配を着々と推し進めている今の現状を見る限り、とても棲み分けで問題解決させて安心を得られるものではありません。
この集団をこのまま野放しにしておいて、この先各教会内におとなしく留まっていることができますでしょうか?。
私たちの後に続く未来ある後継者のことを考えてあげて下さい。今その防波堤になるべき防塁を完璧に築き残すことも考えていくべきだと思います。
危険極まりない腹中の爆弾は、いつでも信管つき時限爆弾に変貌することができるのです。問題の先送りが日本カトリックの崩壊を招くのは明白です。
山岸 史和 - 01/07/08 12:56:04 電子メールアドレス:fumikazu@dokidoki.ne.jp
我が今治教会の10年間を振り返る様な記事ですね。
新求道共同体が、我が小教区に来て以来、当初は、信徒会長以下の主要教会委員を会員にしていき、勢力拡大をしてきています。
その後、前・信徒会長以下、主要教会委員は、新求道共同体と袂を分かち、反・新求道共同体運動に参加しています。
今治教会の現状は、教会委員15名程度のうち、ドミニコ会派・中間派・新求道共同体派とに、三分されています。
(私は、一応、ドミニコ会派の一人として、委員を拝命しています。)
信徒も同様で、新求道共同体支持者は、隣接の西条教会のミサに参加しているそうです。
掛かる現状から、私は、高松司教区全体での小教区担当修道会の大規模変更をして、新求道共同体支持小教区と反対小教区を隣接させて、両者の棲み分けを謀る事を、ずっと提唱しているのです。
悲しい現実ですが、高松司教区は、完全に「分裂」しています。対処療法ですが、そうせざるを得ません。
此の状態を、創価学会・真言宗等々の仏教諸派は批判し、耶蘇教攻撃の格好の材料にしています。そういう、危機意識を持って欲しいですね・・・。以上。
瀬戸内灯台 - 01/07/08 12:38:02
ぷーさま、ご回答ありがとうございました。
新求道共同体司祭が新しい教会に赴任した場合、とり込む信者をまず会長クラスから狙い、それをとり込んだ場合、後に続く信者はほぼ自動的にとり込まれて行く恐れが大いにありますよね。 とくに地方では回避しようがないのではと思われます。
ネオの行動全てを光の下にあからさまに曝け出し、これ以上、日本カトリック関係者全てが地道に苦心して築き上げてきた布石と名誉に対する侮辱、及び侵食を食い止める意味におきましても、くさびを打ち続ける必要性を感じます。
とにかくあきらめないで。 けっして同胞は見捨てたりいたしません。
ぷー - 01/07/08 00:22:26
瀬戸内灯台さんのコメントに対し私が思い当たることを書きます。ネオがつけ込むところの一つに、「寂しさ」ないしは{孤独感}があげられると思います。
つまり、教会にいって、ミサに預かっても、周りの信徒と親しい関係がもてず、孤独感を感じていたところに、ネオが濃密な人間関係を持てる(ように感じられる)共同体を提示した。
その共同体にいると、暖かさがあるように思え、ますますそこから、離れられなくなった。というようなことがあるのだと思います。
白鳩 - 01/07/08 00:15:19
親方こけたら皆こけた、残るは異端の者ばかり。これを嫌って今ごろ裏で必死になって次なる手を画策しているのでしょうね、高松の親方様は。
ぷー - 01/07/07 23:39:46
本日UPされた6月23日教区役員会議事録を見ての感想。
一粒会費3,000万を土地代に使って内というのなら、じゃ何に使ったのか、説明出来なくてはなりません。
こうゆう訳の分からない不透明なことがあるから、ますますネオや教区の方針に不信感を持ってしまうのです。
瀬戸内灯台 - 01/07/07 23:35:04
アサさん。 ネオが信者のどういう弱さにつけ込むのか、そこを具体的に挙げていただければ幸いです。
私も含め、同胞内でも今関心はそこにあります。アサ様以外の方でも、思いあたる事例等あれば教えて下さいませ。
ぷー - 01/07/07 20:17:42
アサさんのコメントに関してですが、ネオはカトリック教会の司祭不足という泣きどころにつけ込んでくるわけですね。
「司祭を供給しましょう。そのかわり、私達のいう通りにしてください」というわけです。足元見てるんですよね。
+ 主よ御照覧あれ - 01/07/05 15:44:57
+ 主よ御照覧あれ。 なりふり構わず権力と体制に取りすがり、正義の本道を見失った哀れなる高松教区の者たちを。
山猫 - 01/07/05 01:22:19
遊歩さん、四国は思っておられるほど広くはありません。
それに、非常に広範囲に信者さんが散在しておられます。
新求道共同体の方々の宣教相手があるとすれば、まだかまだかと待ちくたびれている、お山のお猿と猪しかおられませんよ。
昔、屋島と小松島にも性悪のお狸さんがおりましたが、既に誰からも慕われてた立派な神父様が、きっちりお仕事済まされております。
四国には四国なりの宣教方法がある。それを途中で無理やり割り込んできて引っかき回したのは、いったい何方様でございましょうか?
アサさん - 01/07/04 18:08:14 電子メールアドレス:ashoichi@opfri.oita-ri.go.jp
おおいたのアサです。
遊歩さんの疑問に対するお答えになるとは思いませんが、大分教区の場合を考えてみますと、まず司教様の意向に反する行動をや意見を述べること自体に対する躊躇があること、次にこれが最も大きな問題だと思いますが、司祭不足の教区に於いて、どういう背景を持った司祭であれ、実際に「教区司祭」として自教区に赴任する司祭が増えることに対して、反論するだけのものを持ち合わせていないと感じておられる方が多いのだと思います。
またそこを逆についてくるわけです。
「何と言おうと、実際に司祭や、司教に忠実な信徒が増えているではないか!文句があるなら、これに代わる方法を提案して見ろ!」
と言われれば、沈黙してしまう人々が多いということです。
ですから、私はできるだけその組織活動の実態を自分の目で確かめようとしてきたつもりですが、彼らの運動は人間の弱さと強く結びついており、それが逆に強さとなっている。
まさにエホバの証人の道を歩む人々にあるのと同種の強さを持っています。
遊歩 - 01/07/02 09:22:00 電子メールアドレス:yugyosha@nyc.odn.ne.jp
山岸史和さんのコメントに対して。
山岸さんには何か誤解があるのではないでしょうか。
私が玉造教会にいたのは半世紀も前の子供のころですから、現在大阪教区がどうなっているか分かりません。
しかし、一般論として、司教区は、単一の基本原則で司牧されているはずです。
山岸さんが挙げておられる小教区も修道会にお願いしてありますが、司教区の小教区であることは変わらないと思います。
ですから、修道会と言えども、教区の基本原則を守らなければならないと思います。
ですから、小教区の担当修道会を変えたからと言って基本方針が変わるはずはありません。
新求道共同体と非新求道共同体の小教区の棲み分けをすれば問題が解決すると言うようなことでは無いと思います。
二つのグループが真っ向から対立している時に、その教区の基本原則をどのようにするかと言うことが大切なのです。
新求道共同体を全面禁止とするか、或いは教区全体を「ネオ化」するか、或いは、条件付で活動を認めるか、などを基本原則とすることが必要だと思います。
全くの私案ですが、T教区の従来の小教区はそのままにしておいて、今まで福音宣教がほとんど行われていない四国の広大な地域の福音化を新求道共同体に全面委託とすれば良いのではないでしょうか。
遊歩 - 01/07/02 08:05:30 電子メールアドレス:yugyosha@nyc.odn.ne.jp
今泉洋子さんのコメントへ。
私見では、修道会は、教区司教に対して法的な従順の義務を負ってはいないはずです。
或る修道会が、或る司教区で活動するかどうかは基本的には、その会の自由だと思います。
実際には、修道会と教区長司教との話し合いと、そして恐らく相互契約によって修道会は、その教区で活動することになるはずです。
その限りにおいてその教区で活動する修道会及び会員は、教区長司教の命令に従う義務が発生すると思われます。
以上のことを前提として「あしたに向かって」さんの投稿を拝見しますとどうして修道会、宣教会が適切な行動を起こされないのか不思議な感じがするのです。
修道会は、問題教区以外でも働いているわけですから、自己の修道会の一部が働いている教区が大分裂を起こす危険のある場合、個々の会員の自由に任せると言うのではなく、やはり、会として契約の破棄なり、条件変更なり何らかの行動があってしかるべきではないかと思います。
勿論、問題は、大変デリケートですから自ずと慎重になるのはわかりますが、従来の宣教活動の浮沈にもかかわることですから、何らかのサインが発信されてしかるべきだと思うのです。もっとも私にはサインが届いていないのかもしれませんが。
今泉洋子 - 01/07/02 03:38:32
山岸さん、修道会,宣教会ともに司教様に対しては従順をもっておられることは明白ではないでしょうか。
要望書を提出することや、責任役員会,評議委員会で意見を出すことは従順に反することではないと思います。
あしたに向かってさんやその同調者の方々は、信徒の立場で信徒としての責任で行動しておられることで、修道会、宣教会にはなんら関係ないことです。
それから、これはわたしの考え方ですが、信徒が自由に教会を選ぶなんてことはイエスさまお喜びになると思いますか。
私たちが洗礼の恵みをいただき教会に集まることは、ミサにあずかり良い気持ちになるためではないでしょう。また自分の意見と同じ人たちと交わるためでもないと思います。
私たちには福音宣教という大きな使命が託されています。自分の住む町にイエスさまのよい知らせ(福音)を自ら証しながら告げ知らせることです。
そのためにも自分の住む地域にある教会がそれぞれに与えられた教会ではないのでしょうか。
新求道共同体の神学院をむりやり高松教区立神学院として新求道共同体の精神でしか司牧できない司祭を教区司祭として迎えなければならないことが問題なのです。
新求道共同体がきちんとした会則を持ちバチカンから修道会として認められたうえで新求道共同体の新学校を設立するのなら問題ないと思いますが、「名前だけかしてくれ」から始まって設立された「高松教区立神学院」を教区民に押し付けることは認めるわけにいかないと思っています。
今泉洋子 - 01/07/02 02:52:47
遊歩さんのご意見から、宣教会・修道会の声が聞こえないとのことですが、ミレニアムの虚構にも書かれているように、1996年深堀司教様に対して共同体の歩みと行動に対して要望書が出されています。
それにともなって、修道会が司牧する教会で,共同体が活動していた2つの教会ではその活動を禁止されました。
又他の一つの教会では信徒会自らが共同体の一切を排除する旨の宣言文を司教様に提出しています。
もう一つ、宣教会、修道会の代表として高松教区の責任役員を務めている方々が、教区立としての神学院設立に反対しておられるから、ミレニアミの虚構を出された森岡さんが問題としている、議事録の偽造、それを追認する偽造議事録追認動議の強行議決などの一連の問題がおきているのではないでしょうか。
山岸 史和 - 01/07/01 22:30:18 電子メールアドレス:fumikazu@dokidoki.ne.jp
私の聴いた範囲内ですが、「修道会・宣教会としては、中立的立場です。司祭・修道者個人としては、それぞれの意見があります。」との事だそうです。
(私が、当初論じていた、「司教区・対・修道会(宣教会)」という図式とは、違うとの事です。このむね、注意がありました。)
それと、私が、高松司教区全体での小教区の担当割の変更を提唱するのは、かつて、私が受洗した大阪大司教区の小教区の担当割を参考にしているからです。
受洗教会の布施教会は、大阪大司教区司祭(現;ブルゴス会士)の担当ですが、隣接の生野教会は、フランシスコ会士(日本管区・関西・母修道院)の担当であり、という具合に、教区司祭・修道司祭の担当小教区が、互いに隣接していて、信徒は、自由に、在籍教会を選択しているからです。
この方式を、我が高松司教区にも導入して、ネオ・カテクメナート賛成派・反対派双方の拠点たるべき小教区が隣接し、司教区全体に、まんべんなく散在している状況を作り出すことを、目指します。
これが実現できてから、双方、神学論戦や宣教合戦をすればいいのでは無いでしょうか?その後は、高松司教区民の個々の自由選択ですよ・・・。以上。
ぷー - 01/07/01 21:55:38
宣教家族が、福音宣教を自分達の世界に日本の信徒を引き込むことだと考えているとしたら、それは大きな間違いです。
福音の普遍性(カトリック性)とは、いついかなる時代、いかなる場所でも、人間の心に染み通っていく内的実力をいっているのであると思います。
他者の大切にしている文化、価値観、伝統などを、否定、もしくは、破壊する形で、ネオの宣教家族が福音宣教を押し進めていこうとするなら、日本の教会においては大変な反発を招きますし、早晩、そのやり方はいきずまっていくに違いありません。
遊歩 - 01/07/01 21:24:19 電子メールアドレス:ishiwaki@ic.nanzan-u.ac.jp
素朴な疑問です。T教区の現況が、あしたに向かってさんの言われるようであれば、同教区で働いておられる修道会、宣教会からの声が一向聞こえないのはなぜでしょう。
それから山岸史和さんのおっしゃていることがよく分かりません。もう少し説明していただけるとありがたいです。
山岸 史和 - 01/07/01 20:42:33 電子メールアドレス:fumikazu@dokidoki.ne.jp
新求道共同体=高松司教区の状態が、固定化しているからこそ、修道会・宣教会の存在の意義が重くなりました。
現在の様な、一定地域を「教区司祭」「修道会・宣教会」の担当とするのではなく、それぞれの拠点教会が、散在している、大規模司教区での小教区の担当割方式の導入が必要なのです。
そうすれば、双方とも自派の信徒の獲得のため、宣教活動にも熱心になりますし、少なくとも、信徒の教会籍の選択の自由と言う形で、信仰の自由が保たれると考えます。
ネオ・カテクメナートへの反対派・賛成派双方とも妥協可能な提案だと思います。
小教区担当割変更が実現して後に、対等な立場で、論戦・宣教合戦をすべきでしょう・・・。以上。
あしたに向かって - 01/07/01 17:57:38
高松教区の現状と新求道共同体について、身近な問題として理解していただきたいと思いましたので、一言書かせていただきます。
ネオの問題は、日本のカトリック教会を転覆させるほどの問題だと思っています。
ですから、私たちは、今までの信仰生活のすべてをかけて反対したのです。
今は、沈静化してしているかのように見えますが、それは、問題が深刻になってきていることなのです。
高松教区は、司教座、教区事務局、教区 司祭司牧教会すべて、ネオに掌握されました。
このまま放置されると、教区は、大分裂を起こし、信徒はまっぷたつに分かれ、その内、多くの信徒はキリストを見失い、教会から離れていくでしょう。
ネオからもたらされる分裂というものが、体験されていない方には、なかなか理解されません。
しかし、いったんそれを体験したら、多くの人が、心に大きな修復しがたい傷を負うのです。
ネオによって分裂した教会の信徒は、信仰の自由を奪われていくのです。
私たちは、ネオ許容派か反ネオか、いずれかに分けられ、反ネオは徹底的に弾圧されます。
その見せしめにおののいて、多くの信徒たちは、見ざる、言わざる、聞かざるの状態になっていきます。
そして、何も考えない、状態になっていくか、そんな教会に嫌気がさして、教会から離れていきます。
お互いに不信感が満ちていきます。
そして、何も、言わなくなるのです。
私たちの声を聞いてくれ、助けてくれる存在はありません。
そして、静かになってしまう。
ネオの問題は、様々な要素を持っています。
なぜ、ネオが深刻な分裂をもたらすのか、それが解明されなくてはいけません。
そして、ネオに入った信徒も、入らない信徒も再び一つになれるような、新しい革袋が必要です。
状況は、絶望に近く深刻です。
しかし、私たちの真の牧者は、主、キリスト。
「主よ、あなたは、神の子キリスト、永遠のいのちの糧、 あなたをおいてだれのところに行きましょう。」
アサさん - 01/07/01 10:42:07 電子メールアドレス:ashoichi@opfri.oita-ri.go.jp
新求道共同体が入り始めた頃、宣教家族も突然やってきました。そして、「日本人の信仰は生ぬるい、本当の信仰に目覚めてください!」と言った。
神父さんも同じようなことを言った。
彼らの頭の中には、鳥居や狛犬、お寺の伽藍や仏様そういう風景の中で育った私と違って、大きな教会のステンドグラス、十字架、街を歩けば教会に向かう人ばかりの原風景があるのだろうと思った。
その人達にどうやって私の中にある原風景を見せたらいいのだろうと暗い気持ちになったことを思い出します。